13 「貴方、恋人が居たの?」

「なるほど。クリスチャニアでは数年に1度くらいしかオーロラは出ませんからね。北部の魅力はやっぱりオーロラかあ……」


 ぶつぶつ呟いている姿は町にも良くいる地元を嫌う青年のよう。少しも魔法使いらしくなくて「ふふ」と笑いが零れる。

 もう海面を随分歩いたようで、振り返っても浜辺はすっかり見えなくなっていた。本島の港も、微かに灯りが見えるだけ。周囲には波の音と氷を突く音以外何も聞こえなかった。

 ふと、思った。


「ねえ、ウィルはどうしてトロムソに来たの? 遠かったでしょうに」

「えっ」


 問いに返って来たのは、どこか焦った青年の声。


「えーっと、それは。人に会いに来たから、ですね。実は人と会う約束をしているんです」


 たどたどしく返された言葉にぎょっとし、今度はこちらが「え」と呟いていた。


「ちょっと! それじゃあ私に構ってちゃ駄目じゃない! 助けてくれた上に本土まで送ってくれただけでもう十分よ。だから貴方は引き返しなさい!」

「ち、違うんですよ! 約束は確かにしていますが、その約束と言うのは半年後なんです! 俺がちょっと早くトロムソに来ただけで! だから貴女をストックホルムまで送る時間はちゃんとあるんです! だから送らせて下さい!」

「それは凄く嬉しいのだけど! 半年後!? それもどうなの!? 早く来すぎにも程があるでしょうが! どうしてそんなに早く来ちゃうの!?」


 静かだった夜の海は一転、蜂の巣をつついたように騒がしくなった。

 この青年はのんびりしてる、のんびりしてる、と思っていたが、どうやらそうでもないようだ。さすがに半年はどうかと思う。

 足の進みも止まり、罰の悪そうなウィルがこちらを振り返る。


「約束の日に備えて、トロムソのような大きい町に少しでも慣れておこうと思ったんです」

「確かに北部の中ではトロムソは大きいけど! 最近は北のパリなんて呼ばれてるし」


 言われてみると納得出来る物があり頷いた。

 山奥で暮らしていたのなら、トロムソくらいの町でも集会所のように最初は感じてしまうだろう。半年も必要かはともかく、慣れておいて損は無い。


「それに……その人に早く会いたくって。顔だけでも見れたら、って待ちきれなかったんですよ」


 続いた言葉もまた意外な物で言葉を無くしてしまった。

 まるで恋人との約束のよう。この青年がそんな抑えきれない一面を持っていた事も意外だが、この町に半年後には会えるような恋人が居る経緯も分からない。


「貴方、恋人が居たの?」

「ち、違います違います! いえ、その人は確かに素敵な方ですが……とりあえず、問題はありませんから」


 先程の騒ぎが嘘のように沈黙に包まれた。

 波の音が先程よりもずっと大きく聞こえる。ウィルが正面に向き直り――何かに気付いたように「あ」と洩らした。


「遠くに船の灯りが見えますね。少し迂回して進みましょうか」


 本土側を見ると確かに航海灯が見えた。離れていれば特に問題無くすれ違えるだろう。

 何となく喋る事は躊躇われ、頭や服に積もった雪を払ってから前に進む。恋人が居るかもしれないとなると、すぐ近くの青年のローブを掴むのが憚られ、先程よりもずっと端っこを掴んでしまった。


「……ねえ、お願いがあるの。本土に着いてからは私をクララって呼んでくれる? アストリッドなんて何人もの王妃が使ったありふれた名前だし、偽名なんて要らないかもだけど、念には念を入れてね」

「構いませんが、どうしてクララなのですか?」


 船の進行方向と被らぬように少々右にずれながら、当然されるだろうと思っていた質問に答えていく。


「クララ・ヴィークって知ってる? 今は結婚してシューマンになったんだったかな」

「ドイツの女性ピアニストですよね。はい、ロベルト・シューマンと結婚しましたよ」


 間を置かず返された事に驚く。

 通貨に疎いと思えばショパンやクララの事は知っている。それに彼女が結婚したのは数年前だ。この青年は少々知識が偏っているように思えた。これも魔法の力なのだろうか。話を盗み聞き出来るなら、流行に通じているのもまあ納得出来る。


「あら? 貴方意外と耳が早いのね。凄い人よ、私も彼女と同じ景色を見たいから名前を借りようと思って。だからクララなの」


 スウェーデン=ノルウェー連合王国の国旗――赤青黄と印象的な――を靡かせているのが目視出来る程船が近くなってきた。どうも漁船のようだった。

 航海灯を遮るように船員が忙しなく往復している様子も見える。頷くだけでウィルが口を開かなくなった事もあり、無意識に息を殺していた。

 ――それだけに。

 ピチャンッ! と足元で魚が跳ねた時は、心臓が口から飛び出るかと思った。


「っきゃ!」


 驚きの余りよろめいたのも、ウィルのローブを強く握っていなかったのも不味かった。氷の上で体勢を崩したので当然のように滑り、視界が横転し始める。

 このままいけば間違いなく頭を打つ。氷はそんなに展開されていないそうなので、冬の海に落ちる可能性だってある。


「危ないっ!」


 目をキツく瞑り衝撃に備えた瞬間、ぐいっと腕を引っ張られ息が止まった。

 予想していた衝撃は襲ってこない。


「大丈夫ですか?」


 一拍後、背中に腕が回され傾いた体を起こされる。後ろ髪の先端に、水に濡れた重みを感じて肝が冷えた。


「あ……、有り難う」


 ウィルが助けてくれたのでもう大丈夫だと言うのに、なかなか気持ちが落ち着いてくれない。ぽた、ぽた、と髪の先から微かに水滴の音がするのも、胸のざわつきに一役買っている。きっとそうだ、すぐ近くにある顔のせいではない。

 その時。後方の船から「誰か居るのか!?」と叫ぶ声が聞こえハッとする。


「ごめん、気付かれた……!」


 慌てて振り返ると船が迂回しようとしていた。誰か漂流してるとでも思ったのだろう、航海灯がゆっくりと、けれど確実にこちらに向かってくる。「おーい!」と言う声も聞こえて来る。


「っ、逃げましょう! 走って!」


 ウィルも不味いと思ったようで、その腕が自分の肩に回される。突然の事に動揺したが、次の瞬間ウィルが走り出したので同じように駆け出した。

 少し走って気が付いた。

 肩を抱いているこの腕は、自分を支えてくれている騎士なのだ、と。確かに転んだばかりの人間には必要な対応だ。

 が、気恥ずかしい。

 この温もりのおかげで随分走りやすいし、何の補助も無く走っていたら革靴ではきっと転んでいただろうとは思う――が。

 思えば異性の温もりを感じたのは初めてだ。

 こんなに安心出来る物だとは知らなかった。ウィルの背が高く意外と体幹がしっかりしているから、と言うのもあるのだろうか。自然と頬に熱が集まってくる。


(こんな時に何考えてるんだろ……)


 今は船から逃げる事だけを考えた方が良い。雑念を振り払うように頭を振った。

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