5-5.Rêverie~夢想~
車で送ってもらい、
カーテンを閉める。リビングには革張りのソファとガラステーブル、それからテレビと共に黒いスピーカーが二台あった。広いダイニングキッチンも見回したが、ほとんど記憶にない。それでも自分好みのスタイルだな、と一人で納得した。
無音というのもどこか落ち着かない。テレビをつけ、適当なニュースを流しておいた。そのまま室内を確認していく。浴室、トイレ、そしてバイオリンが置かれた部屋。防音室は作られていない。寝室と思しき場所を後回しにし、最後の部屋を開ける。
パソコンと本棚がある部屋だった。書斎に使っていたのだろう、と思う。本棚には様々な小説、音楽関連の書籍が並べられていた。壁には数種類の高名な国際音楽コンクールの表彰状が飾られている。
「……ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール一位。エリザベート王妃国際音楽コンクール一位。ミュンヘン国際音楽コンクール一位……」
額の中の表彰状を読み上げていく。どれもが有名な音楽コンクールだ。だが、実感はない。これらも空白の四年間でとったものなのだろう。他にも日本で開催されているコンクールのものがあったが、記憶にはない。
溜息をつき、スーツのポケットからスマートフォンをとり出してパソコンデスクの上に置いた。その横には栞を挟んだ本が、一冊。椅子に腰かけて確認した。ミステリー小説ではなく、幻想文学だった。
「彼女に借りたんでしょうね、きっと」
独りごち、なんとかパソコンを起動させる。メールの確認をするためだ。海外に住む友人が多いものの、理乃たち以外にも交流のあった日本人がいるかもしれない。
よくやり取りをしている相手を見ると、気になるメールが数点あった。
「アドバイス感謝。おかげで公演は上手くいった」
「教室開設おめでとう。君がまた音楽に関わるようで、よかった」
「来年の自主公演を応援している。自分にできることがあるなら手伝う」
簡素な文面だ。差出人の名前をチェックする。
「また、音楽に関わるようで……」
またとはどういう意味なのだろう。復唱しても虚しく声が響くだけだ。
意を決し、俊とやらにメールを送ってみる。事故に遭ったこと、記憶がなくなっていること、ここ最近の出来事など話していたら教えてほしいということ――長文になったが、仕方ない。返事が来るまでの間、ただ待つのももったいない気がして部屋から出た。
最後の一部屋、寝室に赴く。ウォールナットのセミダブルベッドがあり、クローゼットも完備されていた。ベッドは整頓されているが、着るためなのか、紺色のパジャマだけは畳まれて枕元に置かれている。
「……出しっぱなしにしますかね」
いつもの自分なら片付けるはずだ、と疑問に思い、パジャマを手にした瞬間だった。
ふわりと、微かな、ごく僅かな香りがパジャマからした。甘やかで清純な香り。それは理乃がつけているオードトワレだ。
呆然とした。普段、香水の類いはつけない。趣味ではないからだ。だが、確かに漂う残り香は、理乃がいつもつけてくるオードトワレとお揃いだった。
「彼女がこれを着た……?」
わからないままサイドテーブルに目をやる。ランプの他、白い箱がひっそりと置かれていた。寝間着を抱えながら箱を見てみる。紛れもなくオードトワレだった。
理乃がここに来ていたのだろうか。肉体関係にあったのだろうか。いや、それならば別に自分が香りを纏わなくてもいい。ならば、お揃いの香りは一体何を示すのだろう。
理乃の笑顔が自然に浮かんだ。自分にではなく、
パジャマを握り、唇を噛んだ。思い出せないことが歯痒い。理乃の面が浮かんでは消える。彼女に冷たく当たる自分が、今は馬鹿だと切実に感じた。
「さだは、壊そうとしてる……」
葉留に言われた言葉。昼の教室でもそうだ。理乃は、必死にバイオリンを弾いていた。無茶ぶりにも構わず、苛立ちを隠そうともしないこちらの要求に応えるように。ひたむきで必死な、健気ささえ思わせる姿。
く、と唸り、片手の拳で壁を叩いた。痛むまで。記憶がないことがこんなに辛いものだとは思わなかった。素直に理乃に接することができたなら、どんなに楽だろう。
だが――怖いのだ。そう、恐怖だ。異性に対する恐れがまっすぐな思いをベールで包む。虚勢に近い冷たさで心を閉ざしていることを知ったら、理乃は何を感じるだろうか。
拳に力を込めた時、開けっぱなしにしてきた書斎から電話音がしていることに気付く。
