そして贅沢な彼女の悩み

卯堂 成隆

その怪物はけっして足を止めてくれない

 小洒落たレストラン。

 名前は知らないけど花のような香りのする高そうなワイン。

 目の前には少しタレ目ぎみの優しい顔立ちをした年上の男。


 テーブルの上に置かれたケーキにはビスケットで作られたプレートがあり、私の名前と祝福の言葉が記されている。


 琥珀よりも暗い木の色と、燭台のオレンジの光に包まれた店の中。

 目の前の男は、腰から背筋にかけて響くような低い声でこんな台詞を囁いた。


「おめでとう、ドーラ」

 そう言いながら、彼はケーキに突き立てられた蝋燭に火を灯す。

 フルーツと生クリームの混じった甘ったるい香りに中に、蝋の焼ける匂いがわずかなコントラストを作った。


 どこか大人の色香の漂う祝福の空気の中、私の口からこぼれたセリフは……。


「神よ、なぜなの!

 なぜ私にこのような試練を与えるの!!」


 天井に向かって吠えながら立ち上がった私に、周囲の客から一斉に視線が集まる。

 静かな晩餐を邪魔したのは申し訳ないが、許してほしい。


 なぜならば……私は今日、恐ろしい宣告を受けたのだ。

 『30歳の誕生日』と言う怪物が私の元に訪れるまであと一年しかない言う、身の毛もよだつような恐怖の宣告を。


「いや、何が試練なんだよ。

 29歳の誕生日を祝っただけだろ。

 何でこの世の終わりみたいな顔してんだよ」


「やめて、そんなおぞましい言葉を口にするのは!

 あぁぁ、婚約者どころか彼氏もいないまま、あと一年で三十路を迎えてしまうだなんて!」

 

 そう、目の前の色男は残念ながら彼氏ではなかった。

 だが、たった二人で誕生日を祝っている事からもわかるように、決して嫌いな相手ではない。


 むしろ誰よりも心を許している相手なのだが……。


「くだらない妄想を根拠に三十路を超えたお姉さま方に対して失礼なことを言うのはやめろ、この残念女。

 すでに三十路に入った俺から言わせると、三十路は最高だ。

 なってしまってからわかることがたくさんある」


「そんな事言う奴に限って、いざとなると若い子がいいとか言い出すのよ!

 この、女の敵!」


 ……とはいえ、本気で彼の事をなじっているわけではない。

 これはただの八つ当たりである。

 我ながら、実に嫌な女だ。


「なんで、なんであたしには恋人ができないよぉ。

 こんなの、どう考えたって世の中の方が間違えているし!!」


 泣きの入った私を見て、彼は大きくため息をつくと、容赦なく私が目を背けたい事実を口にした。


「そりゃ、お前の中身が残念過ぎるからだろ。

 女だてらに国境を守る騎士団長という肩書きもちょっとなぁ。

 就職先ならばともかく、結婚相手を探すにはあまりよくはないかもな。

 この前も、お前のオヤジさんが嫌味ったらしい顔で『いい修道院がないか?』と俺に相談してきたぞ」


「そんなの絶対に嫌に決まっているでしょ、マウロ!

 修道院なんかに入ったら、騎士として働けなくなるじゃない!!」


「そしたら、次の騎士団長は俺かなぁ」


 そう言いながら、目の前の色男……マウロは顎に指をあてながらニヤリと笑う。


 ちょっと何笑ってるのよ!

 ここは私を慰める場面でしょ!


 『騎士じゃなくなったら、それはもうドーラじゃないだろ』とか、そういう言葉が欲しいの!

 分かっているくせに無視したわね!?

 いつもならばすぐにそう言って抱きしめてくれるのに!


 いつもならば飴と鞭の使い方が非常にうまいマウロだが、今日に限ってなぜかとても意地悪である。

 そんな態度がなぜか悔しくて、思わず目の端に涙がにじんだ。


「ちょっとマウロ、あたしを裏切る気!?」


 すると自分は思っていたよりずっと精神的に追い詰められていたのだろう。

 思いもよらない言葉が私の口から飛び出し、口に出してからハッと我に返る。

 マウロは少し眉間に皺を寄せると、真顔で溜息を吐いた。


「おいおい、この程度の冗談で傷つくとか、ちょっとらしくないぞ?

 演技ならその泣きそうな顔はやめろ。

 ものすごく不愉快だ。

 そもそも……上に行きたいならば、お前を裏切らなくったっていくらでもチャンスはあっただろ」


「そ、それはそうなんだけどさぁ」


 正直、マウロがいなければ私はとっくに修道院送りになっていただろう。

 男尊女卑のきらいが強いこの世界、女が騎士として身を立てるならば武術以外の強さも必要になる。


 そして彼は身内びいきを差し引いても優秀で、私にとってはいろんな意味で支えとなる人だった。

 この点に関してはずっと感謝しているし、むしろ私さえいなければ、彼は国の中央に招かれてもっと出世していたんじゃないかと……そんな後ろめたい事を考える事もある。


「それに、結婚したいというのならばいくらでも相手は引っ掛けられるだろ。

 その見た目ならな。

 あとは口を開かず、ニッコリ笑って何もしない女になればいい」


「う、うるさいわね。

 その……自覚ぐらいあるわよ。

 見た目の完璧さに関してはね!」


 そう、自分でいうのも何だが、私の見た目は完璧である。

 だから私の事を歌う吟遊詩人は、誰もがこんな歌詞を並べるのだ。


 女神の美貌。

 月の光で出来た銀色の髪。

 碧玉ジャスパーのように艶やかな肌。


 しかし、その詩人の言葉は最後にこう結ばれる。

 そして、女オークの気性……と。


 なお、観衆はここで一斉に笑う。

 彼らの鉄板ネタなのだ。


「ぷっ。

 相変わらずセンスの無い冗談だよな、まったく。

 でも、いつも通りに戻ったみたいで少し安心した」


「勝手に安心して勝手に笑わないでよ。

 私は本気で悩んでいるんだから」


「はいはい。

 頑張って結婚相手探そうな。

 もしも30歳になった時に誰も相手がいなかったら、俺が貰ってやろうか?」


 返ってきたのは、私の婚期の話になると彼がいつも口にする台詞。


「それこそセンスの無い冗談ね。

 どれだけ付き合いが長いと思っているの?

 さっきのあんたの台詞を借りるならば……そうね。

 私を恋人にするなら、いくらでもチャンスはあったはずよ」


 そう、彼とは恋人になれないのだ。

 あまりにも長く、そして近くに居すぎたから。


 培ってきた時間と思い出が呪いとなって、彼は私の中で兄と言う位置に縛り付けられてしまっている。

 きっと向こうにとっても、私は妹と言う位置に縛られている女に違いない。


「こうなったら婚活よ!

 婚活をするしかないわ!」


 拳を握り締めて『三十路独身』という称号の怪物と闘う事を誓った私だが、なぜか目の前の席から深いため息の音が聞こえてきた。

 見れば、マウロが両手で顔を覆ったままうつむいている。

 何かの祈りの儀式だろうか?


 この人、たまに行動おかしいのよね。

 だから未だに独身で恋人も作れないのかしら?


 私がずっと前から……何度も何度も『間違った選択』をしてしまっていたという、あまりにも罪深い事実に気づくのは、もう少し先の話である。


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