一章(1)

 馬鹿と煙は高いところが好きとはよく言ったもので、この学校の教師が言うところの馬鹿である僕は、今日も空が一番近く見える場所へ逃避行をすると決めていた。

 帰りのホームルーム。諸連絡のあと、担任が締めの話をして、放課後となる。

「お前らどんだけ頭が悪いんだよ。遊ぶな! 部活もやるな! 学校をやめるか今すぐ死ね。いい加減にしろよ馬鹿どもが。……以上。課題未提出者は残ってやるように」

 担任が教室を出ていく。クラスメイトたちが死体のような顔つきで問題集を広げ始める。

 そんな彼らを尻目に、僕は静かに席を立った。

 未消化の課題をバッグの中に残したまま、何食わぬ顔で教室を出る。

 一秒たりともあのクソみたいな空間にいたくなかった。

 トイレに行く生徒に混じって歩く。教師の目を避けながらいつもの場所に向かう。

 廊下の最奥。薄暗い階段をぐるぐると何度か上って、辿り着くのは最上部。

 そこにある鉄製の扉を肩と腕で押し開く。

 心地のいい風が吹き込んできて、それと同時に、僕の視界が開けていく。

 目に入るのは、雲がちりばめられた夕暮れの空。それと、小汚いタイルの床。

 空と床の合間には、僕の背丈より少し高いフェンスがいくつも並んでいる。

 ここは本校舎の屋上だ。本来、生徒は立入禁止のはずの場所である。

 僕は入ってきた扉を閉め、そのすぐ横の壁を背に腰を下ろした。

 ズボンのポケットからタバコを取り出して、口に咥える。ライターで火をつけて、先端部が赤く、黒く、そして白くなったら軽く息を吸う。

 煙を肺に入れないよう、口元でゆっくりとふかす。

「ふーっ……」

 息を吐くと、口元に溜まっていた煙が空に消えた。それは茜と群青の混じったハロウィンみたいに無邪気な空を汚す行為のようで、どことなく背徳的だと思った。

「すぅ……ふーっ……」

 小学生のとき、集団に馴染めない人の気持ちを知った。

 中学生のとき、授業中に寝る人の気持ちを知った。

 そして高校生となった今は、タバコを吸う人の気持ちを知ってしまった。

 この屋上に来るたび、僕は父の部屋からくすねたタバコをふかして時間を潰している。

 今の僕を見て、頭の悪い奴だと思う人間がいるかもしれない。

 今の僕を見て、ろくでもない奴だと罵る人間がいるかもしれない。

 でも、このタバコをふかすという行為は、僕──夏目なつめれんにとっては大きな意味のあるもので、どうしてもやめることができない不法行為だった。


 沈みかけの太陽から熱を感じる。そういえば最近、少しだけ暑くなってきた。

 屋上の扉が施錠を忘れられていると気づいたのが、たしか四月の初旬だったはず。

 この屋上に通い続けて、そうか、もう二ヶ月が経つのか。

 時の流れは早いな、と思うと同時に、この場所はそんなに変わっていないなとも思う。

 誰もいない。誰も来ない。屋上は相変わらず時間が止まったように閑散としている。

「……学校をやめるか今すぐ死ね、か」

 タバコを口から離し、喉元に溜まった煙を宙に放る。

 ストレスを薄く引き伸ばして溶かすように、ゆっくりと息を吐いていく。

 空へと昇る煙を、ただぼうっと見送る。誰にも邪魔されない、僕だけの時間だ。

 ああ、このまま僕も煙と一緒に空へ溶けて、霧散してしまえたら楽なのに。

 そんなことを思いながら筒先の灰を落とし、タバコを口に咥え直す。息を吸う。

 ──そのときだった。

 突風とともに、横からキィという音がした。

 聞こえたのは、金属の部品が軋んで出る摩擦音。それは、二つの意味で嫌な音だった。

 耳障り。そして、誰かが屋上の扉を開けた音だ。

「やばっ……!」

 思わずそう口にしたときには、もうすべてが遅かった。隣の扉から人が出てきていた。

 僕は身を隠すことも、喫煙を取り繕うこともできなかった。

