7-6.An die Freude~歓喜の歌~

 リハーサルを経て本番が始まった。舞台の端から見えずとも、席は貞樹さだきの言うとおりほとんどが満員なのだろう。理乃りのは拍手の勢いに圧倒されそうになる。


 葉留はるを中心とし、生徒たちがそれぞれの曲目を演奏し終えた。次は葉留と美智江みちえの演奏――ベートーヴェンの『ヴァイオリンソナタ 第五番・春 Op.24 ヘ長調』だ。ピアノの譜めくりは理乃と貞樹の『クロイツェル』などもそうだが、しゅんが担当してくれる。


 理乃は葉留と軽く手を合わせ、お辞儀をした美智江と俊をそれぞれ見送った。


 再びの拍手。葉留は緑色のドレス、美智江は黄色いドレスを着ており、春らしい色合いに自然と笑みが浮かぶ。


 グロトリアンのピアノ前に葉留と俊が腰かける。美智江がバイオリンを構えた。少しの静寂。のち、二人が明るく小気味よい曲を奏で始めた。


 素敵な演奏に、しかし理乃は次、自分の出番に集中する。目を閉じ、何度も覚えた楽譜や貞樹に叩き込まれたことを思い返しながら。


 心臓が脈を打つ。心地いい程度の緊張感に深呼吸を繰り返し、体をほぐした。


(今のわたしの音色を。貞樹さんとの演奏を、皆に)


 決意を瞳にそっと瞼を開ける。直後、肩に手を乗せられた。隣にいた貞樹が微笑み、ただ首肯する。大丈夫だと言わんばかりに。理乃もまた、笑みを浮かべて頷いた。


 何も言わなくても心が通じている。信じ合う関係性まで至れた喜びを胸に、しばらく葉留たちの演奏を聴いた。


 二十分弱が驚くほど早く過ぎ去る。ついに、理乃と貞樹の出番だ。


「行きましょう、理乃」

「……はい」


 退場する葉留たちに笑みを返し、二人で舞台袖からステージへと赴く。


 一際大きく拍手が鳴った。観客席に向かって礼をする。観客席の中、ステージのすぐ手前の席に両親がいるのが見えた。隆哉たかやも、瑤子ようこたちもいる。


 思う人々が来てくれたことへの喜びに理乃は薄く笑んだのち、すぐに顔を引き締めた。貞樹がピアノ前に座るのを確認し、視線をやって様子を伺う。彼が軽く頷いたことを視認してからバイオリンを構えた。


 第一楽章のアダージョ・ソステヌート―プレストは約十四分。五百九十九節にも及ぶ、一般のシンフォニー一曲とも肩を並べる規模だ。体力も気力も消費する。だが、気後れすることはない。貞樹の導きと今までの鍛錬が、理乃へ自信を持たせている。


 小さく呼吸したのち、弓を引く。イ長調の序奏を緩やかに、それでいて大胆に。


 イ短調のプレストもバイオリンから入る。それを貞樹のピアノが追いかける。バイオリンとピアノ、交互に主役を変えつつ、二つはあくまで対等だという題目を忘れずに。


 指も腕も軽やかに動いてくれた。思いを込め、緊張を歓喜に変えて音を奏で続ける。


 嵐のようなプレストから、穏やかなコラール風の演奏へ。ピアノに身を預けるのではなく、対立するのでもなく、貞樹と一緒に道を歩く対等さをイメージする。


 時に静かに、激しく。優雅であり、荘厳。バイオリンとピアノ、共に主役であることを忘れないメロディは辛いが、楽しい。ただの情熱だけに流されないように、様々な思いを音に乗せる。


 二人の音が駆け上っていく。遙か高みへ、クライマックスへと。ピアノと一緒に最後の音を奏でた時、法悦にも近い感覚が理乃を襲った。


(これが……今のわたしの音)


 全力を持って弾ききった。小さく吐息を吐き出し、バイオリンを肩から降ろす。


 拍手が凄まじい勢いで鳴り響いた。体全体を叩くようなほど大きい。貞樹が立ち上がり、理乃の隣に並ぶ。二人で一礼した。スタンディングオベーションまでしてくれる客もおり、理乃は微笑む。


 拍手は鳴り止むことなく続き、貞樹に向かって視線をやった。貞樹が笑みを浮かべ、もう一度礼をするに合わせて理乃も倣う。全身が熱かった。やり切ったという達成感が胸を占め、ふわふわした感覚が体中を包んでいる。


 盛大な喝采を背に、一度舞台袖へと二人で戻った。手を叩く音はやまない。これは次のアンコール曲を弾くべきだろう。


 すぐに気持ちを切り替えたのを見てか、貞樹が笑みを深めた。


「次を弾けますか、理乃」

「大丈夫です。やれます」

「ではまた、お願いします」


 頷き合った。二人で再びステージに登場する。静かになったホールで、次に弾くのはシューベルトの『華麗なるロンド D895』だ。難易度が『クロイツェル』と同等の曲目に、しかし理乃は恐れすら感じない。


 貞樹という存在と出会えた喜びを音に乗せ、静と動が交互に行き来する演目も無事、弾き終えることができた。多幸感と高揚感に包まれながら。


 それから貞樹と葉留が、それぞれ時間を調節しながらアンコールのための曲を弾いていく。コンサートは無事、終了した。成功だ、と思う。十三時からの午後の部だけだが、他の大きいコンサートが入っていなかったことも功を奏したかもしれない。


 生徒たちも貞樹も、皆満足そうだった。ミスもアクシデントもなく、いい曲を弾けた。理乃には安心するより満ち足りた気持ちがある。


(できたよ、姉さん……わたしの音で弾けたよ)


 天賦てんぷの才だとか、秀才だとか、そんなことは気にせずに自分の全力を出し切ること。自身に課した最大の難関もクリアできた。その事実が嬉しくて堪らない。


「皆さんお疲れ様です。素晴らしい音色をありがとうございます」


 控え室に戻った中、貞樹が生徒たちに労いの言葉をかける。彼は俊と握手を交わし、それから隅にいるこちらを見て近付いてきた。


「見事でしたよ、理乃。自信のある、いいバイオリンでした」

「ありがとうございます。貞樹さんのピアノもとても素敵でした」


 貞樹の『タンホイザー』にも聞き惚れていた身として、微笑んだ。


「ちょっと、さだ。妹に労いの言葉はないの?」

「葉留もお疲れ様です。いい音でしたよ」

「なんか瀬良さんと差がある気がするんだけど……まっ、許して進ぜよう」


 生徒たちが葉留の言葉に笑い声を上げた。美智江も、誰もが笑顔だ。理乃も、また。


 最後の後始末があるという葉留と俊を置き、時間に余裕を残して全員、退室する。夜には打ち上げの予定で飲み会だ。


「理乃」


 ロビーまで出た時、懐かしい声がした。受付近くから声をかけられ、そちらを向くと、そこには泣き笑いを浮かべている両親がいた。


「お母さん、お父さん……」


 足を止めた自分へ、二人が歩いてやって来る。


「凄い演奏だったわ。とても素敵なバイオリン……これがあなたの音色なのね」

「うん。来てくれてありがとう」

「あなたがバイオリンを習ってる、って聞いた時はね。少し心配していたの」

「……姉さんのことがあるから?」

「そうよ。ずっと引きずっていたでしょ? でも、そんな心配はいらないわね。あなたは自分の足で歩き出したんだもの」


 納得したような母の声は優しい。父は無言で涙ぐみ、ハンカチで目を覆っている。


「もう大丈夫だよ、お父さん。お母さんも。わたし、自分で幸せを掴むって決めたから」

「……強くなったわね、理乃。あなたの後ろにいるのが宇甘うかいさんね」

「はい。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。理乃さんとお付き合いさせていただいている、宇甘貞樹と申します」

「お付き合い」


 父が呟き、呆然とした表情を作った。母は笑う。珍しく上機嫌に。


「娘がお世話になっております。どうりで見事な『クロイツェル』だと思いました」

「ありがとうございます。彼女がいてこその演奏でした」

「……お付き合い……」

「あなた、いつまでもぼうっとしてないの。喜ぶところでしょう、ここは」

「そ、そうだなあ。宇甘さん、これからも理乃をよろしくお願いします……」


 肘で小突かれ、我に返った父がしょんぼりとした様子で言うものだから、理乃はつい笑い声を零した。


「それじゃあそろそろ失礼するわ。あ、そうだわ」

「何?」


 耳打ちするような素振りを母が作り、理乃は顔に耳を近付けた。小声で母が続ける。


上江かみえ君が、俺も前に進みます、って言ってたわよ」

「そう……よかった」

「今度、宇甘さんと家にいらっしゃい。歓迎するから」

「ありがとう、お母さん」


 微笑んで二人を見送る。父は半ば引きずられるように、母に連れられて帰っていった。


「いいご両親でしたね」

「今度家に来て下さい、って母が言ってました。上江さんも前に進むそうです」

「それは何よりです。理乃、あなたの演奏が彼を後押ししたのでしょう」

「貞樹さんのピアノも、ですよ。きっと」


 隆哉が再びピアノを演奏するかわからない。それでも、自分と貞樹の演奏でいい方向に変わったならそれは喜ぶべきことだ。


「宇甘先生、瀬良せらさん! 先行っちゃいますよっ」


 美智江の声が響き、二人で顔を見合わせた。どちらともなく手を繋いでコンサートホールをあとにする。


 晴れ渡り、澄み切った夕暮れの空。陽射しがこれからをも祝福してくれているような気がして、天を仰ぎながら理乃は微笑んだ。

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