第37話 帰還

 その人は、怯える私に、胸ポケットから何かを取り出し、見せた。

「あっ」

 それは警察手帳だった。

「あ・・、あの・・」

 恐怖と、驚きと、不安と、頭が回らないのと、気持ち悪いのとで、何が何だかよく分からず、言葉が何も出てこなかった。

「あなたたちには捜索願いが出ています。一緒に来てくれるわね」

 婦警さんは、笑顔を見せながらやさしく言った。

「は、はい」

 気持ち悪くて、歩くのもふらふらだったが、警察とあってはもう歩くしかなかった。私が倒れていた場所は、最初にみんなが車座になっていた場所からかなり下流に歩いた場所だった。

「・・・」

 自分で歩いて来たのだろうか。怖いくらいまったくその時の記憶がなかった。

 まず、最初にいた場所まで戻り、そこから、さらに少し歩いた大通り沿いに歩くと、そこにパトカーがとまっていた。そのパトカーの前に、美由香も真紀も玲子さんもみんないた。

「どこにいたんだよ」

 美由香が私を見つけると開口一番言った。

「突然どっか行っちまうし」

「う~ん・・」

 自分でもよく分からない。記憶が本当にそこだけ切り取られたみたいに、すっぽりと抜けていた。どう頑張って思い出そうとしても、記憶の欠片すらがない。

「さっ、みんな乗って」

 私たちは婦警さんに促されるがままに、パトカーの後部座席に乗り込んだ。

「・・・」

 生まれて初めて乗るパトカーだった。何か犯罪を犯したわけではなかったが、いいことをしたわけでもなく、でも、なんとなくちょっとワクワクしている自分もいて、何とも奇妙な感覚だった。

 そして、私たちはパトカーに乗って、そのまま病院へと、ご帰還した。私たちの病院脱走旅は、突然、こんな形で終わった。

 長いようで短い旅だった。


「あ~たらし~いあっさがきた~♪き~ぼ~おのあ~さ~が・・」

 今日もけだるいラジオ体操のイントロの音楽が流れる。病院の朝は、なぜか毎日ラジオ体操から始まった。

「日本だよなぁ・・」

 隣りで美由香がけだるそうに言う。

「うん・・」

 朝六時起床、六時半ラジオ体操。それがここの日常だった。

 朝七時半朝食。大体メインはパン。そこにサラダが少しと、牛乳、そしてバナナか、ヨーグルト。大体朝は毎朝このメニューだった。

 十二時に昼食。夕方六時に夕食。病院食はまずいとよく言うが、ここは割とおいしかった。それがここでの大きな救いだった。この食事の合間合間に、日によって診察やカウンセリング、患者同士のミーティングやレクリエーション。それがない時はただひたすら自由時間という名の暇。そして十時就寝。このローテーションの毎日だった。

 依然と変わったことと言ったら、私がタバコを吸うようになったことくらいだろうか。

 そして、今日も朝から加奈子ちゃんが泣きながら猛ダッシュで共用廊下を走り過ぎ、突然けたたましく狂ったように、実際狂っているのだが、笑い出すあけみさんの笑い声が、病棟全体に響き渡る。

「・・・」

 そんな光景を見ていると、病院に戻ってきたことを妙に実感した。

 私たちが病院を脱走した後、すぐに捜索願いが出され、病院含め、家族も関係者も大騒ぎだったらしい。だから、私たちにそんな自覚はなかったが、帰ってからものすごく怒られた。こんなに怒られたのは、小学生以来くらいではなかろうかというレベルで私たちは目ん玉が飛び出すくらい怒られた。

 でも、こんな冒険は初めてで、私はどこか誇らしく、怒られることそれすらがなんだか楽しかった。これは私の人生に今までまったくなかったジャンルのことだった。


 ――幼稚園から小学校に上がり、教室という今までに経験のしたことのない奇妙な世界にいきなり放り込まれた私は、すぐに、自然と仲よくなり友だちを作って、どんどん繋がっていく同級生たちを見て、まったくそれについていけず、というかなんでそんなに自然と友だちができるのかすらがまったく理解できず、教室の中でただ一人呆然としていた――


 病院に戻り、こっぴどく叱られた私たちだったが、私は美由香に誘われたということでそれで許され、玲子さんは日頃の行いがよかったのでそれで許され、真紀はよく分かっていなかったということで、またそれはそれで許され、しかし、美由香だけが、首謀者でみんなを誘導したということで断罪され、通称、独居房、ガッチャン部屋へと入れられた。

 だが、その美由香も、昨日、ガッチャン部屋から出てきて、私たちとだべっている。

「まあっ、なんだかんだ楽しかったよな」

 美由香が、私の隣りで共有スペースのソファに深々と座り込みながら言った。

「うん」

 楽しかった。私の人生の中で一番楽しい時間だった。

「そうかしら」

 でも、ソファの向かいの椅子に座る玲子さんはなんだか不満そうだった。

「真紀、お前は楽しかったよな」

 美由香が真紀を見る。

「うん」

 真紀は無邪気に大きくうなずく。

「お前だって、一応目的は果たしただろ」

 美由香は玲子さんを見る。

「まあね」

 両手で握りしめるように持つ、白い大きなマグカップの中に入った湯気の立つコーヒーをすすりながら、玲子さんもそこは素直に認める。

「寿司、寿司、寿司おいしかった」

 真紀がうれしそうに声を上げる。

「おお、そうそう、寿司うまかったよな。あれ行こうって言ったのあたしだからな」

 誇ることでもない話だが、美由香は妙に胸を張って言う。

「あれは結局ほとんど私のお金じゃない」

 そんな美由香を見て玲子さんがすました顔で言った。

「まあ、そうケチなこと言うなよ。うまかったんだからそれでいいじゃねぇか」

「ふん」

 不満顔な玲子さんも、でも、それ以上は言わなかった。多分、玲子さんもおいしかったのだろう。

「ふふふっ」

 私はそんなやり取りを見ていて一人なんか笑ってしまった。

 私は、なんだか幸せだった。なんだかよく分からなかったけど、幸せだった。美由香が隣りにいて、真紀がその反対の隣りにいて、玲子さんが向かいにいて、それで――、なんだか幸せだった。

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