第7話 奴隷の女を買う男 2

 陽は落ち、灯りひとつない暗闇が視線の先に広がっていた。


「館まで、あとわずかだ」


 無言で馬の背に横たわる娘にエルンストはつぶやいた。


 職業柄、常に冷静沈着、正確な判断力を持ち合せていると思っていたから今回の行動を自分自身腑に落ちないでいたが、いつまでもうじうじするたちでもなく、エルンストの腹は決まっていた。


 敷地内にある馬屋へ向かい馬番のカールに馬を預け、娘を胸の前で横抱きにすると、エントランスへと入った。

 相変わらず意識はないようだった。ピクリとも動かない。


「お帰りなさいませ、ご主人様。辺境のご視察はいかがで・・・」


 うやうやしく主人を出迎えるはずだった、執事のコンラートは言葉を失った。

 白髪が目立ち始めた今年六十歳になるコンラートは執事の経験が長いこともあり、多少のことでは動じないはずなのだが、くちごもった。


「ど、ど、ど・・・・」

「何だ、はっきり言え」

「ご主人様の胸の前に、お、お、汚物が・・・」


 当然の反応だな。エルンストはコンラートを一瞥しただけで黙っていた。余計なことを言えば、事態が悪化しそうだった。

 帰りの馬上で思案した結果、とにかくコンラートにはつべこべ言わせず押し切ると決めていた。


「ご、ご主人様。まさかその汚物を屋敷の中に・・・」

「この娘が汚物なら、汚物を抱く俺の身にもなれ。後はお前に任せるぞ」


 言うが早いか、エントランスに置かれたゴブラン織りが美しい長椅子に娘を横たえた。


「ぐあぁぁああ」


 意味不明なコンラートの断末魔ともとれる叫びを無視すると、控えていた侍女に「風呂に入る」と告げて、さっさとその場を後にしたのだった。


 独り対応に苦慮するコンラートの姿を想像すると、何故かおかしくなるエルンストだった。


 

 風呂でゆったりした時間を堪能したエルンストは、いつものように自室でワインを楽しんでいた。すると風呂から上がるのを見計らって、コンラートが彼の自室へ姿を現した。

 

 やはり来たか。ただでは済むまいな。そう思いながらワインのグラスを静かにサイドテーブルに置いた。


「遅い時刻に申し訳ありません。例の女奴隷のことでございますが」

「ああ」


 タオルで頭をふきながら、侍女に席を外すように命じる。


「とりあえず、馬屋で寝泊まりさせようかと存じます」


 奴隷などこの屋敷に一人もいない。むしろ必要のない存在だ。扱いを持て余すのは当然だろう。

 たが・・・。


「馬屋?それでは俺があの娘を買った意味がないではないか。もう少し人間らしい生活をさせてやれ」

「お言葉ではございますが、べーゼンドルフ家の屋敷に奴隷を入れたとなりますと、それなりに問題もございましょう。長い歴史の中で、ただの一度も奴隷を買ったことのない家柄でございます」


 生真面目なコンラートの表情はいたって真剣だ。

 いわば家訓のようなものの一文に奴隷を買ってはならぬ。などと言う文言がはたしてあっただろうか?


「先祖が俺の不届きをとがめるために、夜中墓場から這い出て来るか?」

「ご冗談を。名家には名家の行いがございます。いくら箝口令をしいたとしても、使用人から必ず漏れます。おそらく領民もがっかりいたしましょう」


 エルンストは笑わずにいられなかった。


「俺はそこまで品行方正か?」

「少なくとも他の領主よりは尊敬を集めておいでです。聖人君子とは申しませんが」


 こいつ。エルンストは口の端を歪めた。


「お前も俺があの女奴隷を買った理由は――」

 

 一度エルンストは言葉を切った。

 今日の町の人間の反応と言い、コンラートと言い、人を見て物を言え。と言いたかった。

 エルンストは美丈夫ゆえ、女性に不自由をしたことが無かった。つまりその意味での女奴隷など全く必要ないのだ。

 だが、目の前の老人は決めつけている口ぶりだ。


「それ以外思い至りません。使用人も十分におりますし、ご主人様は奴隷を買う理由などございませんから。奴隷は罪人でございます。いくらご主人様が気に入った女であっても、それだけは看過するわけには参りません。亡くなった先代の旦那様に顔向け出来ません」


 元々人間を物のように売買することなど、エルンストとて良しとは思っていなかった。

 罪人ならばそれ相応の罰を与えればいい。


 成り行きとは言え一人の奴隷を助けたところで、この問題が解決するわけではないが、おそらく心のどこかで奴隷制度に対して何かもやもやとしたものがあったのだ。

 だから、思わず女を買ってしまった。せめて、この娘だけでも犯した罪にふさわしい償わせかたをしようと。


「あの娘がどんな罪を犯したかは分からんが、だからと言って家畜のように生きていいはずがない。俺はすべての奴隷に対してそう思っている」


 いつの間にか雨が降り出したようだった。

 窓を激しく叩く音が、エルンストとコンラートの間に割って入った。


「・・・ご主人様の崇高なお考えは立派でございます。ですが奴隷は奴隷。汚れを屋敷に入れるのだけは、どうかご容赦ください」


 コンラートは深々と頭を下げた。


 長年仕えているコンラートにそうまで言われてしまったら、エルンストとしても、ごり押しは出来ない。

 しかし馬屋に住まわせたら、かなり汚れていたせいではっきり娘の年齢は分からなかったが、十代であると思われた。若い娘であれば、馬番のカールに犯されてしまうだろう。


 それはそれで人道的に不快だった。カールの慰み者として女を買ったわけではない。


「娘はどこにいる?」


 エルンストの問いかけにコンラートは口ごもりながら「外です」

と呟いた。


 外に放置されていると言うのか?ただでさえ体力が落ちているはず。雨に打たれれば、夏とは言え体が冷えて死んでしまうかもしれない。


 立ち上がるとエルンストは自室を後にした。コンラートの止める声も聞かずに。

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