第14話 側は空っぽ
また、夢を見た。
自分の鼻を啜る音でリディアは目覚めた。目を開くと、変わらず一人では有り余る広さのベッドの壁際の端っこに転がってきていて、壁の方を向いて横たわっていた。
部屋は暗く、窓から光は少しとして洩れていないけれど、周りには心地よい明るさがある。妖精の光だ。
グレンがいなくなって、二週間が過ぎた。
ときどき、本当にときどき胸が苦しくなるときがある。
何気なく隣を、後ろを、近くを見て彼がいないことを確認してしまったとき。自分の中の何かが欠けてしまったような感覚を抱く。心を締め付けられるものなんてあるはずがないのに、そんな感覚があるのだ。
そんな日には上手く寝つけず、極めつけに夢を見る。夢を見たという実感はあるのに、覚えていないから本当に見ているのかどうかは定かではない。
でも、夢を見ているとするのなら覚えていないのは良いことなのかもしれない。嫌な夢だということは明らかなのだから。
ごしごしと目を擦り、リディアは未だに勝手に流れ続けるものを拭い去った。
◇
――宰相がようやく話してくれた。起こっていたこと、起こっていることを順に。
彼の顔には疲労が滲んでいた。
「今は妖精が少なくなってしまった世ですが、我が国の土地は妖精の力で驚くほど豊かだという話があります。それが本当か確かめる術はないわけですが、土地が豊かであることは確かです。周辺国の中にはもちろんと言うべきか、この土地を狙っている国があります。
特にここ数年は近年で一番不穏で、前の陛下……代々そうでいらっしゃるのですが、陛下も争いは好まない方で何とかしのいでいた状態です。隙を見せないように国境付近は特に固めておりました」
しかし、王の急死という不慮の出来事が起きた。国の一大事、優先事項、国を揺るがすことだ。
「元々殿下がいらっしゃる前にややこしいことになりそうだったのです。王がいなければ国というものは纏まり難いものですが、そうでなくとも、新たな君主を決めるためにいざこざが起きる可能性さえありました。
前の陛下は妃殿下亡きあと新たに伴侶を迎え入れることはありませんでした。私共臣下は常に反対しましたが、あの方は首を縦にお振りにならず、やがて私共が諦める側になってさえいました。
王候補は幾人かおられましたが、陛下もそれほどお歳であるということでもあらせられなかったので、その内決めていけばいいと思っていた矢先の――事故でした」
リディアの父、この国の前王が急死した。
「その隙をつかれないように、殿下が王宮にいらしたときは言い広めていましたよ。国境を固めている兵を安心させるためでもありましたが、問題の国に広めるためでもありました。しかし、隣の国は王となる者が本当にいるのか確かめるために手勢を放ち、まだお若くていらっしゃる殿下をあろうことか殺そうとまでしていたということで……戦を起こす準備もしている可能性もあると思っていましたが……」
宰相は息を吐いた。
「先日、隣国ウィグリスとの交渉が決裂し、宣戦布告されました」
もう戦は始まっているというではないか。
リディアは瞠目し、動揺した。そんなにも簡単に戦というものは始まってしまうのか。
「……勝て、るの?」
「我が国は歴史的に戦は少ないのですが、全くしなかったというわけではありません。常に戦は仕掛けられる側ですが。その分の軍の強化はしているのです。しかし、戦いから遠ざかっていることはもちろん不利に働きますので……五分五分といったところでしょうか」
それほどまでに憔悴しているようで、宰相は正直にそう述べたのだった。
◇
リディアが最も気にせずにはいられなかったのは、最も身近な存在であったグレンのことだった。
五分五分。勝てるかどうか分からない。無事に帰って来るのか、分からない。そのことを考えると、とてつもない不安と空虚に襲われてしまう。
向けられた背が。
優しいだけではない緑の目が。
声が。
言葉が。
目を瞑る度に眠る度に、見えるような、聞こえるような気がするのだ。
雪がとても降った日の夜、この寝室で手を握って抱きしめてくれた温もりが思い出せない。それは遠い日のことのようだった。
側にいない。姿が見えない。
暗い部屋の中、リディアはベッドの上で座り込んでぽろぽろと流れる涙に途方に暮れる。妖精が集まってくるけれど、嬉しいとも何とも思わない。
