第四章 奈落の底へ

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 二階堂の死体を見つめたまま呆然としていると、悲鳴を聞きつけた犬飼が裏口のほうからフロアに入ってきた。

「今の悲鳴はなんだ?」

 こちらに向けて苦情を言いかけた犬飼の顔が、二階堂の遺体を見るなりさっと凍りついた。すぐにポケットから携帯端末を取り出し、どこかに電話をかけながらタイガ達に向けて言う。

「そこを動くな。今から梶さんと猪原を呼び出す」

 犬飼が電話を終えてからしばらく待つと、梶と猪原がフロアに入ってきた。梶は全員に遺体に近づかないよう指示を出すと、二階堂の遺体に近づいていく。遺体の状況をしばらく検分した後、ようやく梶はこちらを振り返った。

「第一発見者は誰だ?」

「……あ、あたし」

「二階堂を見つけたあと、彼女を動かしたり触ったりしたか?」

「そ、そんなことするわけないじゃん!」

 由紀が動転し切った様子で叫ぶので、梶は彼女からまともに証言は得られないと察したようだった。すぐにタイガに視線を向け、問いを投げてくる。

「どういう状況で遺体を発見した?」

「あの後、VIPルームでしばらく由紀さんと雑談してました。で、事を始める前に由紀さんがトイレに行くって言ったので、それを待ってたら悲鳴がして、フロアに出たらこの状況って感じです」

「トイレに立ってから悲鳴までの時間は?」

「部屋を出て割りとすぐに悲鳴が聞こえたので、一分も経ってなかったと思います」

「VIPルームに二人でいた間、何か外から物音は聞こえたか?」

「いえ、特には」

「……仕方ないか。あの部屋は防音性能がいいからな」

 タイガの状況説明を聞いて、梶は考え込むように細い顎に手をやった。

「二階堂は絞殺されている。絞殺には最低でも数分は時間が必要だから、由紀がVIPルームを出てすぐのタイミングで二階堂を殺すことはできない。君達二人が共謀して嘘をついている可能性はあるが、すぐにバレる嘘をつくほどバカではないだろう」

 すぐバレるというのは、VIPルームに仕掛けられているという隠しカメラのことを言っているのだろう。いずれにしても、タイガに殺害が不可能なことは全員が察したはずだった。

 梶は更に全員を見回してから、検分結果を述べる。

「遺体の目は閉じられていて、首には吉川線……絞殺に抵抗した引っかき傷が残っていなかった。二階堂はおそらく、絞殺される前に意識を失っていたんだろうね。とはいえ、二階堂を気絶させるのは簡単じゃない。彼女は警戒心が強いし、元高校からの全国大会出場者だからね。口元から微かなアルコール臭がするのと、死体にもみ合った形跡がなかったことを考えると、アルコールに盛られた睡眠薬で眠らされた可能性が高いな」

 梶の推理を聞きながら、タイガは反射的に睡眠薬の当たりをつけた。

(睡眠薬……まさか、フルニトラゼパムか?)

 売人から聞いた薬の特徴を思い出す。即効性が高く、依存性も高い睡眠薬で、飲み物に混ぜると色が青くなる。うまく仕込めればこれ以上ないほど効果的だが、よほどうまくやらないと相手に睡眠薬を混入したことがすぐにバレてしまうはずだ。

 梶もタイガとまったく同じことを考えていたようだった。

「ほんの数十分前、VIPにいた時の二階堂は普通の様子だった。薬がフルニトラゼパムだとしたら、効果が出始めるまで一時間前後かかる。つまり、二階堂はVIPルームに集まる前に、何者かにフルニトラゼパムを盛られていた可能性があり、そいつが犯人の可能性が高いということだ」