パジャマを置く手が震えていた。後ろ髪を引かれる思いのまま、寝室を出る。
書斎ではコール音がスマートフォンから流れていた。急ぎ足で確認すると、神津俊と名前が浮かんでいる。手に取り、耳へ押し当てた。
「……はい、
「宇甘か。オレだ、神津だ。君は覚えていないかもしれないが」
聞き覚えのないバリトンに、小さく溜息をつく。
「ええ。メールで送ったとおりです」
「メールを見て焦った。体の方は大丈夫なのか?」
「むち打ち程度です。しかし……記憶の方が」
「オレに何かできることはあるか。少しでも君の記憶を戻すために尽力したい」
「ありがとうございます。ここ四年の記憶がなく、どうにも参ってしまいました」
「明日にでも会えるだろうか? 直接会って話した方がいい気がしてな」
「ぜひお願いします。気になることもあるので。妹を連れて行っても?」
「ああ。札幌のことを覚えていないなら、妹さんと一緒の方がいいだろう……待ち合わせの場所は、そうだな。大通駅にしよう。カフェの名は……」
「今、メモをとります。少し待って下さい」
近くにあった紙切れに、転がっていた万年筆で駅とカフェの名を書いた。
「時間は十一時でどうだろうか」
「問題ありません」
「なら、明日。……覚えていないだろうが、君の
通話はそこで終わった。スマートフォンをじっと見て、ささやく。
「
その響きはなぜかとても、愛しく聞こえる。これは理乃のことを指しているのだろうか。わからないことが多すぎて、疲れた。椅子に座り、再びパソコンに目を通す。
「……おや」
一件、新着のメールが届いていた。ホテルからのものだ。
「十二月二十四日、スイート一室二名、鉄板焼き二名の予約……」
記憶にないが、すでに料金も払っているらしい。その日は確か理乃の誕生日だ。多分祝いのために部屋などを予約してあったのだろう。
こんな状態で彼女と二人きりになれるか、わからない。また冷たく接するかもしれない。
それでもキャンセルをしたくない気持ちが勝った。ホテル名を検索し、場所などをチェックする。スマートフォンで地図と交通経路の写真を撮り、保存しておいた。
「……サプライズでしょうかね」
悩んだ。これは直接、理乃に尋ねた方がいいかもしれない。サプライズだったとしたら申し訳ないが。
それ以外のメールは、取り立てて目立つものはなかった。明日、俊と会う。そこで色々聞けば、わかることがあるかもしれない。
パソコンの電源を落とした。スマートフォンを持ってリビングへと向かう。ニュースはすでにバラエティと変わっていた。
動画に変え、ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』をリピートで流す。広大な夕陽などを思わせる音に、幾分か心が落ち着いた。
キッチンの冷凍庫などを確認する。冷凍されている肉などがあった。料理は昔からしていて、趣味の一つだ。しかし今は調理する気になれない。それでも腹は空く。仕方がないからデリバリーのピザを頼んだ。
デリバリーが来るまでの間、手持ち無沙汰になる。家がほとんど知らない場所だった。不安が胸を掠める。葉留に頼んできてもらうか、とも思ったが、それとは裏腹にスマートフォンで理乃に連絡していた。
「お疲れ様です。今月の二十四日と二十五日は空いていますか」
文字を送ったあと、心臓が脈打つ。素っ気なさ過ぎたかもしれない、と一人唸った時、既読の印がつけられた。どうやら彼女は起きていたらしい。
「お疲れ様です。有休をとってあります」
「では、その日は私にお付き合い下さい」
「でも貞樹さんの体が心配です」
口元がほころんだ。少なくとも理乃は、自分の都合を優先するようなタイプではないようだ。
「心配なさらず。札幌のことを教えて下さい」
「はい。わたしでよければお手伝いします」
「あなたもゆっくり休んで下さいね」
「ありがとうございます。もう、寝ますね」
「お休みなさい」
返答の代わりに猫のスタンプが送られてきた。スタンプを返し、安堵の溜息を漏らす。
「理乃」
今まで決して呼ばなかった名を、呟いた。柔らかい響きの名前だった。寝室に向かい、畳んであった寝間着をまた、手にする。それにオードトワレを吹きかければ、まるで彼女が側にいるかのような幻覚に陥る。
「理乃……理乃」
頭痛がした。それでも呼び続ける。幻が優しい声で「お休みなさい」とささやいてくれた気がして、自然と微笑んだ。
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