 咄嗟にできたことといえば、情けない角度の会釈だけ。

 つまるところ僕は、屋上にやってきた人物とばっちり目が合った。

「あ……えっと、どうも」

「……いやいや。どうも、じゃないでしょう。この進学校にこんな典型的な不良がいるとは思いませんでしたよ。びっくりしたなぁ」

 入ってくるなりそう言ってきたのは、一人の女子生徒だった。

 上履きのカラーは赤。一年生だ。

 ぱっちりとしたまつ毛。黒水晶のような艶のある瞳。控えめな桜色の唇。幼さの残る丸顔はふんわりとしたボブカットの黒髪に包まれている。身長は低め。化粧っ気はない。素朴で自然なかわいさ……言うならば、妹的な魅力を全身に詰め込んだような女子だった。

 ああ、くそ。まさか人が来るとは。油断していた。もう少し警戒しておくべきだった。

 見るからに真面目そうな感じの子だ。なにをしに来たんだろう。

 遭遇したのが教師じゃなかったのは幸いだが……どうしようかな、この状況。

「……あの」

 悩んでいたら、女子生徒が僕を見下ろす形のまま声をかけてきた。

「つかぬことをお聞きするのですけど、その喫煙に、なにか理由はありますか?」

「……え? はあ? えっと……なに? 理由?」

「はい。私の勘違いでなければ、先輩は今、タバコを吸っていましたよね」

「……まあ、吸ってたけど」

 僕が戸惑いながらも頷くと、女子生徒はやけに真面目な表情になって、

「先輩、お一人ですよね。誰かに対してかっこつけているわけでもないのに、校内という教師に見つかる危険性のある場所で喫煙をしていたわけですよ。そこには並々ならぬ理由があるのでは、と思いまして。あったらぜひとも教えてほしいな、と思いまして」

 なんだ。初対面でいきなりなんなんだ、こいつは。

「どうだっていいだろ。なんでそんなこと聞いてくるんだよ」

「ちょっとした思考テストですよ。お願いします。答えてください」

 女子生徒は真剣な眼差しのまま、じっと僕を見つめ続けている。

 ええ……。怖いもんなしかよ、こいつ。マジで答えさせるつもりか。

 ……まあ、説教されたり通報されたりするよりマシか。適当に答えて帰ってもらおう。

「ウチの高校、課題が終わってない奴は、下駄箱で待ち伏せしている教師に捕まって残ってやらされるだろ? だから僕は、完全下校時刻までここで時間を潰してるんだよ」

「その回答は『タバコを吸っている理由』ではないと思うんですけど」

「…………」

 心の中で天を仰ぐ。ああ、厄介な奴に捕まった。

 なんなんだよ思考テストって。僕のことなんて放っておいてくれよ。

 仕方ない。話してやるか。無視するほうが面倒なことになりそうだ。

 僕は一口ぶんの煙を空に放ってから、女子生徒に本当の理由を語ってやることにした。

「ここでこうしてタバコを吸っていると安心……というか、スッキリするんだよ」

「帰るまで我慢できないだけですか。単なる依存症でしたか」

「いや、依存症ってわけじゃないよ。そもそも煙は肺に入れてないからな」

 女子生徒が「ならどういうことです?」と聞きたげに見つめてくるので続きを話す。

「僕はこの学校が嫌いなんだ」

「……ほう」

「一年の君も、もうわかってるだろ。この学校の成績主義の実態について。教師どもは勉強できない人間に暴言を吐く。成績上位クラスの人間は、下位クラスの人間を下等生物として扱う。学力と成績だけで人間性が計られるこの学校が、僕は大嫌いなんだよ」

「ふむ。なるほど? いいですね。続けてください」

「ここみたいな進学校でタバコを吸うような不良はいないだろ? ここでタバコを吸っていると、自分が最底辺に堕ちているような感覚がして安心するんだ。赤点とか課題未提出くらいで暴言を吐いてくる教師どもを馬鹿にしているような気になる。この学校を支配している成績主義の差別法を嘲笑っているような気になる。だから、スッキリするんだ」

