5-7.Voi che sapete~恋とはどんなものか~

 その後、貞樹さだきはホテルまでの道程を確認し、帰り道で葉留はるに菓子をねだられた。


(……理乃りのへのプレゼントはどうしますかね)


 嬉しそうに菓子を選んでいる葉留を横目に、思案する。オードトワレを贈ったのは誕生日が近かったからだろうか。判別がつかない。今回は高級ホテルでのディナーも予約してある。その旨は伝えておいた方がいいだろう。


 人混みから外れ、スマートフォンで連絡アプリを開いた。


 「お疲れ様です」

 「二十四日はディナーを予約しているので、セミフォーマルのスタイルで来て下さい」


 文章を送ったあと、閃いて付け加える。


 「ドレスなどお持ちでしたら、一度見せていただきたいのですが」


 ドレスに合った何かを贈ろうと決めた。今は昼過ぎだが、早くも既読がつく。


 「今、お電話大丈夫ですか?」


 控えめに返信され、葉留を置き去りに一度地下を出る。邪魔にならないところで理乃へ電話をかけた。数秒ののち、理乃が通話に出る。


「貞樹さん、こんにちは……」

「こんにちは。突然すみません、お仕事中だったでしょう」

「今日は、ちょっと……休んじゃったんです。熱っぽくて」

「大丈夫ですか?」


 思った以上に柔らかい声になった。熱を出させた原因が、自分にあるような気がして。


「はい。大した熱じゃないので。あの、ドレス、写真で送ります」

「助かります。本当に体の方は」

「平気です。体調管理してなかったわたしのせいで……貞樹さんの方こそ、具合は」

「大丈夫ですよ。心配をかけていますね」

「その、記憶だって戻っていないのに……わたしとお夕飯なんていいんでしょうか?」

「気になさらず。せっかくの誕生日なのですから、楽しんでほしいのです」

「……ありがとうございます。じゃあ、写真の方送りますね」

「ええ。どうぞお大事に。ゆっくり休んで下さい」

「はい。貞樹さんも、無理はしないで下さいね」


 優しい台詞に、つい口元が緩む。透き通ったソプラノの声が心身に染み渡っていく気がした。また今度と互いに話したところで、名残惜しさを感じつつ通話を切る。写真が添付されたのは、数分ののちだった。


 瑠璃色の総レースドレスだ。中のワンピースは肩紐作りになっているものの、丈は少し長めで、肩から手首もレースに隠れている。フェミニンな印象を受けた。バッグは金色が入った黒いクラッチバッグ。他の装飾品は映っていない。


(彼女は普段、アクセサリーをつけていませんでしたね……)


 ならば、真珠のネックレスはどうだろうか。「参考にします」と返信をして、スマートフォンをスーツのポケットに片付ける。


 菓子売り場に戻ると、一転して不機嫌になっている葉留がいた。


「どこ行ってたの。結局自分で買ったよ」

「理乃と少し通話をしていたんです。まあ、今度買ってあげますから」

「約束だかんね。瀬良せらさんとなんの話してたの?」

「ドレスコードの話ですよ。私はこれから買い物をします。プレゼントを選びたい」

「何贈るか決まってる、って顔してるけど」


 揶揄やゆするような葉留の台詞に、貞樹は頷く。


 葉留を連れ、上の階にある宝飾店へと赴いた。年甲斐もなく胸が弾む。理乃に似合いそうなアクセサリーが多々あり、悩むも、狙った真珠のネックレスを一つ包んでもらった。


 オードトワレを贈った時も浮かれていたのだろうか。わからない。それでも彼女のため、と思うと自然に心は躍った。間違いなく、自分は理乃へ深い思いを抱いている。


 頭の中に、昔のトラウマにも似た恋愛はこれっぽっちも掠めない。不思議だ。隆哉たかやという不安要素も抜け落ちていた。ただただ、楽しい。記憶がないなんてことも忘れるほど。


 理乃のことばかりが気になる。特に、体調を崩しているという彼女のことが心配だ。


 デパートから出て、歩きながら葉留へ話を振る。


「理乃の家は教室の近く、でしたね」

「うん。さだの家と一駅違いだよ。なんで?」

「体調が少し悪いと聞きまして。見舞いに行こうかと」

「あたし、瀬良さんの家に行ったことないんだよね。住所は知ってるけど……」

「教えて下さい。一人で行ってみることにします」

「大丈夫なわけ? 迷ったりしない?」

「二人で押しかけるのも迷惑でしょうから。少しずつ場所も覚えていきたいので」


 葉留はわかった、と呟いて、理乃の家の住所と地図をスマートフォンに転送してくれた。少し込み入った場所にあるが、マンションだ。周りの人間に尋ねればわかるだろう。


 葉留の家は貞樹が使う東西線ではなく、南北線側にあるらしい。地下鉄の駅で別れ、一人、降りる場所を確認しつつ理乃の自宅へと急いだ。


 途中、ドラッグストアがあったので立ち寄る。スポーツドリンクとゼリー、熱冷まし用の冷却シートを購入した。ついでに店員へマンション名を聞くと、わかりやすく答えてくれた。


 歩きながら思うが、教室とは本当に近い。歩いて数分程度の距離に理乃のマンションはある。迷わずに教えられた彼女の家へと辿り着いた。


 マンションは五階建ての、周りと比べて質素な建物だ。マンション入り口にある枯れ木には雪が降り積もっている。ここの三階、三〇二号室に理乃は住んでいるらしい。


 早速入ろうとエントランスに足を踏み入れた――と同時だった。


 中から、隆哉が出てきたのを目撃したのは。


 緩んだ顔が強張った。心臓が激しく脈打ち、動悸が酷い。思わず足が止まった。


 隆哉は何度も背後を振り返って、心配そうな面持ちを作っていたが、貞樹に気付いたのか目を丸くさせる。


宇甘うかい

「……どうも、上江かみえ君」


 笑顔など浮かべられず、鋼みたいな声音で挨拶をした。途端、隆哉の目が猛禽のように細められる。手にした買い物袋をそのままに、自身の赤毛を掻く彼は顔を歪めた。


「あんたも理乃に会いに来たのか」

「ええ。熱を出したと聞いたものですから」

「ふぅん。で?」

「で、とは」

「プリンとゼリー、どっちだ」

「……ゼリーですが」


 鼻で笑われた。本当に小馬鹿にしている、敵意を持った笑い方に、それでも貞樹は平然としたふりで対処する。


「おかしいことでも?」

「あいつはゼリー苦手なんだよ。ヨーグルトも。昔から変わっちゃいないんだ」

「記憶がないものでしてね。わざわざありがとうございます、好みを教えて下さって」


 精一杯の虚勢でうそぶけば、隆哉が舌打ちした。


「あんた、記憶がないのに理乃と付き合ってくつもりなのか」

「それは私と彼女の問題です。あなたに関係があるとは思えませんが」

「……あいつは優しいんだ。馬鹿なくらいに。こんな俺を許してくれるくらいにはな」


 隆哉は自嘲じみた、どこか暗い面持ちでささやく。許す――一体理乃は、彼の何を受け入れたのだろう。とても大切なことだった気がする。隆哉と理乃の関係というのは。


「ま、俺も馬鹿だったけどな。すぐ側にある温もりに気付かなかった。あんたが現れてようやく目が覚めた、って感じだ。それには礼を言うぜ、宇甘」

「私は……」


 つきんと頭痛がする。痛みに眉をひそめながら、貞樹は言葉を詰まらせた。


 理乃が隆哉に向けた笑顔が、脳裏にこびりついて離れない。春のような、うれいのない顔。心の奥底で芽生えたのは、嫉妬だ。自分ではどうすることもできないほど強く、熱い思い。


「理乃は渡さないぜ。俺は諦めない。あんたがいようと」

「……彼女は物ではありませんよ」


 それだけの嘘をつくのがやっとだった。本当は、誰よりも理乃を手にしたい気持ちがあるのに。記憶がなくても、焦がれる思いは確かにあるというのに。


 隆哉は不敵に笑ったのち、自分の横を通り過ぎて去っていく。動かない。動けなかった。買い物袋を強く握りしめる。かさつく音だけが、やけに大きく響いた。


 ようやく振り返り、角に消えていく隆哉を見つめてから嘆息する。そのあとマンションを見上げた。差し入れは迷惑だろうか、急に不安が増す。


(……悩んでいても仕方ありませんね)


 重い足取りでマンションへと入った。オートロックのドア、その横にあるインターホンに部屋番号を打ち込む。少し経ってから、いきなり理乃の声がした。


「わたし、プリンにつられませんから!」

「は?」

「えっ、あ……貞樹さん? どうして、えっ、きゃっ」


 つまずいたのか何やら大きい物音までした。


「痛っ……あ、あの貞樹さん、どうして?」

「お見舞いです。残念ながらプリンは持ち合わせていませんが、開けてもらえますか?」

「は、はい。でも、着替えるので少し待って下さい」

「そのままで大丈夫ですよ。病人が無理をしてはいけません」


 悩んでいるのだろう、ドアが開いたのはそれから数十秒経ってからだ。


「どうぞ……」

「ありがとうございます」


 貞樹は小さく笑い、エレベーターへと乗った。誰もいない中、笑みが浮かんでやまない。


(本当に可愛らしい人だ)


 失った記憶の中で、理乃はもっと愛らしい姿を見せてくれていたのかもしれない。


 零れ落ちた記憶が欲しい、と初めて思った。

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