第2話 二人キャンプ(2)

「大丈夫だから、柚子。みんな柚子の事、怒ったりなんてしてないから」


 紗枝は立ったまま、座っている柚子を抱きしめた。そうして頭をなでてから離れると、元気よく言った。


「というか、もしそんな奴いたら、私がとっちめてやるから!」


 空手黒帯の紗枝が言うと馬鹿にならないよ、といつもの柚子なら突っ込むところだったが、今の柚子は、軽口を叩ける状態ではなかった。


「多田さん、新見さんの分のカレー、残しておくように皆に言っておいて」


 詩乃が言った。


「うん、任せて! てか、水上の分もね」


「いや、自分は……実は、今日は、朝からお腹の調子悪くて。だからいらない」


「え、そうなの!?」


 紗枝は、全く知らなかったと驚く。


「わ、私もいらない! お腹空いてない!」


 柚子も、詩乃の後に続けてそう言った。皆のカレーを台無しにしてしまった自分が、他の班のカレーを分けてもらうなんて、申し訳なさすぎると思ったのだ。しかし、そんな柚子の発言に対して、詩乃は表情一つ変えず言った。


「今お腹が空いてないのは、驚いて興奮状態になってるからだよ。人間は、交感神経が優位な時は空腹を感じないから。でも、もう少し落ち着いてきたら、たぶん一気にお腹が空いてくる」


 突然出てきた専門的な言葉に、柚子も紗枝も付いていけなかった。それでも紗枝は、要点だけはしっかりつかんでいた。


「――うん、柚子の分はちゃんと、しっかりとっておくからね。――水上は、本当にいらないの?」


「うん」


「というか、柚子は私が診てるよ」


「なんで?」


「なんでって――」


「あ、自分、保健委員だから」


「あー!」


 そうだったのか、と紗枝は納得した。だから今こうして、彼は柚子の手当てをしているのかと、合点がいった。あんなに、色々なことに無頓着、無関心だった水上が、保健委員の仕事だけはどうしてきっちりこなそうとするのかは皆目見当がつかなかったが、しかし、ここまでの手当ての速さは、なるほど、保健委員ならそういうものかと、納得もできる。


「じゃあ、私戻るね。柚子、本当に全然大丈夫だから、気にしないでよ!」


 廊下にそんな声を響かせながら、紗枝は炊事場に戻っていった。


 十分ほど指を流水で冷やした後、詩乃は柚子の左手のラップを取り、自分のポーチから軟膏を取り出すと、それを柚子の火傷に塗り伸ばした。必要な処置だからと思わずそうしてしまってから、詩乃は、自分が女性の肌に触れたことすらないのを思い出した。


 小さな柚子の女の子の手。白くて、滑らかで、温かい。


 詩乃は静かに深呼吸をして、火傷の処置という仕事に意識を引き戻した。軟膏を塗った後、詩乃は柚子の火傷の具合を観察した。


「痛みはある?」


「ちょっとヒリヒリするけど、触らなければ、平気」


「大丈夫そうかな」


 詩乃はそう言うと、軟膏のキャップを閉め、ポーチにしまった。詩乃は、特別怪我や傷に詳しいわけではなかったが、保健委員として念のため、火傷など、林間学校で起こりそうな怪我の対応については、調べて来ていた。交感神経や副交感神経の話は、それを調べる中で手に入れた知識だった。


「火傷の軽いやつだから、大丈夫だよ。数日で治ると思う」


 詩乃はそう言うと、ラップをくしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。


「お大事に」


ポーチからメモ帳とペンを取り出して机に向かう。


「自分は保健カード書いてから戻るから」


「う、うん……ありがとう」


 柚子はそう言うと、救護室を後にした。


 詩乃は、柚子が出て行ったあと、ほうっと息をついた。実は、保健カードの記入というのは嘘で、ただ単に、柚子と一緒に皆の前に戻るのが恥ずかしかったから、柚子を一人で返す口実としてそう言ったのだった。


「わー、大丈夫ぅー、う? あれ?」


 柚子が救護室を出ていくのと入れ違いに、保健の須藤教諭がやってきた。天然パーマの四十台女性、背が高い。


「水上君、だよね? 新見さん、いた?」


「手当てして返しました」


「え、大丈夫なの?」


「左手人差し指の付け根の火傷でした。でも、Ⅰ度の火傷だったので――あ、えーっと、水ぶくれはなくて、少し赤くなっているだけでした。痛みも、触らなければほとんど無いって言ってました」


「へぇー」


 須藤教諭は、柚子の怪我の様子よりも、詩乃の見識に驚かされた。ちゃんと怪我のことを勉強してくれてるんだ、と小さな驚きを覚えたのだ。保健委員だからといって、怪我や処置について生徒が勉強するわけではない。そういう生徒は、須藤が知っている中では、詩乃が初めてだった。


「水上君、保護者の方は、もしかしてお医者さん?」


「いえ、全然」


「ふーん。すごいね、ちゃんと勉強して」


 ふふっと、須藤教諭は詩乃に笑いかけた。


「一応後で、私も見とくわね」


「はい」


 詩乃はそう応えると、出したばかりで何も書いていないメモ帳とボールペンをポーチの中にしまい、救護室を後にした。





 六班の生徒たちは、他の班からカレーとライスをもらい、皆しっかり、夕食にありつくことができた。作りすぎてしまう班もあって、結果的には、ちょうどよかった。柚子が戻ってくると、皆暖かく彼女を迎えた。柚子は、泣きながら皆からもらったカレーライスを食したのだった。お腹、空いてたんだなと、柚子は食べながら自分の空腹に気が付いた。


