第50話 玲子の退院
「どうしたんですか。玲子さん」
次の日、廊下の向こうからやって来た玲子さんは何やら、いつもと様子が違う。なんだかとてもうれしそうな表情をしている。
「明日退院なの」
「えっ、ほんとですか」
「うん」
「よかったですね」
そう言ったものの、あまりに突然で、私はなんだか複雑な心境だった。
「おめでとうございます」
でも、それはやっぱり喜ばしいことだった。
「ありがとう」
しかし、私の隣りにいた真紀は悲しそうだった。
「また、会いに来るわ」
背の低い真紀にやさしく少し膝を曲げ、そんな真紀の頭をなでながらやさしく諭すように玲子さんは言う。
「・・・」
しかし、真紀が顔を上げることはなかった。
「突然ですね」
「うん、でも、前からそういう話はあったの。それが今回決まったって感じかな」
玲子さんは、本当にうれしそうに話す。
「そうだったんですか」
「どうしたんだよ」
そこに美由香がやって来た。
「玲子さんが明日退院するんだって」
私が美由香に報告する。当然美由香も喜ぶものと思った。
「へぇ~、退院かい」
しかし、美由香の反応はその逆だった。その言い方にはどこか棘があった。
「ええ」
その言い方を無視するように玲子さんが答えた。
「へぇ~、治ったんだ」
やはり、棘があった。そして、美由香は、玲子さんを疑わしげに見る。
「ほんとに治ったのか」
「ええ、治ったわ」
挑むように言う美由香に、玲子さんも挑むように言い返す。
私は二人のただならぬ空気におろおろする。病院を脱出した時みたいにまたケンカになりそうな空気だった。
「美由香」
私は何とか美由香をとめようと思った。
「お前は治ってなんかいねぇよ」
しかし、美由香はさらに強い口調で玲子さんに言った。
「美由香っ」
私は美由香に強く言った。
「あなたはうらやましいんだわ」
玲子さんは、それに対して珍しく少し興奮気味に言い返した。
「全然」
しかし、美由香は平然と返す。
「お前は治ってなんかいない」
美由香はさらに言う。
「お前みたいにすべてを手に入れようとしても、絶対に何も、その欠片も手に入らないさ」
そして、美由香は、さらに勝ち誇ったように言い足した。
「お前は何も手に入れることはない」
さらに美由香が玲子さんを鋭く見据えた。
「・・・」
玲子さんは黙っていた。というよりも言い返せないでいた。美由香の言葉に激しく動揺しているのが分かった。
「玲子さん・・」
私はそんな玲子さんに何か声をかけたかった。でも、玲子さんは、固まったまま回れ右をするようにその場で踵を返すと、そのまま行ってしまった。
「・・・」
私はその姿に、あのレクリエーション室で錯乱した玲子さんを思い出した。あれから、あまり日にちは経っていない。私は一瞬不安を感じた・・。
「美由香、酷いよ」
私は、言い過ぎじゃないかと思った。
「まあ、あいつは戻って来るさ。すぐに」
美由香が言った。
「・・・」
まるで美由香はそれを望んでいるみたいだった・・。
その日の夕方、玲子さんの退院祝いが食堂で催された。急な企画にもかかわらず、そこには様々な料理やお菓子、ジュースが並ぶ。
「おめでとう」
「ありがとう」
「うらやましいな。私も早く退院したい」
次々、玲子さんの周りに患者や病院スタッフが集まり声をかける。
すごく魅力的で、それでいて人当たりのいい玲子さんは、患者からも病院スタッフからもみんなから好かれていた。だから、急な退院であるにもかかわらず、みんなすぐに退院祝いを企画し、そこに集まった。
「何であたしは退院できないんだよ」
そんな中、朋花がまた一人怒っている。
「絶対に不公平だ」
朋花は玲子さんのうれしそうな顔を見ながら、これでもかと不貞腐れる。
「あいつは、治ってなんかいないさ」
私の隣りで美由香はまだ言っていた。美由香は、怒っているのか、妬んでいるのか、悲しんでいるのか、複雑な表情をしていた。真紀はストレートにただ寂しそうだった。私も寂しかった。みんなそれぞれ複雑な心境で玲子さんの退院を受けとめていた。
――別れはいつも突然やって来る。一緒に保育園に通っていた近所の子たちは、次々と親の都合でどこか遠くへと引っ越していった。毎日毎日、その子たちと一緒に遊び回っていた私は、気づけば一人ぼっちになっていた。その後の彼ら彼女らの消息を私はまったく知らない――
「まあ、あいつも悪い人間じゃないんだろうけどな」
坂本さんが言う。会の半ば、私はその片隅で、塩バターポップコーンの入った大きな紙コップのような容器を抱えながら田中婦長に関することを坂本さんに愚痴っていた。
「・・・」
坂本さんはそう言うが、私は絶対に悪い人間だと思った。私はまだ昨日のことから尾を引いていた。
「多分、お前のことを思ってのことだと思うぜ」
「でも、すごく上からで」
こういう機会でもないと、お菓子はなかなか食べられなかったし、昨日のことを思い出すとなんかイライラして、私はもしゃもしゃとポップコーンを次々口に頬張った。
「そのうちあいつのよさも分かって来るだろうよ」
「・・・」
絶対にないと思った。絶対に好きになれない人だった。
時刻も九時に近づき、会も終わりに差し掛かっていた。病院の就寝は十時だった。
私は玲子さんと話がしたかった。でも、人気者の玲子さんは常に人に囲まれていてなかなか近づけなかった。明日もう退院で会えなくなるというのに、なかなか話す機会がなかった。
私は玲子さんに伝えたかった。美由香の言ったこと、気にしないでって。きっと玲子さんは玲子さんの望むすべてを手に入れられる。玲子さんなら絶対に、玲子さんの望むすべての幸せを掴める。絶対大丈夫だって。絶対絶対大丈夫だって。そう、玲子さんに伝えたかった。
でも、玲子さんは元気そうだった。すごく、楽しそうにみんなと明るく笑っている。美由香の言ったことなんか全然気にしている素振りはなかった。私はホッとした。なんとなく抱えていた不安も、玲子さんのあのうれしそうな笑顔を見ていたら、どこかへ吹っ飛んでいってしまった。
玲子さんなら大丈夫。絶対に大丈夫。私は思った。玲子さんはしっかりしているし、頭もいい。私たちなんかとは違う。きっと、退院して日常に戻っても、うまくやっていける。私は思った。
結局、そのまま会は終わり、玲子さんに伝えたいことは、何も言えなかった。でも、玲子さんはやっぱりすごく元気そうだったし、だから、私はそのことをあまり気にしなかった。
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