「それなら、俺には無理だな。俺は一時間前、こいつを連れ帰るためにヤクザと戦ってたからな」

 梶の推理を聞いて、猪原はタイガを指差しながら言った。タイガがうなずいて肯定すると、梶は眉を寄せた。

「犬飼は今日の午後、ほぼほぼ俺の護衛についていた。薬を盛る時間なんて、俺にも犬飼にもなかったな。ここに来てから、二階堂が何かを飲食したところを見たものは?」

 梶の問いかけに手を挙げるものはいない。梶は更に考え込もうとしていたようだったが、タイガは先程から気になっていたことを口にした。

「あの……間宮里穂殺害事件も、似たような絞殺でしたよね? もしかして、この事件も犯人が同じなんでしょうか?」

 タイガの問いかけに、梶は険しい視線を向けただけで何も言わなかった。関係あるともないとも断定できないが、レッドデビルズの関係者が二人も同じ方法で殺されたとなれば、無関係と見るわけにもいかないだろう。しかも、二階堂は間宮里穂の数少ない関係者の一人だった。間宮里穂と二階堂英梨が何か重要な情報を握っていて、それが理由で殺されたという可能性も十分に考えられる。

 そして――この事件と間宮の事件が同一犯であるのなら、タイガにはこの事件も調査する権利があるはずだった。この事件の詳細な情報を知ることが、結果的に間宮里穂殺害の犯人を調査する上で役に立つ可能性があるからだ。

(それに……うまくすれば、この事件でレッドデビルズをぶっ潰せるかもしれない)

 この事件の犯人を特定できるだけの情報を集めれば、アリスが事件を解決してくれるかもしれない。犯人が誰か次第で、レッドデビルズの組織を大いに崩壊させることができるだろう。

 だからこそ、ここで梶だけに主導権を握らせて、容疑者の情報を一人で抱え込まれるのは困る。

 タイガの考えをすべて理解したわけではないだろうが、梶は渋々ながらうなずいた。

「……可能性はある。それにしても、俺のラウンジで幹部を殺すなんて、随分なめた真似をしてくれたもんだね」

 梶が忌々しげに吐き捨てるが、タイガは構わず質問をぶつけた。

「皆さんはVIPルームを出た後、ずっとこのあたりにいたんですか?」

「いや、一時間くらい間を置いて戻るつもりだったから、あの時点で一旦解散した。一応君が逃げないように、二階堂を受付に、犬飼を裏口に残しておいたけどね。俺は近くのカフェで仕事をしてたけど、啓斗はどこにいた?」

「俺は暇だっただし、近所の店でスロット打ってたよ」

 猪原は遺体を前にしてるとは思えないほど軽い口調で答えてから、犬飼に視線をやった。珍しく動揺の色を表情ににじませながら、犬飼は自分のアリバイを説明する。

「俺は江本を部下に引き渡してから、仙堂が裏口から逃げないように張ってました」

「つまり、俺も啓斗も犬飼も、お互いにお互いのアリバイを証明できないみたいだね。現状、一応誰でも犯行は可能ってことになる」

「それだけじゃないだろ、連次。俺達がここを根城にしてるってことは、ヤクザも雑賀派の連中も知ってる。ここを張ってて英梨ちゃんが一人なのを見てたんなら、殺すチャンスだと思ってもおかしくないだろ?」

「その可能性もあるけど、その場合はもっと最悪だね。ヤクザや雑賀派と内通している者がいて、そいつらのために誰かが二階堂に睡眠薬を盛ったってことになる」

「英梨ちゃんが自分で睡眠薬を飲んだって可能性は?」

「結果としてそうなった可能性はあっても、仕込んだのはやはり別の人間だと思うよ。二階堂は仕事中にトイレで居眠りするような不真面目な性格じゃないからね」

「あの、いいですか?」

 猪原と梶の会話に、タイガは前置きしてから割って入った。

「ここのフロアにも防犯カメラとかってありますよね? それを見れば犯人がわかるんじゃないですか?」

 タイガの質問に、梶は小さく首を振った。

「ここはギャングの拠点だ。ガサ入れされた時のために、自分達の犯罪の証拠になるかもしれない映像を残しておくわけがない。カメラをオンにするのは、営業中と必要に駆られた時だけだよ」

