極東共和国
ここで当時の情勢を改めて振り返ってみよう。1919年6月にベルサイユ条約が発効、第一次世界大戦は名実ともに終結した。ロシアの革命政府に対する諸外国の干渉のトーンはこれによって大きく弱められた。チェコスロバキア軍団は活動を停止、アメリカ政府は1920年1月に干渉戦争からの撤退を表明。これを皮切りに日本以外の諸外国の兵力はシベリアから兵を退いていった。日本のシベリア出兵はまだ終わらないが、国内では反対論が強まっている。
ロシア国内では、各地でパルチザン闘争と呼ばれる革命派勢力の活動が展開され、白軍は勢力を削がれていく。パルチザン勢力は各地で地方政権を樹立、日本軍の支配域との間でモザイク状の複雑な勢力状況が生み出されていった。
つまり目下のところ極東共和国の対抗すべき最大の勢力は日本であるというわけだが、しかしクラスノシチョコフの視点から見た場合、本当に日本軍が最大の敵であったと言ってよいのであろうか。極東のボリシェビキ党内にあっては、クラスノシチョコフの率いる極東共和国を「革命への裏切り」と呪う声が小さくはなかった。レーニンの支持と委任によってかろうじて地位を維持してはいたものの、クラスノシチョコフは首班の地位にあったとはいえ初めから少数派の立場だったのである。
さて、臨時政府において閣僚会議議長兼外相という地位に自らを任じたクラスノシチョコフはボリシェビキから見れば対抗勢力に当たるメンシェビキ並びにエスエルという共産党内の敵対派閥からも閣僚を抜擢、連立内閣を打ち立てた。さらに人民革命軍と名付けられた国軍を創設する。兵力二万五千人、エイヘという人物が赤軍から引き抜かれて総司令官となった。
極東共和国の当初の最大の目標は、日本の後援のもとザバイカル地方の中心地チタに盤踞するセミョーノフの白軍勢力を取り除くことであった。彼らはこれをチタの栓と呼び、まず日本との粘り強い外交交渉によってザバイカル地方からの撤退を承認させ、攻勢を開始してついにはセミョーノフを亡命へと追い込んだ。10月25日、エイへと共にチタに入城したクラスノシチョコフは即座に遷都を宣言、極東共和国の首都をチタに移した。そして極東全域の代表者をチタに招き、自らの共和国構想を訴え、彼らの承認を得た。即ち、バイカル湖から太平洋までの極東のすべてを支配する共和国の最大版図が、ここに確立されたわけである。
この頃、フェイという名のアメリカ人ジャーナリストがクラスノシチョコフのもとを訪れ、インタビューを行っている。クラスノシチョコフは彼にこう語った。
「よくご存じのように私はコミュニストだ。だが、シベリアにはまだ共産革命は早いということを私はよく知っている。故に、シベリアには当面の間、民主的な資本主義の国家が置かれなければならない。それが極東共和国である。われわれは広大な農地と、豊富な天然資源を有している。われわれが現在必要としているのは資本主義の体制であるが、しかしいずれは歴史の進展とともに、共産主義がシベリアを覆うことになるだろう」
フェイはクラスノシチョコフの構想に極めて懐疑的であり、彼が限りなく民主的で反対派に対してさえも融和的な体制を構築していることを承知の上でなお、この国の体制は『クラスノシチョコフによるワンマン体制である』と記事に書いた。フェイはモスクワにも行って、クラスノシチョコフとは違う派閥に属する共産党幹部に彼について聞いてみた。『彼は囲いから彷徨い出た、一匹の迷える仔羊だよ』とその人物は言った。その頃から既に、モスクワの中央ではクラスノシチョコフの罷免や免職について、或いは処刑についてさえも取り沙汰する声があったという。
さて、そんなことを知ってか知らずか、チタに腰を落ち着けたクラスノシチョコフはアメリカに亡命させていた家族を自分のもとに呼び戻し、1921年1月、憲法制定のための選挙を開催した。
18歳以上のすべての男女が選挙権を与えられた。自由で、平等で、しかも秘密投票が保証された。すべての勢力、すべての派閥が平等に扱われ、白軍の兵士たちさえ投票の権利を認められた。選挙区は五十二に分けられ、比例代表制で、各党派がそれぞれに候補を擁立して選挙戦を戦った。およそ実に共和国的であったが、まったくソビエト連邦的ではない国家の姿がそこにはあった。
日本は極東共和国が自立してロシアの影響力から抜け出すことに期待していたので、これを静観した。公正な選挙の結果として、極東共和国は可及的速やかにロシアに併合さるべきものであるとするボリシェビキは大敗し、学の無い貧しい農民たちの代表が最多数派の地位を得た。クラスノシチョコフは極めて民主的に、共和主義的に、彼らの代表者となった農民指導者スリンキンとともに民主共和国としての国家運営を進めていこうとしたが、ボリシェビキたちは当然のようにこれに反発。選挙から数ヶ月後、極東共和国内のボリシェビキの中心人物であったニコフォロフがクーデタを起こし、エイヘを逮捕した。
クラスノシチョコフは無論これに抗議したが、ニコフォロフは既にモスクワ中央への根回しを済ませており、クラスノシチョコフは後は料理されるのを待つだけの鴨であった。エイヘは任を解かれてシベリアに追放され、まもなくクラスノシチョコフもまた病気療養という名目でモスクワに召喚されて、極東共和国における一切の権限を剥奪された。時に1921年7月。わずかに一年と三ヶ月あまりのクラスノシチョコフの政権は、こうして彼自身の失脚によって幕を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます