第18話 新たな生活 4
ゲオルグはゾフィーと結婚をする前に、他国の姫に求婚し断られていたことを、エルンストは思い出していた。
その相手とはカールリンゲンと国境を接するシュタインベルグ国王の娘だった。その美しさは大陸の隅々まで知れ渡り、遠く離れたフォーゲルザンクやブラウンシュバイクにまで聞き及んでいたらしい。
なんでも各国の王や皇太子が求婚したものの、すべて断られてしまったとのことだ。ゲオルグもその一人だった。
『たかが小国シュタインベルグの存在で、この大国カールリンゲン皇帝の申し出を断るなど、不届き千万。余に恥をかかせたのは万死に値するっ!』
などと、しばらく荒れていたのだが、気づけばその姫の話はしなくなり、ゾフィーと結婚し落ち着きを取り戻していた。
エルンストもその姫の噂は知っていたが、他国の姫君などには毛頭興味が無かったので、名前すら知らないでいた。
現在シュタインベルグとの関係は微妙だが、わざわざ人質のように他国の姫を迎え入れるよりも、ゾフィーとの結婚で国内を安定させるほうが得策だと考えていた。
「好きな女はいないのか?」
問われて、「おりません」ときっぱりと答えた。
一瞬だけある女の顔が浮かんだものの、すぐに打ち消した。道理に合わない女なのだ。あり得ない。
「強情な奴だな。近いうちに食事をしよう。余がお前の好きそうな美姫を適当に見繕っておいてやる」
「はぁ・・・」
謁見の間から一時間ほどして、エルンストは皇帝の元を辞したのだった。
***
エルンストがシュバルツリーリエの執務室で部下からの業務報告を受け、事務処理を片付け屋敷に戻ったのは夕刻だった。
「お帰りなさいませ」
出迎えたのは、コンラートとフィーアだった。
「すぐ風呂だ」
手袋とマントをコンラートに無造作に渡すと、そのまま浴室へと向かうエルンストの後をフィーアは黙ってついて行く。
ルイーザから風呂の介添えの仕方は教わっている。
着替えを用意し、軍服は洗濯専門の店に翌日出せるようにしておく。後は脱衣所外で控えていればいい。
大体一時間はかかるから、その間に他の用事を済ませて戻ってもいいらしい。
『ご主人様はお風呂から上がったら、必ず自室でワインを飲まれるのよ。銘柄はその時に指定されるから、それをお部屋まで運んで一日は終わり』
そう教えられていた。
軍服をたたみ専用のかごに入れ、脱衣所を後にしようとした時だった。
「おい」
湯殿からエルンストの声がした。
突然のことにフィーアの心臓がドキンと跳ねた。
「おい、そこにいるのだろう?」
「は、はい。おそばに控えております」
息苦しさを感じながら、とっさに返した。
「背中を流してくれ」
えっと・・・。
しばらくフィーアの思考は止まってしまった。
今何て?聞き間違い?
ルイーザからそんな話は聞かされていない。
「聞こえなかったのか」
「ひっ」
目の前にエルンストが立っていた。当然ながら腰にタオルを巻いて。
「・・・」
「早くこっちへ来い」
言われるままにエルンストについて湯殿に足を踏み入れる。モワモワと立ち上がる湯気で視界が曇る中、エルンストは大理石の腰かけに座った。
「背中を洗ってくれ」
「か、かしこまりました」
渡された海綿を受け取ると、ゆっくと背中を洗い始める。
細身の割には筋肉質で、がっしりとした背中や腕には所々に小さな傷があった。
過去の戦で負ったものだろうか。
海綿の動きはどうしてもぎこちなくなってしまう。フィーアにとってこんなことは初めての経験だからだ。
落ち着け。と思えば思うほど、それとは反対に呼吸が早くなってしまう。
こんな所で二人きりなんて、絶対に危ういと思う。昨夜のこともあるし――。
そう考えると余計な所に力が入り、「あっ」海綿を落としてしまった。
「も、申し訳ございません」
急いでそれを拾いあげようとした時、エルンストの手が重なった。
「緊張しているのか?」
重なった長い指を無言で見つめることしか出来なかった。頭は真っ白になっていた。
「心配するな。お前は奴隷でもなければ、娼婦でもない。我が家の侍女だ。侍女に手を出すほど俺は落ちぶれてはいない」
スッと、フィーアの手から温もりが消える。
見上げた視線の先にはエルンストの切れ長の瞳があった。
視線がからまり、フィーアの心臓はどうしようもないくらい激しく唸りを上げた。
この人は、どうして私をどぎまぎさせるのだろう。
ただ、エルンストの一瞬だけ見せた優しい瞳に、自分が抱えていた憂いの一片が落ちた気がした。
そして、黙て頭を下げると、エルンストの背中にお湯を流したのだった。
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