グレンが側にいてくれればいいのに。そうしたら、きっとこの不安なんて消えてしまうのに。
「お願い……帰ってきて……」
今日もまた、グレンのいない日が始まる。寒くてたまらない日が。
リディアは一人ぼっちでベッドの上に身体を丸めて温まろうとした。
何事もないかのように行われる授業を終え、リディアは足を宙にぶらりと投げ出して椅子に座り、遠くの窓を見つめていた。
「……ね、ミーシュ」
「何でしょう?」
以前とは違い、物静かなリディアに心配そうな眼差しを注いでいた侍女はすぐに問い返した。
リディアは窓の方に顔を向けたままぽつりと「外に、行きたいの」と呟いた。
「それは、少し……難しいかもしれません」
「ミーシュ」
「あと少し待ちましょう、殿下。まだ外は寒くて身体が冷えてしまいますわ。せめて春まで、暖かくなるまで待ちましょう」
「ミーシュ、お願い。ちょっとだけ……ちょっとだけだから」
「殿下……」
侍女に困った顔をさせてしまう。けれど、リディアはその顔を見上げて頼み込んだ。その暗い声と覇気のない様子に、侍女は眉を下げ少し考え込んでいたが、「少しお待ち下さいませ」と部屋を出ていった。
そしてしばらくして、護衛をぞろぞろと連れ、リディアの姿は外にあった。
冷えた空気が肺に満ちる。空は厚い灰色の雲で覆われ、雪は降っていない。出る息は白い。
凍る直前みたいに固い地面を歩いて向かったのは、「お伽噺の世界」へ繋がるはずの生け垣だった。
以前はグレンに連れられてきた場所に進んで行くと、記憶にあるように生け垣の壁にあたる。
あまりに見通しが悪く、加えて前が行き止まりであるので、護衛が辺りを気にしている気配がする。
侍女もぴったりリディアの側についていて、物言いたげにしていた。
リディアはというと、ぼんやりとどうしてか緑薄く感じる生け垣を見上げていた。
記憶とは異なり、うんともすんとも言わない変化しない壁。そよそよと吹く冷えた風に小さな葉が揺れる、何ら変てつのない生け垣そのもの。
そういえば、入り口は妖精にしか開けないのだったか。といつか教えてもらったことをその場にきて思い出した。
周りを飛び交う小さな妖精に視線を向けてみたけれど、淡い光を撒きながらきらきらと舞う妖精たちはリディアのほど近くにいるだけ。
「殿下……?」
「うん……ごめん、帰ろう」
ここに来た明確な目的はなかった。強いて言えば、唯一彼の温かさに似たものをもつ世界で、不思議な温かさを感じたかったのかもしれない。
でもここまでしてすることでもなかった。開き方は分からないし、開かない。
リディアは自分がとんでもなく愚かなことをしているように感じて、最近出すのも億劫になってきている声で侍女に謝った。
許可を取り、これだけの人数を連れてきたのに申し訳ない。そういう感情に埋め尽くされて、少しだけあった希望も削がれたように、足取り重く来た方向に足を向ける。
「春になるまで、帰って来ないのかな……」
「殿下……」
自分で呟いておいて、じわりと目が熱くなり何かが滲み出てきそうになる。
それまで耐えられるだろうか。この寂しさに、冬の寒さに。いや、春になったとき、そうやってこの寒さが冬のものだとごまかすことがもうできなくなることが、リディアは怖かった。
ぎゅっと手を握り合わせて、外の空気に晒され冷たくなった指先を包む。
視界に、いつのものか端っこに少しだけ残っている白い雪が映って、雪だるまを作った日のことを思いだした。
中にいても外にいても、どこにいてもグレンと過ごした日々を思い出してしまう。当たり前だ。彼はいつもリディアの側にいたのだ。
ぽろ、と一人のとき――最近では寝るとき――だけに収められていた涙が一滴頬を滑り落ちた。
その雫が地面に落ちる、というときだった。
優しい香りが背後から流れてきた。
冬。寒く、咲く花はなく、実際ここまでの道には花はなかった。
香りに惹かれ、引き寄せられるようにリディアが振り向くと――ついさっきは衰えた緑だけだった場所を、大輪の花が埋め尽くしていた。
そして、柔らかな光がまばゆいほどに生まれ、涙をいく筋も流すリディアを包んだ。
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