 これは間違いなく僕の本音。学校でタバコを吸う浅はかで愚かしい理由だ。

 完全下校時刻まで時間を潰すというのは、単なる口実というか、第二の理由でしかない。

 僕がここでタバコを吸っているのは、教師に隠れてする反抗行為が気持ちいいからだ。

 わかっているさ、僕だって。タバコを吸うって行為が間違っているってことくらい。

 でも、こうでもしてストレスを解消しないとやっていられないんだよ。

 このクソ高校のせいで僕は、学校を仮病で休んだり、赤点を取ったり、留年しそうになったり、すでに多くの間違いを犯している。ひどい人生を歩まされている。

 もういいだろ、タバコくらい吸ったって。

 どうせ今の僕は間違いだらけだ。なにも変わらん。

 女子生徒は、未知の存在である不良の回答を聞いて満足しただろうか。

 見ると、彼女は腕を組み、片手を顎に当てて考える仕草をしていた。それから自問自答するように何度か頷き「あー、スッキリしちゃってるんですねぇ……」と独り言を漏らす。

 彼女がこちらに向き直るのに、そう時間はかからなかった。

 女子生徒は非常に冷淡な表情になって、僕に対して軽く会釈をした。

「はいはい。だいたいわかりました。ありがとうございます。女々しいですね」

「……は? ちょ、おいっ」

 スタスタと屋上の奥へ歩いていた女子生徒が、立ち止まって振り返る。

「なんですか。私になにか用ですか?」

 しまった。チクチク言葉で刺された意味がわからなくて、思わず呼び止めてしまった。

「あー、えっと……その、なんだ。今言った女々しいって、どういう意味だ?」

「そのまんまの意味ですけど。先輩はこの学校が嫌いだから、反抗としてタバコを吸ってる。でも、教師と揉めるのは面倒だから、こっそりやってる。そういうことですよね」

「いや……まあ、うん。そうなんだけどさ」

「先輩がこの学校を嫌っているのはわかりました。上位クラスの人間や暴言を吐く教師に対して嫌気が差しているのも理解しました。理解は、しましたけど」

 女子生徒は力強い口調で「でも」とつけ加えて、

「それでやることがこっそりタバコを吸うって……そんなの嫌いな相手を脳内で殴っているのと一緒じゃないですか。結局のところなにもしていない。要するに、学校が気に食わないからここで不貞腐れているだけでしょう? ほぉら、女々しいじゃないですか」

「はぁ?」

 ぞんざいな物言いに、僕は思わずぴくりと眉を動かしてしまった。

 たしかに今の僕は、嫌いな相手を脳内で殴っているだけかもしれない。

 でも、なにも知らない奴に女々しいと言われるのは癪だ。

 僕だってやれるだけのことは……正しい反抗は、やってきたはずなんだ。

「勝手に想像で毒を吐くなよ。僕はたしかにこの学校が嫌いで、ささやかな抵抗としてタバコを吸ってストレスを発散している。でも、なにもしてこなかったわけじゃない」

「と、言いますと?」

「……学校に抗議した。……成績が悪いというだけで暴言を吐かれたり、人格を否定されたりするのはおかしいって、僕はきちんと教師どもに言ったことがある」

 女子生徒の目が少し変わった。見開く、とは少し違う。表現が正しいかどうかはわからないが、なんとなくゴミを見る目から人を見る目になったような気がした。

「すみません。それ、詳しく聞かせてくれませんか」

「詳しく、か……」

 まあ、憤りに任せてここまで話してしまったのだ。話してもいいか。

「……二ヶ月前。今年度の初めのことだ。教師どもの暴言がストレスで仕方なかった僕は、比較的話のわかる教師を呼び出して『あまり乱暴な言葉を使わないでほしい』って伝えたんだ。『あまりに暴言がひどいようなら出るところに出る』とも言った」

