ストラス編

悪魔の王サタン


 暗闇の中にあった意識が不意に浮上し、急に思考がクリアになったマリアンヌはハッと瞳を開ける。


 気がつくとマリアンヌは、自室にある大きな姿見の前に立っていた。


(私、死んだはずじゃ⋯⋯⋯⋯?)


 夢でも見ていたのかと、鏡に映る傷一つない自身の顔にそっと触れる。

 いまいち状況が飲み込めずに混乱するマリアンヌ。しばらくそうしていると、パタパタと軽い足音が聞こえてきた。


 鏡越しに目に入ったのは、ニコニコと眩しいくらいの笑みを浮かべてマリアンヌの元に駆け寄る小さな小さな男の子。

 その子どもは、6歳になるマリアンヌの最愛の息子————オリヴァーだった。



「お母様!!」

「⋯⋯⋯⋯っ!!」


(オリヴァーが生きているわ! ああ、良かった⋯⋯! さっきまでのは悪い夢を見ていただけなのね!)



 自らの元へ笑顔で駆け寄るオリヴァーを、マリアンヌは両の手を大きく広げて受け止める。

 その時、喜びに満ちるマリアンヌの手からバサリと重い音を立てて何かが落ちたが、幸せを噛み締める今、そんなことを気にしている余裕はなかった。


 悪夢の中では冷たくなっていたオリヴァーの暖かい身体をギュッと抱きしめる。


(ああ、オリヴァー! 暖かい⋯⋯心臓も動いてる⋯⋯。ちゃんと生きてるわ⋯⋯!!)


 マリアンヌは泣きそうになりながらもキュッと唇を結びそれに耐えた。



「オリヴァー⋯⋯大好きよ」


 心からそう言って、マリアンヌはオリヴァーの頬に優しくキスをする。

 控えめなリップ音の後、くすぐったそうに身をよじるオリヴァーはその言葉に「僕も!」と元気よく答えた。



(きっと、あの悪夢はより一層義姉たちには気をつけなさいという神様からのお告げだったのね)


 マリアンヌは胸元に輝くロザリオをギュッと大切そうに握りしめる。


 しかし、マリアンヌが心の中で神に感謝の言葉を述べた瞬間、足元にあった真っ黒な古びた本がひとりでに開き、そこからもくもくと黒い煙が上がった。


「!!」


 マリアンヌは見覚えのない本から上がる煙に驚き、オリヴァーを守ろうと小さな身体をきつく抱きしめる。


 その間にも、本からは際限なく煙が上がり続けていた。そして、やがてそれは空中に集まりふわふわと浮かぶ。


「オリヴァー! 大丈夫!?」


 驚いたマリアンヌがオリヴァーの無事を確認しようと彼に声をかけるも、一向に返事は返って来ない。

 そのことを不審に思ったマリアンヌがオリヴァーのようすを確認すると、彼の身体は時が止まったようにピクリとも動くことなく固まっていた。

 その姿はまるで、精巧に作られた蝋人形のようである。


 それどころか、壁にかかっている大きな古時計————いつもは忙しなくカチカチとリズムを刻んでいるその秒針までもがピタリと止まっていた。



「一体どうなっているの⋯⋯!?」


 自分以外の時間が止まっている————そんな非現実的な状況に、マリアンヌは戸惑いを隠せなかった。


 その時、困惑するマリアンヌの耳に聞いたこともないような低く冷たい男の声が響く。


「⋯⋯お前が感謝するのは神などではない」

「っ! ⋯⋯だ、誰なの!?」


 辺りを見回し不意に聞こえた声の主を探すと、信じられない事に先程まで真っ黒な本からもくもくと上がっていた煙の中から聞こえていた。

 ふわふわと頼りなさげに空中を漂っていた煙が今は、一つの塊になっている。


 驚いたマリアンヌが後退ると、その黒い塊の中から同じように真っ黒な細身の男がズルリと現れた。



「————っ!」


 その男の姿を見て、マリアンヌはハッと息を呑む。

 何故なら彼が、今までマリアンヌが21年間生きてきて見たこともないような整った顔立ちをしていたからだ。


 癖のないカラスのような濡羽ぬれば色の黒髪に、不思議と惹きつけられる惣闇つつやみ色の瞳を持つ端正な顔立ちの彼は、マリアンヌの問いに「自分は悪魔である」と答えた。



「あ、くま⋯⋯?」


 それを聴いたマリアンヌは現実味の無い台詞に、ポカンと口を開けて怪しい男を見やる。しかし、彼はそんな突拍子のない言葉を信じてしまう程に人間離れした美貌の男性であった。


 それに、およそ人間業とは思えない登場の仕方であったことと、彼が現れてからマリアンヌ以外の人間も物ですらもその時が止まってしまったのだ。


 こんな事を出来るのはマリアンヌが信仰する神か将又はたまた————。



 何にせよ、悪魔と名乗る彼の言葉には疑う余地のない程の説得力があった。

 マリアンヌはごくりと唾を呑み、恐る恐る口を開く。


「悪魔が一体⋯⋯私に何の用、でしょうか⋯⋯?」

「まさか忘れたとは言わないだろうな? ⋯⋯他でもないお前が、死ぬ間際、この俺に願ったというのに」

「⋯⋯⋯⋯!?」


(死ぬ間際!? どういう事? やっぱりあれは夢ではなかったの⋯⋯? いいえ、間違いなく私とオリヴァーは生きているもの。あれは悪い夢を見ただけなのよ⋯⋯)



 悪魔と名乗った男は、まるで戸惑うマリアンヌの心の内を読んだかのようにニヤリと笑った。


「お前とその息子は死んだであろう? この家の者たちに殺されたはずだ」

「では、なぜ! 私とオリヴァーは今、生きているのですっ⋯⋯!?」

「それは、俺が時間を巻き戻したからだ」

「っ! そんな、こと⋯⋯出来るはずないわ! 第一、そんな事をしても貴方にメリットが無いじゃない!!」

「出来るさ。俺とお前は契りを交わしたのだから」

「!!」



 美しい悪魔の吸い込まれそうなほどの深淵を映した瞳に見つめられ、マリアンヌは全てを思い出した。

 あの出来事は————オリヴァーと自分が殺されたのは紛れも無い、実際に起こった現実だったのだと。


 全ての記憶がよみがえった途端、傷ひとつないはずのマリアンヌの身体がズキズキと痛みだした。


「うぅ⋯⋯っ⋯⋯!」


 マリアンヌはその痛みに耐えられず、膝から崩れ落ちた。



 痛みに顔を歪めるマリアンヌを見た悪魔はフッと笑うと、しゃがみ込みマリアンヌの顎に手を添える。そして、些か乱暴にグイっと持ち上げた。

 恐怖に揺れるマリアンヌの碧の瞳が、ニィッと更に笑みを深める悪魔の姿を映す。



「俺は全ての悪魔を統べる王、サタン。この俺がお前の復讐を手伝ってやろう」







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