「じゃあ、パチンコ屋とかカフェの防犯カメラを見せてもらうわけには……」

「まぁ少し脅せば見せてもらえるだろうね。でも俺達がそんなことをしたら、このラウンジで事件が起きたと知らせるようなものだ。すぐに警察に嗅ぎつけられて、レッドデビルズごと潰されることになる」

 予想はしていたが、やはり警察には通報しないつもりらしい。おそらく、二階堂の遺体はどこかの山に埋めるか、海に沈めるつもりなのだろう。

 タイガの表情の微妙な変化を見て、梶は暗い瞳を鋭く細めながら、高そうなスーツの胸ポケットに手を入れた。

「もちろん、この件を警察に通報するつもりはない。もしこの中に通報したいやつがいたら教えてくれ。処理する死体がもういくつか増えたところで、手間はそう変わらないからね」

 そう言って、梶は胸ポケットから拳銃を取り出した。引き金に指をかけないまま、全員の顔に銃口を向けていく。猪原は退屈そうに、犬飼は微かに動揺した様子で、由紀は怯えた顔で銃口を見返している。タイガは極力無表情を作って銃口を見返したつもりだったが、実際梶にどう見えたのかはわからなかった。

 誰も反抗しないのを確認してから、梶は銃を胸ポケットにしまう。

「凶器に使われたナイロン紐はマスプロ品で、所有者の特定は無理だろう。睡眠薬の入手先も山ほどあるから特定が困難。ナイロン紐から指紋を取る技術も、DNA情報を検出するツテもうちのチームにはない……となると、このまま議論していても犯人は見つからなそうだね。今日は一旦解散にしようか」

 梶が思いの外あっさりと調査を終了するので、タイガは拍子抜けした。だが冷静に考えれば、梶にとってはこの状況を長引かせるほうが危険だろう。梶としては、本当は全員を拷問にかけてでも犯人を特定したいところだろうが、もし一発でも銃を撃てば残り全員が敵となって襲ってきかねない。警察に駆け込まれたくはないが、かといってこの場で争いを起こしたくはないというのが本音なのだろう。

「犬飼、仙堂と由紀を送ってやってくれ。啓斗、君は残って死体の処理を手伝ってくれないか?」

「了解です」

「俺? しょーがねえなぁ」

 犬飼と猪原が返事をするが、タイガはその指示を意外に感じていた。遺体の処理など下っ端に丸投げすると思っていたのだが、梶自ら指揮を執るようだ。面倒事を押し付けたい気持ちより、付き合いの浅い犬飼やタイガに遺体の処理を任せるのは不安というのもあるのだろう。

 犬飼は由紀の腕を持って強引に立たせると、目でタイガについてくるよう促してくる。逆らっても変に疑いを持たれるだけなので、タイガはおとなしく犬飼に従うことにした。

 受付まで移動した後、犬飼が電話で部下を呼び出すのを待つ。数分ほど待つと犬飼の手下のチンピラが一人来て、由紀をタクシーに乗せて自宅まで送っていった。犬飼は二人だけになった受付でタイガに向き直る。

「お前の家は近いから、俺が送っていく」

「別に一人で帰れるぞ」

「そんなことはわかってる。お前が警察に出頭しないように、家まで見張るって言ってるんだ。言っておくが、家にも部下を張らせておく。俺をだしぬけると思うな」

「あぁ……そういうことか」

 応じながら、犬飼とともにラウンジを出る。外はすっかり夜になっており、犬飼と並んでタイガの自宅に向かって歩き出す。

(そう言えば、犬飼はいつから俺の家を知っていたんだっけ?)

