第9話 草原の国の装蹄師 #1
午後になって、ようやく男爵が厩舎を離れると、チコが俺の馬房まで来て、俺を外に出してくれた。引き綱をつけて、その辺を回る。
ま、馬房で少し暴れてやったからな。もう少しで壁をぶち破るところだったぜ。
チコはゆっくり坂を下って、草原の合間を流れる小川まで、俺を連れて行った。
ちょうどよかった。喉が渇いていたんだ。
俺は川に頭を突っ込んで、がぶがぶ水を飲んだ。
「どう、ちょっとは落ち着いた。あまり手間かけさせないでね」
仕方ねえじゃん。腹が立ったんだからさ。
何だよ、あの男爵の物言い。チコを役たたずみたいにいいやがって。あれって、どうなの。お貴族様だから、許されるの?
「怪我したら大変なんだから。もう少し後先を考えて動いてね」
チコが首筋に抱きついてきた。
いい香りが漂う。
いやあ、やっぱり女の子だねえ。これはいい。いいよ。
だが……しかし、やっぱり。
俺は首を動かして、感触を確かめる。
足りねえ。やっぱり足りねえ。見た目にもわかっていたが、これは貧弱だ。
もう少しポンと出ていないと、俺好みとは言えないなあ。触っていてもいささかつまらん。
俺の感想はおかまいなしに、チコは首筋に抱きついていた。離れるまでには、少し時間がかかった。
「ありがとう。じっとしていてくれて。おかげで気分が軽くなった」
……そうかい。俺でよければ、いつでも来いや。動かないで、じっとしているのなら訳ないぜ。
「乗りたいとは思うけれど、こればかりはね、勝手なことは言いたくないよ。じいちゃんに迷惑もかけたくないし」
その心がけは立派だ。いいとは思う。だがよ……
「さて、この後、どうしようか。坂を登ってもいいんだけど」
いや、待て。ちょっと待て。ここで乗り運動かよ。
そいつは勘弁してくれ。朝、あれだけ走ったじゃないか。もう十分だ。壊れる。
第一、馬具の準備がないだろう。俺、鞍も乗っけていないんだぜ。これでは、無理だから。
ちょっと俺が逆らって首を振ると、チコは笑った。
「すぐに嫌がる。本当に運動嫌いなんだから。わかった。なら、このあたりを……」
やわらかい言葉は途中で途切れた。茶色の瞳が丘に向く。
つられるようにして顔を向けると、斜面を下る人の姿が見てとれた。白いコートのような服を着ていて、それが風を受けてたなびいている。
長い髪がほっそりとした身体に、実によく似合っている。
足取りはしっかりしていて、急な斜面をためらうことなく降りてくる。
よく知った匂いが漂う。まったくウマの嗅覚はたいしたものだね。
その人影が近づいてくるのを見て、チコは俺を連れて歩み寄った。ちょうど斜面が終わり、なだらかになったところで顔をあわせる。
「ああ、チコ。厩舎に寄ったら、こっちだって聞いてね」
「うん、この子を運動に連れてきて」
「この間の勝った子だよね。うん、いい体型だ」
斜面を下ってきたのは、若い娘だった。丸顔で、肌は驚くほど白い。薄い緑の瞳が実にキュートだ。
何よりも眼鏡だ。この世界にそんなものがあるとは思わなかったが、丸い二つのレンズが娘に理知的な雰囲気を与えている。
白いコートが白衣のように見えることもあり、医学生のようにも見える。
娘は俺の前に立つと、両腕で俺の顔を挟んで、正面に向けた。
「ちょっと、ミーナ」
「まあ、いいじゃない。見せてよ」
ミーナと呼ばれた娘は、じっと俺を見る。
お、にらめっこか。それなら、俺も負けないぜ。
じっと視線をあわせる。
が、色白の顔が目の前にあると、ついにやけてしまう。
俺、メガネっ娘、好きなんだよね。
しばし、ミーナは見ていたが、やがて手を離すと、チコに顔を向ける。
「うん。目や耳にも問題はなさそうだ。最近、虻が出たって聞いたから、気にしていたんだ」
「うちは大丈夫。皆で追っ払った」
「怪我がなくてよかった」
そこで、ミーナは俺を見る。
「ただ、この顔つきはよくないね。何かエロい。ろくでもないことを考えていそうな気がする」
何だと。よくも、そんなことを。
俺はいつだって真面目だよ。先々のことをちゃんと考えている。
ちょっと色目を使ったぐらいで、文句を言われたくはないなあ。本能なんだから、別に
いいじゃない。
二人はたわいもない話をしながら、小川へ向かった。
チコの顔に、笑顔が浮かぶ。無邪気で、屈託がない。見ていて気持ちがいい。
ミーナはチコの親友だ。家が近所で、ワラフがミーナの家族と知り合いだったこともあり、ガキの頃はひっきりなしに行き来していたらしい。ワラフが忙しい時には、しばらくチコをミーナの家で預かってもらったこともあるようだ。
学校へもいっしょに通った。ミーナは頭がよくて勉強もできたが、チコはさっぱりで、テスト前にはさんざん世話になったらしい。この間もあれだけ教えてやったのに、全然、憶えていないんだねとか言われていた。
休日には遠乗りにも出たようだ。男もいっしょだったようで、そのあたりは腹がたつが、まあ、健全な付き合いだったので、とやかく言うことはないか。
泊まりがけで話をすることもあり、チコにとっては、もっとも心を許すことができる相手だろう。
いいタイミングで着てくれた。というか、ワラフあたりから知らせがあったか。
小川のほとりまで来ると、チコは草むらに座って、ポツリポツリと話をした。今日の出来事にも触れて、男爵から騎乗を断られたことも語った。
「まったく、あの貴族様は。いったい何を見ているんだか」
ミーナは、頭をかいた。
「チコがどれだけ努力してるか知らずに、文句ばっかりとか。せめてチャンスぐらいはくれてもいいじゃん」
「仕方ないよ。うまい乗り手はいくらでもいるから」
「あんな屑みたいな騎手を雇っていて、よく言うよ。使えないよ、あいつ」
「ミーナ、きついね」
「事実じゃん。あたしが会う人は、皆、駄目って言っている」
おうおう、言ってくれるね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます