追憶②

 そのうちに、クラウスが学園でひとりの令嬢と仲良くしているという噂を耳にすることになった。

 二人が恋仲であるらしいと囁かれるようになるのにそれほど時間を必要としなかった。


 私はその頃、すでにベッドから起き上がれなくなっていたので、噂を調べて教えてくれたのは幼い頃から私に仕えてくれている侍女のシエンナだった。


 シエンナのことを信じていなかったわけではないのだけれど、学園でどの程度の噂になっているのかがわからなかったので、定期的にお見舞いに訪れてくれていた友人のカシアにも聞いてみた。

 カシアは「全学年に広まっているみたい。学園中その噂で持ちきりよ。……でも……私もベリサリオ様と話す機会もないし、噂の真偽はよくわからないのよね。ごめん。ご本人に直接聞いた方がいいと思うわ」と教えてくれた。その時少し辛そうで、悔しそうな顔をしていたのが印象的だった。


 そもそも……噂をシエンナから教えてもらった当初は、あの真面目で誠実な(と思っていた)クラウスが私と婚約している状態で他の女性と噂になるなんておかしいと思って信じていなかったのだ。

 クラウスが魅力的なのは周知の事実である。幼い頃から彼は老若男女問わずモテていたし、私という婚約者がいるとわかっていても彼に近づく女性は後を絶たなかった。

 それでも今回みたいに噂にならなかったのは、他でもない彼自身が私を含め、公の場では全ての女性に対して平等に接する姿勢を崩さなかったからだ。

 

 でも、今回は特定の一人の女性との噂が立った。その状況自体がいつもとは違ったから不安に思ったのだ。彼を信じたかったが、その事実が何を意味するのか、考えれば考えるほど私の体調のことも含め今までとは少し違うのでは……と、御しきれない不安で胸がザワザワし、その不安の種は大きく育っていった。

 そして、もしかしたら政略で結ばれ、義務で大切にしてきた私という形だけの婚約者とは異なり、心から愛する人を見つけてしまい、募る思いを隠せなくなってしまったのかもしれない、と考えるに至った。彼が本当は誠実な人間ではないのかもしれないという疑念は、当時の私の残念な頭の中には存在し得なかったのだ。

 

 クラウスには随分会えていなかったし、手紙を送っても返事も来ないし、噂は収束するばかりか広まるばかりだし……。そういう状況が続けば続くほど、私は噂が真実なのではないかと諦念するようになった。

 

 私は、クラウスに会いに行く前にたくさん泣いた。できることなら、私がクラウスからそんなふうに想われる存在になりたかった……と。


 目一杯泣いて、泣き疲れた私は思ったのだ。クラウスはとっても素敵な男性だし、その魅力をたくさんの人が知っていて、たくさんの人が彼を慕っていることを私は知っている。引く手数多なのだ。

 こんな取るに足らない存在の私が、今や原因不明の体調不良でいつ死ぬかもわからない自分が、そんな素敵な人の婚約者でいられただけで幸せだったのだ。好きな人と結婚する夢を思う存分見ることができた。だから、私にたくさんの幸せをくれた彼には心から愛する人と結ばれてほしい、と――。

 その時の私は一点の曇りもなく心から彼の幸せを願っていたのだ。

 嘘みたいだけれど、そんな状況でも、彼への気持ちは少しも揺らいでいなかったのだ。


 その頃、クラウスは顔を見せるどころか、手紙の一通も届かなくなって数ヶ月たっていた。

 その現実から目を背けることをやめ、私は彼に直接会って噂の真相を確かめるつもりでいた。引導を渡されるなら、彼本人からがいい。その方がよっぽど諦めがつく。そう思ったから。

 もし彼の口から噂は本当だと聞いてしまったら私の心臓は凍りついてしまうかもしれない。それでも、真相を確かめずにはいられなかった。

 

