32
***
その夏祭り以降、神様は
極端に会う回数が減り、八重は寂しそうに顔を俯けていたが、神様はこれでいいのだと、痛む胸に気づかない振りをした。
これでいい、これで八重を傷つける事はなくなる。その命を奪われることもない。
そう自分を納得させてみせようとも、神様の八重への思いは消える事はなく、八重に気づかれないように、こっそりとその姿を見守っていた。
だが、冬を迎えたある日の事。嵐と共に、その悪魔は神社にやって来た。その腕に、
いくら神社に神様がいて町を見守ろうと、全てに目が行き届く訳ではない。手当たり次第に手を出される事はさすがにないが、隙はどうしても生まれてしまう。針の糸を通すような小さな隙だとしても、悪魔は八重を導き出した。神様に気づかれないように、慎重にその力を八重へと忍ばせ、そして八重をその手に捕えた。
八重を人質に取った悪魔は、八重の命が欲しければ、神の力を渡せと申し出た。嵐の渦巻くその上には、悪魔の手が迫っている。勿論、神様は抵抗するつもりだった。だが、悪魔に手を下そうとすれば、悪魔は躊躇いもせずに八重を盾にした。八重を自らの手で傷つけてしまった、それにショックを受けた神様は、悪魔の取引に応じてしまった。神様は、もう何も考えられなかった。
神様の体は黒い悪魔の手に包まれ、それが過ぎれば、神様は力なく膝をついた。恐れるものを失くした悪魔は八重を手放し、高笑いと共に空へ向かう、八重の心を奪わずとも、この町には盾を失った人間が山ほどいる。
神使はすぐさま悪魔の手への抵抗へと向かったが、悪魔の力には、奪った神様の強力な力が混じり、いつものように断ち切ることが出来なかったという。
異常事態に、天界からは死神が、下界支部の悪魔対策課の天使達も集まったがまるで歯が立たない。悪魔の手と共に襲いかかる嵐が町を飲み込み、家々を崩していく。あの約束を交わした桜の木も幹が避け、枝葉は地面に叩きつけられた。そして人間達には、彼らには見る事が出来ない悪魔の手が襲いかかる。
町が壊れていく、人間が倒れていく、逃げ惑う妖達、力を奪われるばかりの天界の住人達。
神社に残った神様は、体をどうにか起こし、倒れている八重を抱え起こした。口元へ耳を近付けると、八重からは呼吸音が聞こえてくる。大丈夫、生きている。神様は安堵してその体を抱きしめた。
青年の姿をしているからか、初めて抱きしめた八重の体は自分よりも小さく華奢で。
そして、再び思い知らされる。ただ、抱きしめる事しか出来ない、自分の非力さを。傷つけるしか出来ない、この無力さを。
「神様、大変です!町が滅茶苦茶に!」
「他の神様も、自分の町に悪魔がやって来て、応援に来られません!」
戻って来た神使達が訴えても、神様は顔を上げようとしない。
「…私には、もう何もできない」
弱々しく言葉を紡ぐだけの神様に、神使達はその体に縋りついた。
「どうしたのです!町の悲鳴が聞こえないのですか!」
「あなたの町が、助けを求めているんですよ!」
「うるさい!私にどうしろというのだ!私には、もう何もないんだ!」
「何もない…」そう唇を噛みしめ、ただ八重を抱きしめる神様に、神使達は呆然と顔を見合せた。神社の外からは誰かの悲鳴が、割れるガラスの音が、逃げ惑う人々の混乱が、建物や木々をなぎ倒す風の轟音にかき消されていく。
それでも神様は動こうとしない。
神使達は悔しそうに、悲しそうに顔を歪め、そのまま町へと戻っていった。
「…このまま、何もしないの」
ぽつりと聞こえた声に、神様ははっとして顔を起こした。
「八重!大丈夫なのか!?すまない、私は一度ばかりか二度もお前を傷つけた…!」
すまない、八重、そう繰り返す瞳からは涙が溢れ、八重は虚ろな瞳をそっと瞬いた。
「…あなたに傷つけられたことなんか、一度もないよ」
その弱々しくも包み込むような声に、神様が目を瞬けば、瞳から涙が零れ落ちた。八重は笑って、神様の頬に伝う涙を指先で拭った。
「あなたの方が、傷ついてる。大丈夫、泣かないで」
ね、と、八重は笑って。その姿に胸がいっぱいになって、神様は涙を押し込めて、八重の顔にかかる髪をすくった。頬についた傷に気がついて、その頬に手を触れれば、八重は困ったような照れくさいような顔をして、大丈夫というように、神様の手をその上から優しく握った。
「…温かい」
八重に触れた部分が僅かに光り、神様がその頬から手を離すと、八重の頬にあった傷が消えていた。
「…力がまだ、」
その呟きに、八重ははっとして体を起こした。これも神様の力だろうか、体が軽くなっていると、目を丸くしていた。
「行きましょう!」
八重はまだ体が上手く動かないのか、よろけながらも立ち上がると、神様の手を取った。
「どこへ、」
「皆を助けなきゃ」
「…だが、」
そう言葉を切った神様は、自分の手の平を見つめている。まだ自分の力に不安があるのだろうか、それとも、八重を傷つけた事が、力を使う事を躊躇わさせているのだろうか。
「皆を助けないと。私も行くから!」
「お前がすることではない!」
「でも…じゃあ、誰が出来るの?」
八重の躊躇いながらも真っ直ぐと届く声に、神様は言葉を詰まらせた。八重は瞳を揺らして俯き、それでも神様の大きな手を取ると、その手を両手で握った。
「私には、全部見えてるから。あなたが妖じゃなくて神様なのも、知ってた。ごめんね、私があなたを…」
八重は言葉を切り、それから思い直したように顔を上げた。
「神様の力が、あんな悪魔ごときに奪われるはずがないよ。惑わされないで、奪われたのはきっと、ほんの一部だよ。あなたの力は、ちゃんとここにあるんだから」
戸惑う瞳と目が合うと、八重はそっと眉を下げて微笑んだ。
「聞こえるよ、助けてって。皆、あなたが来るのを待ってる。あなたを見えない人達も願ってる、祈ってるよ。それこそ、神様の力の源でしょ」
神様は、八重の手の上から手を重ねた。八重の触れる手の平から思いが伝って、体に流れ込むようだった。
「きっと大丈夫だよ」
そう声を掛けてから、八重は、あっと思い出したように声を明るくした。
「桜を一緒に見る約束、覚えてる?」
「…覚えているよ」
「桜、まだ咲いてないけど、待ってる。この嵐が過ぎたら、そこで会おう?」
八重はそれから背伸びをして、顔を俯けている神様の額に口づけた。
「きっと、大丈夫だよ」
広がる思いが、心を動かしていくみたいだった。
神様は八重の微笑みに頷き、二人はその手を離した。
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