第4話 二人キャンプ(4)

 ――水上君は、やっぱり変わってる。


 詩乃の、何を考えているのかわからない所が、柚子は苦手だった。しかし今は、そこにすっかり惹きつけられていた。会話が苦手な、文芸部の大人しい男の子だと思っていたが、クラスの目立たない地味キャラというステレオタイプと、今のこの詩乃の行動は全く結びつかない。


「水上君、これって、最初から考えてたの?」


「これ、って?」


「この……森の中で一人キャンプすること」


「ううん、全然。お腹空いたから」


「普通お腹空いてもやらないよ」


 柚子はそう言って笑った。


 スプーンでカレーを食パンにかけながら、詩乃は首を傾げた。


「一人キャンプは、ちょっとやってみたかったから、丁度良かった」


「……私、邪魔しちゃった?」


「え?」


 詩乃にしてみれば、柚子は思いもよらない、歓迎すべき客人だった。こんな自分に付き合ってくれるというだけで、かなり珍しい。来てほしくなければ、最初からそう言っていた。


「こういうのなら、二人キャンプも全然いいと、思うんだけど」


 詩乃はそう言って、空を見上げた。星がうじゃうじゃしている真っ黒い空。都内では、まず見ることのできない、山ならではの夜空である。


「水上君、皆で行動するの、嫌い?」


「うん」


 はっきりと答える詩乃。柚子は、チクリと心が痛んだ。それは、詩乃の嫌なことを強要していた自分への罪悪感と、詩乃への申し訳なさからだった。行事は、皆で協力しないと上手くいかない、これは間違いない。だけど、皆で何かをするということを嫌う生徒――水上君の気持ちも、もう少し汲んであげられたのではないか。


「なんか私、いつも、いろいろ言ってごめんね」


 柚子が言うと、詩乃は眉間にしわを寄せた。


 え、私、何か変な事言っただろうか、また水上君にとって良くないことを言っただろうかと、不安になる。


「新見さんは、新見さんのやるべきことをやってるんだから、いいんだよ」


「でも、それって、水上君にはうっとうしいでしょ?」


「新見さんは、うっとうしくないよ」


 三枚目の食パンを平らげ、そろそろ腹がいっぱいになってきた詩乃は、柚子に二枚目の食パンを差し出す。柚子はそれを受け取り、ちぎって、鍋のカレーにつけた。


「新見さん、変わってるね」


「それ言う!? 水上君がそれ言う!?」


「いや、だって……」


 協調性のない人間なんて、それが原因で何か大きなトラブルがあるわけでもなければ、放っておけばいいのにと、詩乃はそう思っていた。今までも自分はそういう扱いを受けてきたし、それで別に、不快になるとか、寂しくなるとかは思ったことが無い。


「放っておいてもいいのに、自分なんて」


「でも、水上君、私を放っておかなかったじゃん」


「え、何の事?」


「火傷のことだよ!」


 柚子は、左手をパーにして、詩乃に訴える。


「あれだって、別に、水上君があそこまでちゃんと、やらなくても良かったでしょ」


「あー……いやでも火傷は、いきなり氷で冷やすとか、変な手当てして悪化させる人が多いっていうし、それは可哀そうだから」


「でも、他人事なんだから、放っておいたって、別に良かったでしょ」


「いやだって……」


 ぱくりと、詩乃は食パンをかじる。


「皆パニクってんだもん」


「ご、ごめん……」


「固まってたね」


「もう、頭真っ白だったよ……」


「動けるのが自分だけだったんだから、そりゃ、動くよ」


「料理は、手伝ってくれなかったのに?」


「だってあれは、あんな狭苦しい所で、二人して野菜なんて切ったって、効率も悪いし、ねぇ」


「そうかもしれないけど……」


 でも確かに、そういう考え方もあるのかと、柚子は考え直した。水上君は、見たところ、かなり料理が得意そうだ。水上君からすると、五人分の野菜を切るのに二人掛りというのは、無駄に思えたのかもしれない。でも、そうじゃないんだけどなぁと、柚子は思うのだった。


 いつの間にかカレーの鍋も空になり、食パンも無くなった。詩乃は服に着いたパンくずを払い落とし、立ち上がった。ぐいっと伸びをして、山の空気を吸い込む。本当に真っ暗闇だなぁと、詩乃は周りの森をぐるりと見渡した。


「妖怪がいても、全然不思議じゃないね」


 そう言われて、柚子は、自分が今、一寸先もわからないような森の中にいることを思い出した。一度そのことに気づいてしまうと、心細さに体がきゅっと小さくなるような思いがした。


「や、やめてよ」


 きょろきょろと、過敏にあたりを気にし始める柚子。


「ちょっと、一回は見て見たくない?」


「嫌だよ、怖いよ!」


 柚子は体を窄める。怖い話やお化け屋敷くらいなら、苦手、というよりも、その怖さを楽しめるタイプの柚子だったが、この森の暗闇の恐怖というのは、遊びの恐怖ではなかった。


 詩乃は手提げにコンロを入れ、鍋に蓋をすると、持ち上げた。柚子は、思わず立ち上がって、詩乃の肘のあたりをぎゅっと掴んだ。


「……」


 突然しがみつかれ、詩乃の心臓が飛び跳ねた。小学校の頃、地区班活動というので肝試しのイベントがあり、その時、幼馴染の女の子にしがみつかれたことがあったが、それ以来、詩乃は女性にしがみつかれたことはなかった。当然、それ以上の接触もない。


「……怖いの?」


「怖いよ……」


 怖がっているのを隠す余裕は、すでに柚子にはなかった。


「もうちょっと奥行って、妖怪とか探してみる?」


「ホントやめようよ。お願い」


 ぎゅうっと、詩乃は胸が苦しくなった。女の子の無自覚な可愛らしさというものは、詩乃にとっては天敵だった。それで随分、傷ついてきた歴史がある。真綿で首を絞められるがごとく、じわじわと、心を支配されそうになる。


「嘘だよ。戻ろ」


 詩乃は、手提げと鍋を持ち、左ひじを柚子にしがみつかれたまま、森の中を、施設に向かって歩いた。一人で行けば三分とかからない距離だが、柚子にしがみつかれていたので、五分以上かかってしまった。


 森を抜けて、施設の明かりが見えた時、柚子はこの上ない安堵を覚えた。柚子の強張っていた体が、施設に近づくごとに、緩んでくる。そうすると、柚子の手も自然と、詩乃の肘から離れる。名残惜しくはあったが、詩乃は、それが現実だと自分に言い聞かせた。新見さんが自分にしがみついてきたのは、怖かったからに他ならない。他の理由なんてない。現実は、そこまで自分に優しくない。


「三枚のお札で――」


「え?」


「あの話で、山姥の小屋を見つけた時の小坊主って、たぶん、こういう気持ちだったんだろうね」


 突然、突拍子もないことを言われて、柚子は思わず笑ってしまった。


 柚子をリラックスさせようと思ってそう言った詩乃は、柚子が笑ってくれたことにホっとした。そして、心の中でため息をついた。新見さんとの、自分にとっては、夢のような時間はここまでだ。もう現実に戻らないといけない。


「先に戻りなよ」


「え、でも――」


「一緒に戻ると色々うるさい奴いるし、鍋とかコンロとか、返さないと」


 詩乃はそこで柚子と別れた。


 詩乃はそのまま炊事場に向かい、手提げに入れていた野菜の皮とビニール袋を巨大なごみ回収ボックスに入れる。それから、鍋を洗い、流しに置いていた包丁、まな板、ピーラーをタオルで拭いて、施設本館の事務室に向かった。初老の事務員に、片付け忘れていた調理用具があったと言うと、疑いもせずに、調理用具の用具部屋を開けてくれた。


 詩乃は人知れず完全犯罪を成し遂げ、本館の廊下に張り出されていた野鳥の写真を鑑賞してから、A組男子のカモシカロッジに戻った。時間はまだ十時で、部屋には女子もいた。男子たちと大富豪をしている。その中に、柚子もいた。


 詩乃と柚子の目が、一瞬だけカチっと合った。


 誰にも気づかれないようなたった一瞬。


 柚子は口を開きかけたが、それよりも早く、詩乃が、すっと柚子から目を逸らした。詩乃は、まだまだ盛り上がるクラスメイトたちの会話を子守唄代わりに、壁際の自分の布団にもぐると、目を閉じた。


 林間学校は翌日に最終日を迎えたが、詩乃は柚子と、これまで通り、ほとんどこれといった会話もすることはなく、特別重大な事件が起こることもなかった。しかしこの林間学校を起点に変わってゆく関係も、生徒たちの中には確かにあったのだった。

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