Ⅲ Løy―嘘―

26 「うわ……それは嫌ですね」

Ⅲ Løy―嘘―




 自分が世界一不幸だと思っていた頃の、けれど数え切れない程見た夢。

 治癒に重きを置いた人体魔法の副作用での睡眠だ、きっと何日も寝てたのだろう。

 何時もより長い夢だった。そのせいかまだ頭が朦朧とする。空が茶色い。


「……?」


 一拍置いて、ウィルはそれが天井である事に思い至った。ならあの事故から無事生還出来たのだろう。


 ――アストリッドは無事だろうか。


 そう思った途端五感が指先まで戻ってきた。


「アス――うわっ!?」


 柔らかなシーツの上飛び起き――1番に映った光景は、着替え中の赤髪の女性の背中。

 すぐに誰の物か分かって悲鳴を上げ枕に突っ伏した。雪合戦中に丸められた下着でも投げられた気分だ。


「きゃっ!? え!? 起きたの!?」


 返って来たのは同じく慌てているアストリッドの声。彼女が無事である事に安心したが、胸のバクつきは止まってくれなかった。


「な、な、なんでここで着替えてるんですか!? いえ、ここはどこですか!? みんなは無事ですか!?」

「ごめんなさい! ちょっとそのままで居て! 着替えたらすぐに話すから!」

「はい!」


 上擦った声の前では枕に顔を押し付けて頷く以外出来ず、衣擦れの音が聞こえてくる事すら気まずかった。この状況は一体なんなんだ。

 それにしても。

 今一瞬だけ目にした白い背中に、1点だけ気になる物があった。

 白い肌に不自然な火傷の痕。ロヴィーサに折檻された物なのかと思うとズキリと胸が痛んだ。


「ふう……ごめん、もう良いわ。貴方、3日も寝てたのよ。もう起きないと思ったんだから」


 許可を貰い向き直って、正面に居る人物に視線を向ける。

 緑を基調としたジャンパースカートを着ているアストリッドはホっとした表情を浮かべて窓際に移動する。ガシャっと音を立てて白いカーテンが開き、起きたばかりには痛くもある眩い光に目が細まった。


「ここはタルヴィクの宿屋よ。ソニアさんは無事、あの時は有り難うね。あの後貴方のおかげで無事に浜辺に着いた私達は、眠った貴方を背負いながらタルヴィクに到着した。航海保険の件でルーベンさんはトロムソに、他の船員達はハンメルフェストに戻ったけど、まだソニアさんは隣の部屋に居て貴方が起きるのを待ってる」

「タルヴィク……良かった」


 聞き覚えのある町名。それに全員無事だと聞き、自然と呟きが漏れ肩の力が抜けた。


「待ってて! 貴方が起きた事、ソニアさんに教えてくるから!」


 声を弾ませて言う少女は早速木製の扉に向かって歩を進める。

 何日も寝てしまったからと言って、別に病人なわけではない。寝すぎて少々体は痛むが、遠ざかる背を呼び止めるように寝台から立ち上がった。


「俺も行きます。……アストリッド、あのすみません。見る気は無かったのですが、背中の傷、どうしたのですか?」


 名を呼ばれて足を止めた少女は、長い赤髪をはためかせて振り返ると、何を言われているのか分からないとばかりに瞬いた。少しして思い至ったようではにかむ。


「あっ、これ。痛くもないから忘れてた。私ね、まだクリスチャニアに居た物心つく前、凄いお転婆だったのよ」

「ああはい」


 それは容易に想像出来た。なので素直に頷いたのだが、アストリッドはどこか不服そうだ。


「む。これはその時、暖炉の近くで派手に転んで出来た火傷だって。火かき棒も薪もひっくり返して、後片付けも大変だったとか」

「うわ……それは嫌ですね」


 幾ら覚えていないとは言え、その時幼いアストリッドはどれほど泣き叫んだだろうか。当時の彼女の痛みを思うと眉間に皺が寄ってしまう。


「ねー」


 世間話のような相槌を打たれた後、彼女の案内の元ソニアの部屋に行った。

 あの時は有り難う、おかげでまた家族に会える、この恩は一生忘れない、とソニアは自分の顔を見るなりキリストでも見たかのように泣いて感謝を伝えてくる。

 そもそもこの女性を助ける事を提案したのはアストリッドなのだが、そこは関係ないらしい。それどころか魔法使いを恐れもせず礼を言ってくる。

 部屋に入る機会を逃した事もあり、何事かとわざわざ扉を開けて廊下を確認してくる宿泊客が何人も居て気まずかったが、春にクリスチャニアからわざわざ孫が会いに来てくれるんだと泣き笑う女性を見ていると、こちらまで嬉しくなった。

 忌み嫌っていた血が誰かの役に立つ。

 たったそれだけの事で救われる。むしろこちらが感謝したかった。


「ふふっ、ソニアさんってば厨房での厳しさが嘘のよう。でも良かった。私も嬉しいわ」

「……そうですね、俺も魔法使いで良かったって思いましたよ」


 涙が止まらぬソニアに別れを告げ、ひとまず部屋に戻り日の当たるところに落ち着く。


「昼食は部屋で取りましょう、これからの事を話したいの。食堂からパンとコーヒーを貰って来るわ。その間……貴方はもう一度レオンの事を探ってくれないかしら? 大丈夫なのでしょうけど、前回良く分からなかったじゃない。だからもう一度、ね」

「了解しました。ではやっておきます。そう言えば銀貨は無事だったんですか?」

「あら、貴方が通貨の心配をするなんてね。悲しい事に沈んでしまったのだけれど……みんながちょっとずつくれたし、貴方が寝ている間タルヴィクの教会でオルガンを弾く仕事をしていたの。だから少しは問題無いわ」


 赤毛の令嬢から逞しい言葉が飛び出した事に目を丸くする。

 この旅でこの令嬢は自分以上に色々な事を思った筈。力仕事も、厨房の手伝いもしていた。成長していない訳がない。

 彼女を見ながら目を細めたのは、陽の光が眩しかったからだけではない。


「おしっ! じゃあ行って来る」


 そう言い表情からして頼りがいの増した少女が部屋を出て行き、簡素な部屋に1人になった。改めて伸びをし、壁に立てかけられていた杖を手に取って魔法を展開する。


 ――レオン、ごめんね。


 特に調節する事なく飛び込んできたのは、涙声のリーナの声。

 大丈夫だろう、と思っていただけに、聞こえてきた声に心臓が止まるかと思った。もしかしたらレオンは……そんな嫌な考えが否が応でも頭を過ぎる。

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