 ユースチーム時代から知っていたのか、レッドデビルズに入ってから知ったのか――そんなことすら覚えていないほど犬飼との思い出が希薄なことが、タイガは少しだけショックだった。

 横を歩く犬飼を見やりながら、タイガは小声で問いをぶつける。

「お前、こんなことがあってもまだレッドデビルズを辞めるつもりはないのか?」

「……またその話か」

 犬飼は嘆息を漏らしてから、こちらも見ずに答えてくる。

「当たり前だ。言っただろ、俺にはやりたいことがあると」

「なら、そのやりたいことってなんだよ。協力してやるから俺にも教えろ」

「冗談じゃない。お前の手だけは絶対に借りん」

 冷たく突き放されるが、タイガはめげずに犬飼にぶつかっていく。

「お前、ちゃんとわかってんのか? 殺人なんて隠し通せるわけがないし、死体の遺棄や隠蔽に関わるのだって重罪だ。このままじゃ、お前もレッドデビルズと心中することになるぞ?」

「それがどうした?」

 犬飼は街灯の下で足を止めると、怒りを超えて憎しみすら宿った眼光でタイガを睨んでくる。

「レッドデビルズに入った時点で、そんなことはとっくに覚悟している。他人にあれこれ口出しされるまでもない。お前こそ、そんなにビビってるんならとっととこの街から消えろ。親に必死に泣きつけば、引っ越しくらいできるだろ」

「バカ言え。今更、うちの親父が俺に余計な金使うわけないだろ」

 タイガが乱暴に吐き捨てると、犬飼の瞳にわずかに動揺が走った。その隙を逃さず、タイガは反撃をしかける。

「うちは親が離婚してて、一緒に住んでる親父はサッカー中毒の毒親なんだよ。俺が靭帯損傷して以来、ゴミでも見るような目で見てきやがる。お前のとこの親もそうだったんだろ?」

「何の話だ?」

「隠すなよ。お前が施設の出身で、今の親が里親だってことはとっくに調べがついてんだ」

 アリスから聞いた情報を突きつけると、犬飼は忌々しげに舌打ちした。

「お前、そんなことをこそこそ嗅ぎ回ってたのか」

「それだけじゃねえ。お前、間宮里穂と同じ施設の出身だったんだってな。そのことを知ったら、梶はどう思うだろうな?」

 もちろん、梶にそんな情報を漏らす気など微塵もなかった。だがこう言われては、犬飼もタイガの意見を無視することはできないはずだ。

 犬飼が胸ぐらをつかんでくるが、タイガは揺るがず犬飼の目を睨み続ける。しばし睨み合ったまま膠着状態が続いてから、犬飼は絞り出すように声を漏らした。

「……何が望みだ」

「何度も言ってるだろ。レッドデビルズを抜けろ。お前にやりたいことがあるっていうなら、それは俺が命がけで手伝う。だから、あんなクソどもの力を借りるな。お前の人生をめちゃくちゃにした責任を、俺に取らせてくれ」

「責任を感じてるのに、俺を脅すのか」

「お前をあの地獄から引きずり出したら、文句も苦情もいくらだって聞いてやる。それで、どうするんだ?」

 タイガが真っ向から問いかけると、犬飼は十数秒ほど黙考した後、諦めたように口を開いた。

「……一週間だけ時間をくれ。それまでに腹を決める」

「一週間だな。もし一日でも返事が遅れたら、梶に洗いざらい吐くからな」

「わかってる」

 犬飼は小さくうなずくと、タイガに背を向けて来た道を戻るように歩き出す。タイガは反射的に呼び止めていた。

「おい、どこに行くんだ」

「考え事がしたい。お前が隣にいたんじゃ、うるさくてしょうがない。一人で勝手に帰れ」

「梶の言いつけを破っていいのかよ」

「一週間は時間をくれるんだろ。ならその間、サツにも黙っておけ」

 それだけ言うと、犬飼は止めていた足を再び動かす。

 街灯の光の下から足を踏み出し、夜闇の中へ消えていく犬飼の後ろ姿を、タイガはただ黙って見送ることしかできなかった。

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