大レースへ向けて

第17話 大レースへ向けて #1

 二勝目をあげた俺は、しばらく厩舎でのんびりできた。さすがに使い詰めだったこともあり、身体のあちこちが強ばっていて、それをほぐすのに時間がかかったせいだ。特別な餌を出してもらったり、運動を控えめにしたりして、とにかく回復に力を注いだ。


 幸い、出走できるレースもなかった。ネマトンプの競馬場は開催が終わってしまって、出走するのであれば、二時間ほど離れた場所にある別の競馬場に行かねばならず、さすがにそれは厳しい。


 条件が合致したレースも少なかった。


 二勝したおかげで、俺は最上級のオープン馬になったわけだが、そうなると、適当に走るわけにはいかない。距離の適性をしっかり見極め、最大限の能力を発揮できる場所に出かけないといけねえ。


 出張するわけだが、俺たちの世界みたいに車で移動するわけにはいかないから、やりたい放題、あちこちに顔を出すというわけにはいかねえ。


 というわけで、しばらくは休むとなったわけだ。


 強いウマの特権というわけだ。


 これで、もう少し坂道調教をゆるめてくれれば楽になったのにあ。休養といいながら、週に二回はきついのやらされたからなあ。この点、ワラフもチコも手を抜かないんだよ。たまんね。


「だいぶ筋肉がついてきたね、この子。お尻が大きくなってきた」


 ミーナに尻をなでられて、俺の口元は思いきりゆるんだ。ああ、たまんねえ。


「身体も一回り大きくなったみたい。競走馬としてしっかりしてきた」

「うん。無理しなかったのがよかったみたい。遠征していたら、もっと身体が細くなっていたと思う。こういうところ、おじいちゃん、うまいんだよね」


 チコが俺の身体をブラッシングしながら答える。背中が何とも気持ちいい。


 今日は、厩舎の周りをくるっと回って、軽く坂道を登っただけで、たいした調教はしていない。休養日で、ワラフも朝から出かけていた。


 ミーナが訪ねてきたのは、チコがウマの手入れをしている時だった。蹄鉄の様子が気になるとのことで、わざわざ見に来てくれた。


 厩舎から出してくれたおかげで、暖かい日の光を味わうことができる。


 天気もいいし、そこいらでごろんと寝たいね


「男爵様がよく納得したね」

「一時は、王都に連れて行こうって話もあったんだけどね」


 王都はタンデートといい、そこにはでかい競馬場があるらしい。


 たまたま開催があったので、見せびらかす意味もあって、男爵様は遠征を望んだが、ワラフが止めた。まだ三歳春の若駒に無理をさせてはならないって理由で。


 確かに、自分でもわかるわ。まだ、身体のあちこちに筋肉がつききっていないって。踏ん張ろうにも足に力が入らない時もあるし、前脚を大きく動かして前に出ようとしても、動きがそれについてこない時もある。未発達のおかげで、頭で考えていることが身体でできないんだよな。


 こう、身体が充実していることはわかるんだが、まだ足りねえ。


 完成するのは、もうちょっと先で、それまでは我慢って感じだね。


 そのあたりの加減をしっかりつかんでいるワラフはすげえと思うよ。


「そろそろ、本気で鍛えてもいいんじゃない。どこのレースを使うの」

「クリドランの一般戦って言っている。そろそろ遠征にもならしておきたいって」

「お、いいね。あたしもついていこうかな。あそこ、いい温泉があるんだよね」


 温泉? いい。それいい。俺も大好きだよ。


 忘れねえな。金沢競馬場に遠征した帰り、石川の温泉宿に泊まったっけ。あの時は、当時、付きあっていたおねえさんといっしょに行く予定だったんだけど、ドタキャンされて、一人で露天風呂に入っていた。哀しかったけれど、湯はよかった。肩の痛みが一発で取れたのは、すごかったね。


 この子と温泉かあ。いやあ、いいな。素晴らしい。


 大きな目玉で上から下まで見ていると、ミーナが顔をしかめた。


「ねえ、この子、たまにいやらしい目で見てこない?」

「え? どういうこと?」

「なんていうか、妙になまめかしいんだよね。欲情しているっていうか。飛びかかってきそうっていうか。なんか気持ち悪い」


 なんだとう。そんなことはない。


 俺は純粋に愛の精神から、君を見ているだけだよ。ミーナ。やましい気持ちなど、どこにもない。


 いや、でも、いっしょに温泉に入ってくれるなら、止めないよ。


「そうかなあ。あたしはそんな風に感じたことはないけど」


 うん。チコには期待していないよ。その凹凸のなさは、騎手向きだからね。


「多分、人を選んでいるだよ。このどスケベ」


 ミーナは俺のケツを思いきり叩く。

 痛い。だが、それがいい。もう一発ぐらいほしい。


「うわー。鳴いているよ。気持ち悪い」

「何が気持ち悪いって?」


 さわやかな声がして、ヨークが姿を見せた。


 薄手の胴着に、黒のズボンという格好だ。結構な日射しなのに、まるで汗をかいていねえ。さわやか満載の空気を漂わせていやがる。


 俺にヨークが歩み寄ると、ミーナが顔をしかめて口を開く。


「この馬よ。さっきからいやらしい目で見られてさ。何かいやなんだよね」

「そうかな」

「そうよ」

「何か、他のウマとは違う気もするけれど、そんな変なところはないと思うよ」


 ヨークは俺の首筋をなでた。


 ええい。鬱陶しい。男になでられる趣味はないんだよ。


「どちらかというと、ぼくに似ているかな」

「え、どこが?」

「人との距離感かな。詰めてきているようで、詰めてきていないんだよね。どこか醒めているところがあるように思える」


 全然、違うよ。俺はお前と違って、さわやかじゃない。逆にさんざん暑苦しい、うざいとか言われてきたよ。


 距離感だってつかむのうまいよ。下品だけどな。


「あれだけ人付き合いがいいのに、よく言うよ」


 ミーナが笑った。


「この間だって、サムファ商会のご令嬢といっしょに歩いているところを見たよ。いっしょに小物を見に行っていたでしょ。贈り物でもしたの」

「あれは、彼女のお姉さんへ贈る品物を見てもらっただけ。いいウマに乗せてもらって、助かっているからね」


 はぐらかす口調も嫌味がなくて、絶妙だ。本当に持っている奴は持っているね。


「それより、今日はどうしたの。調教の日じゃないでしょう」


 チコに訊かれて、ヨークは笑顔で応じた


「ああ、おめでとうを言いに来たんだよ。この馬、フィオーノプ賞への出走が正式に決まったんだろう。正式な通知はまだだろうけれど、一足、早くね」

「えっ、何、それ」

「えっ。聞いてないのかい」

「知らない。ミーナは知っている?」

「初耳。それ、本当なの」


 三人は互いの顔を見て、首をひねる。なんだ、これ。


 俺も聞いていないんだけど、どうなの。出るの? 



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