「へえ、そうでしたか。……で? どうなったんです?」

「えっと、きちんと相談があるって言って教師を呼び出して、すごく真剣な顔で話したから受け入れてくれたよ。僕が希望したとおり、他の教師にも僕の訴えを伝えてくれた」

「ふむ、それで?」

「その日から教師の暴言はまったくと言っていいほどになくなった」

 女子生徒が目を丸くする。

「え、本当ですか? この学校で? 奇跡ですね。よかったじゃないですか」

「いいわけあるか」

 自分が想定していたよりも強い声が出てしまった。

 タバコをふかして、一呼吸。心を落ち着かせる。

「たしかに暴言はなくなったよ。『僕にだけ』な」

 言い放つと、女子生徒は僕のセリフを反芻するように押し黙った。しばらくして、意味を理解したのか「ああ、なるほど」と呟き、苦笑いのような表情になる。

「あなた以外の生徒は相変わらず罵倒され続けていた、と」

「そうだ。僕の前の席の奴も後ろの席の奴も暴言を吐かれて人格を否定されているのに、『僕だけ』はなにも言われなくなったんだ。……そうじゃないだろ、僕が言ってるのは」

 二ヶ月前、僕は気づいた。そして絶望したのだ。

「あいつら教師は僕の訴えを聞いて心を改めたわけじゃなかったんだよ。僕がうるさいクレーマーだから、腫れ物のように扱うと決めただけだったんだ」

「ああ……それはそれは、お気の毒様でしたねぇ」

 女子生徒は口角を吊り上げる意地の悪い笑い方をした。でも、そこに僕を馬鹿にするような雰囲気はなくて、むしろ彼女なりの慰めの表情であるようだった。

 僕は目を閉じて話を続ける。

「それから状況はさらに悪化した。僕だけ贔屓されているって理由で、同級生の奴らに疎ましげな目で見られるようになった。端的に言ってクラスでハブられるようになった」

「あらら。進級直後ですもんね。共通の敵を叩いて仲を深めるというアレですか」

「そうかもな。知らないけど」

 教師の与える価値観に踊らされているだけの人間の考えはよくわからない。

「今ここでタバコをふかしているのは足掻いた結果なんだよ。真っ当な反抗をして、現実をいい方向に変えられなかったから、タバコをふかして諦めてるんだ。わかってくれたか?」

「はい、十分に。ありがとうございます。先程は失礼しました、先輩」

 意地悪く口角を上げたまま、女子生徒は深々と頭を下げた。

「あ、いや、いいんだ。ごめん。僕も変なプライドで突っかかって」

 いきなりちゃんと謝るなんて、なんなんだろうな、この子。

 さっきまであまり表情を変えなかったくせに、今は笑うし会釈より深いお辞儀もする。

 彼女の中にどんな心情の変化があったのだろう。読めない。「他人の不幸は蜜の味」なんてセリフが頭に浮かんだが、彼女には当てはまらない言葉のような気がした。

「真っ当な反抗は無意味、ですか。やっぱり腐ってますねぇ、ここは……」

 女子生徒はゆったりとした足取りで、僕のすぐ横にあるフェンスに近づいた。指を差し込んで網目を掴み、憂いを帯びた表情で下方に広がるグラウンドを眺める。

 そんな横顔に向かって、僕は半ば無意識に声をかけていた。

「ねえ、君さ」

 女子生徒が僕を見て小首を傾げる。

「はい? なんです?」

「君はどうしてこんな場所に来てるんだ? 屋上は立ち入り禁止になっているはずだ。僕のこと不良呼ばわりしていたけど、ここに来ているんじゃ君も同罪だろ」

「いやいや。同罪じゃないです。私はタバコ吸いに来たわけじゃないですし」

「じゃあ、半分同罪だ」

 女子生徒は「それならそうかもですね」と目を伏せて微笑んだ。

「なんというか、罪が同じなら理由も先輩と同じようなものですよ」

「まどろっこしい言い方だな。つまり?」

「学校が嫌なので逃げてきました」

「ははっ。……そっか。それなら、僕と同じだな」

 彼女の言っていた「思考テスト」の意味が、本当になんとなくだが、わかった気がした。

 女子生徒と目が合う。僕らの間に風が吹く。

 僕が「吸うか?」と青い紙箱を差し向けると、彼女は「遠慮しておきます」と興味なさそうに首を横に振った。その返事を聞いた僕の内心は、残念と安心、半々だった。

 指先でタバコの先端の灰を落としながら、僕は呟く。

「……なにがあったのか知らないけど、君も大変なんだな」

「まあ、そうですね。それなりに」

「僕みたいにはなるなよ。……卒業までの三年間、君が壊れないことを祈ってる」

 その言葉は、劣悪な高校に入ってしまった後輩に贈る最大限のエールだったのだが。

 彼女は、僕の思いを実にあっさりとした口調で斬り伏せた。

「大丈夫です。私、退学するので」

「ぶふっ! げほっ。ごっほ! ごっほごほっ!! おえ」

 僕はむせた。盛大にむせた。

 あまりにも突飛なことを言われたので、驚いて一瞬だけ肺に煙を入れてしまったのだ。

「大丈夫です?」と覗き込んでくる女子生徒を手で制して、僕はなんとか言葉を紡ぐ。

「退学って……マジで言ってるのか?」

「マジですよ。ほら、証拠です」

 言うなり彼女はスカートのポケット──ちょうど僕がタバコを入れているあたりの場所から、丸めた茶封筒を取り出した。中にある三つ折りの紙を開いて、こちらに向けて見せてくる。氏名は空欄だが、上部にはしっかりと明朝体で「退学願」と印字されていた。

「……退学届なんて初めて見た。マジなのか」

「だからマジのマジのマジですって」

 女子生徒は驚くことじゃないと言わんばかりの表情で封筒をしまう。退学するという行為は彼女にとって大した話ではないらしい。

 退学、か。すごいな、この子。初対面の相手に女々しいと言うだけのことはある。

「ここの教師って平気な顔で死ねとか言うし、身体的な差別発言もするじゃないですか」

 言いながら、彼女はふるふると首を振って、

「あいつらは教師でもなんでもない。人間性を失ったなにかです。どれだけ優秀な学歴を持つ人間であっても、あんな奴らに教わることはなに一つありません」

 その意見にはおおむね、いや、全面的に同意だった。

 ここの教師どもは全員、本当に人格を否定されるべきなのは誰か考えるべきだと思う。

 僕は少し、嬉しくなった。この学校に僕と同じ意見の人がいると知って安心した。

「教わることはなにもないと思ったので、自主退学を決めたんです」

「そっか。……すごい決断力と行動力を持ってるな、君は」

「いえ、別に。讃えられるようなことはしていません。むしろ逆でしょ、退学ですよ」

 本人はそう言っているが、僕は本心からこの子のことをすごい人物だと思った。

 ああ、辛いな。退学届なんて見せられたら、屋上でタバコをふかすだけの自分があまりにちっぽけに思えるじゃないか。たしかに女々しい。情けない奴だな、僕は。

「……いや、君は本当にすごいよ」

 改めて言う。僕はこの一瞬で、この名も知らぬ女子生徒に憧れてしまった。

 でも、誰かに憧れたからといって、自分の人生がすぐに変わるなんてことはない。

 今この場で僕にできるのはせいぜい、吸い殻を携帯灰皿に突っ込むことくらいだった。

 消火を終え、携帯灰皿をポケットに戻し、僕は隣に立つ女子生徒を見上げる。

「実際に学校をやめるのはいつごろになるんだ?」

「夏休み前くらいになる予定です。退学届は貰いましたが、手続きが面倒みたいで」

「あと二ヶ月くらいか。……まあ、なんというか、がんばれよ」

「はい。言われなくても」

 女子生徒は頷いて、再びグラウンドのほうへ顔を向けた。

 横顔。彼女の意志の強そうな瞳が、茜と群青色に揺れている。彼女の表情は覚悟を決めきったようでも、まだ悩んでいるようでもあった。

「…………」

「…………」

 沈黙の中、女子生徒はスカートのポケットからスマホを取り出して時間を確認した。

「完全下校時刻になる前に、私は戻りますね」

 そう言うと、彼女は踵を返して校舎の扉に向かう。

「なあ」

 目の前を通り過ぎる女子生徒の背中に、僕は声をかけた。

「君、またここに来たりする?」

 ドアノブに手をかけたところで固まった彼女は、振り返ってこう聞き返してきた。

「来てほしいんですか?」

 ……まさか質問で返されるとは思わなかった。

 これは、なんて返事をするのが正解なんだろうか。よくわからん。

「ふふっ。なに動揺してるんですか」

 困り果てる僕に、名も知らぬ女子生徒はまた意地悪く笑った。

「安心してください。二度と来ませんよ」

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