 真相を確認して、潔く婚約を解消してもらおう。原因不明の体調不良を抱える私と婚約を続けていても益はないのだから。

 わかりきったことだったけれど、どうしても踏ん切りがつかなかった。ギリギリまで彼の婚約者でいたかった。でも、もう潮時なのだと悟った。

 本当は「捨てないで」と泣いて縋りたい気持ちでいっぱいだったけれど、もうすでに私から気持ちが離れているのに、そんなことをしてもっと呆れられるのは耐えられなかった。

 最後は「いい婚約者だった」という印象で終わらせたい。そう。これは彼らのためと言うよりも私のためなのだと言い聞かせて――。

 

 今考えれば本当に私は馬鹿だったと思う。誠実な人間が、病気の婚約者を見舞うこともせず、そんな噂を流されることなんてしないだろうに。

 ただ、それまでのクラウスは、私が疑いもしないくらい完璧な婚約者だったので、急に噂を流されるような失態を犯すのは少し違和感があったのは確かだ。

 けれど、そういえば私もクラウスに一目惚れした時は「初めて人が恋に落ちる瞬間を見た」と言われる程わかりやすかったみたいだし、その後も「クラウスを見る目がハートになっている」なんてよく家族にも揶揄われていた。

 私がクラウスに夢中だった時のように、彼も今までの誠実なクラウスを演じきれないほどに愛する女性に熱中し、周囲に好意を隠しきれなくなってしまったのかもしれないと想像する。

 こうして気づけて、そのあと理由はわからないながらも逆行することができたからよかったものの、そのまま死んでいたら死んでも死にきれなかったに違いない。


✳︎✳︎✳︎


 その日はなぜかいつもより体調が良く、珍しくベッドから起き上がれた。

 噂の真相を確かめるには今日しかないと思い、なかなか自分の思い通りに動かない身体を引きずって学園まで行った。

 彼と婚約を解消する覚悟は既にできていた。

 

 そして、運命に導かれるように『死んでくれればいいのに』と話している現場に居合わせてしまったのだ。もう何とも思われていない覚悟はしていたが、死を望まれているとはさすがに予想しておらず、衝撃が大きかった。

 

 優しくて真面目で誠実な彼の印象は見事に破壊された。盗み聞きする形にはなってしまったが、本来の彼を知ることができたのは僥倖といえた。胸を抉られたのかと思うほど辛かったけれど。

 それと同時に、彼への執着とも表現できる恋情も粉々になった。私の中にほんの少しだけ残っていた、彼に対する期待の気持ちが強制的に砕かれてしまったせいだろう。

 

 そう、私は彼に期待していたのだ。真実心から私のことを愛してくれることを。たとえ不治の病だとしても、「結婚しよう」と求婚してくれることを。短い間であっても二人で幸せな家庭を築くことを望んでくれることを――。


 すっかり諦めたつもりでいたのに、事実を知ることがこんなに辛いとは思わなかった。彼に対する期待は自分で思っていたよりも大きかったようだ。それだけ、彼のことを深く信頼していたのだろう。


 馬鹿みたいだ。本当に。


 結局、私がどうやって死んだのかは曖昧でよく覚えていない。愛した人に死を望まれるほど疎まれていたとは思っておらず、絶望に目の前が真っ暗になったことだけは覚えている。そういえばとても苦しかったし、口の中に鉄の味を感じた記憶があるので、彼の本心を耳にしたあの場でそのまま吐血して事切れてしまったのかもしれない。



 そうして私はたぶん一度目の人生を終えた。

 だから、二度目のチャンスを与えられたと気づいた時、真っ先に考えたのは当然クラウスのことだった。


 今度こそ必ず、彼のことは好きにならない。あんなつらくて苦しい思いをするのはもうたくさんだ。

 そして必ず病気に打ち勝つ方法を見つけ、愛し愛される存在を見つけて幸せに寿命をまっとうするのだ。二度と『死んでくれればいいのに』なんて言われない人生を歩むために。

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