 ――あ、水上君の言ってた通りだな。


 不意に詩乃の言葉を思い出し、柚子はきょろきょろとあたりを見回した。


 食事場には、食べるのが遅い数名と食べ始めたのが遅い柚子だけが残っていて、あとの生徒は、すでに炊事場で調理用具などの片づけに取り掛かっていた。その中に柚子は詩乃の姿を探したが、どこにも見つけることはできなかった。それもそのはずで、詩乃は、夕食の最中に戻るのを恥ずかしがって、保健室を出た後も、本館の中やその周辺をうろうろして時間をつぶしていた。


 夕食後は、各クラスに割りあてられた時間の中で各々風呂に入る。A組は夕食後すぐの時間の割り当てだったので、七時半には皆入浴を終え、ロッジで布団を敷いていた。昨日同様、女子たちが男子のカモシカロッジへ突撃する。昨日は皆に誘われてその突撃に参加した柚子だったが、今日は、自分から行くことを決意していた。


 柚子はカモシカロッジに入るなり、布団の上にちょこんと座り、そして、頭を下げた。


「今日は皆、ごめんなさい」


 土下座のような形になる。


 突然そうされた男子たちは、一瞬固まった。最初に行動を起こしたのは軽音部のお調子者だった。布団の上にスライディングをかまし、そのまま、柚子に向かって土下座を返す。


「何言ってんすか、学級委員長、こっちこそすみませんでした! おら、お前らもやれよジャンピング土下座!」


 バンド男の言葉に乗っかり、ノリの良い男子たちが続々とそれに続く。その中に、どさくさに紛れて女子生徒の足に絡みつこうとした不届き者がいて、遠慮なく蹴飛ばされる。そのまま、枕投げに突入する。高校二年生は、ノリと勢い至上主義者の集まりで、折角風呂に入った後だというのに、特に男子は、大はしゃぎで枕を投げたり、プロレスを始めたり、放送部がその様子をマシンガンのような早口で実況したりする。


「柚子、ほら、男子って馬鹿だから、何でもいいんだよ。謝るだけ損損」


 紗枝が、柚子を後ろから抱えるようにして言った。


「おい紗枝、お前に男子の怖さ教えてやろうかぁ!」


 そう言いながら紗枝の後ろから迫ってきたのは、軽音部のバンド男である。


「ちょっと!」


「サイテー!」


 むはむは言いながら紗枝に覆いかぶさる様を見て、近くの女子が悲鳴をあげる。が、次の瞬間、紗枝は正座したまま、バンド男を一本背負いのように前方に投げ飛ばした。ばたん、と布団の上に背中から落とされたバンド男は、痛みよりも驚きの方が勝っていて、一体何が起こったのか理解できず、ただ、目を見開いていた。紗枝は、バンド男の左腕の脇をしっかり押さえている。


「何を教えるって?」


 紗枝が不敵な笑みを浮かべる。昨年も紗枝と同じクラスだった男子生徒が言った。


「紗枝は道場の娘なんだぞ。お前、死んだな」


「ちょ、ちょっ――聞いてな――」


 紗枝の足が、バンド男の首をはさみ、がっちり固める。


「いい匂いだけど死ぬ、めっちゃやわらかいけど、死ぬぅぅ!」


 紗枝の寝技がバンド男に炸裂する。周りは、女子も男子も大笑いである。そんな中、柚子は詩乃を探していた。しかし詩乃は、部屋のどこにも見当たらなかった。


 その後柚子は、班長会があるので、一旦ロッジを後にして本館一階の会議室に向かった。





 班長会ですることは、今日の反省と明日のスケジュール確認である。


「今日の反省、何かあるか、新見」と学年主任の教師に早速話題を振られた柚子は、ううっと俯いて顔を赤くした。皆、すでに柚子のカレーぶちまけ事件のことは知っていたので、柚子のかわいらしい反応を見て笑った。「まぁ、怪我がなくてよかったな」と、学年主任は柚子に笑いかけた。


 班長会は和やかなムードで進んでいった。柚子は、やっと気持ちの落ち着きを取り戻した。そうして今日の失敗を振り返る余裕が出てくると、柚子は、まだ詩乃にちゃんとお礼を言っていないことが気になりだした。あのときはパニックで訳が分からなかったけど、思い返せば、水上君はあんな中で、しっかり私を手当てしてくれた。それって、すごいことなんじゃないだろうか。


 班長会の後、柚子はカモシカロッジに戻った。しかし、依然としてカモシカロッジに詩乃の姿は無かった。柚子は、どうしても今日中に詩乃にお礼を言いたかった。詩乃に苦手意識を持っていた分だけ、その優しさが柚子の心をつついていた。


 柚子はカモシカロッジを出て、歩きながら詩乃を探した。ロッジの明かりが、ロッジ周辺の小さな芝生の庭と小道を照らしているが、その外は、柚子の生活圏にはない正真正銘の真っ暗闇である。

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