第5話
青紫の唇が「さよなら」と動く。
それを見ると思考はもえ切れて、僕は駆け出していた。「はうぃけん……はうぃ」呻く車掌さんの声を意識から振り払い。駆ける。
駆ける。
煙を掻き分けて、座席をすり抜けて、隣の車両に向かって、白い背中を目指して。
車両の扉が閉まる。女の子の背中が消える。
はやくはやくと気ばかりが急く。身体が重い。まわらない足がもどかしい。
極夜の夜より長く感じる疾走の後、ようやく扉にたどり着く。
がらり、と扉を開ける。閉じたときに聞いた音よりずっと重い扉。粘りつく手応え。
扉の向こう、隣の車両は三等客席。座席はない
。ザラリとした板土間がどこまでも広がっている。
女の子の姿は見えない。けれどもここを通り過ぎたのは確かだと思う。ふわふわと薄く、煙が漂っているから。窓は空いていない。カーテンは締め切られている。煙は薄暗い車両の中に細くたなびいている。
車両の両側の壁の脇にぽつりぽつりと黒い布を被った塊が転がっている。あれは眠っているお客さんだろうか? 起こさないように息を詰め、足音を殺して歩く。
聞こえるのはがたんごとんと電車の揺れる音だけ。張り詰めるような静寂が車両を満たしている。
静寂を破って、お客さんたちの眠りを妨げるとどうなるのだろう。板崎さんが重ね合わせた銀の半球をドライバーでいじっているときに後ろから声をかけたくなるような欲望にも似た好奇心が込み上げる。
欲望を振り払う。大きく踏み降ろしかけた足を慎重に床につける。
ふっと煙が途切れているのに気がついた。慌てて車両の先に目を凝らす。見当たらない。消えてしまったのだろうか? さっきまで確かに漂っていたのに?
すべり落とした感触に力が抜ける。僕の大切になったかもしれないもの。喪失感。腰が抜け、座り込む。
座り込んだ鼻先を幽かな残り香がかすめた。煙の香り。顔を上げる。薄く儚い霞が黒い塊の一つに伸びていた。
【続く】
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