1-3.tranquillo~穏やかに~

 土曜日の昼前。貞樹さだきから早速連絡が来ていた。ごく事務的なものだったが。挨拶と確認の文字へ簡単に返答し、理乃りのは地下鉄に乗る。昨日はほとんど、貞樹のことを調べていられなかった。


 ほぼ半日、理乃が考えたのは貞樹のことではなく、何を着ていくかということだった。デートなのかと悩みあぐね、結局、芥子からし色のキャミソールと黒いカミサ、ベージュのスカートにしている。ほぼ通勤着だ。デート用の小洒落た服など持ってはいない。


(別にいいよね。デ、デートなんてものじゃないんだし……話をするだけだし)


 クリーム色のコートは秋冬兼用で、今日も見事な秋晴れ。土曜日ということもあってか人混みは多く、熱気で少し暑いくらいだ。


 町の中心部である大通駅に着くと、一気に乗客が降りた。バイオリンケースをぶつけないよう細心の注意を払い、階段を上がり改札を出る。デパート横のモニター前には、自分と同じく待ち合わせをしているらしき人々がいた。


 待ち合わせより十分も前に来てしまった。さすがにまだいないだろうと辺りを見回してみると、女性陣の視線の先――モニターの横に貞樹の姿がある。


 目を閉じ、近くの壁に寄りかかっている貞樹は灰色のコートと黒いスラックスを着て、腕を組んでいた。女性たちの視線など無視するように。いつもの厳しいおもてはそのままだ。


 待たせたのかもしれない、と理乃は思い、周囲の視線を気にしつつも貞樹の元へ小走りで駆け寄った。


「先生、おはようございます」

「ああ……瀬良せらさん。どうもおはようございます」


 声をかけると、貞樹が瞳を開けて挨拶を返してくる。視線はどこか、優しい。


「待たせちゃいましたか……?」

「いえ、早く来てしまったのはこちらの方なので。気になさらずともいいですよ」


 薄く笑む貞樹に胸を撫で下ろした理乃は、両手でケースを持って頭を下げた。


「今日はよろしくお願いします、先生」

「それなのですが。二人きりのときは名前呼びでお願いしたいですね。肝心なときに怪しまれては困りますから」

「そ、それじゃあ、宇甘うかいさん」

「……まあいいでしょう。これから少し歩きますが、寒くはないですか」

「大丈夫です。地下鉄が少し暑かったくらいですし」

「ならよかった。ケースをお持ちしましょう」

「いえ、大丈夫です……」


 貞樹が頷く。理乃にとってこのバイオリンは、長年使い続けていた大事なものだ。いくら教えてもらう相手といっても、簡単に手渡せる代物ではなかった。楽器に思い入れがあることを同じ演奏家として理解してくれたのか、貞樹はそれ以上しつこくしてこない。


「行きましょうか。少し歩きます。私についてきて下さい」

「わかりました」


 二人、並んで歩き出す。入った地下街には様々な店舗が並んでいて、人も多い。洋服店、喫茶店、そんなものを無視して、貞樹はゆったりと前へ進んでいる。歩くのがちょっと遅い自分に合わせてくれているのかもしれない、と理乃は思った。


 それにしても男性と二人きりでどこかへ行くのなんて、何年ぶりのことだろう。心臓が緊張で高鳴っている。体中が強張っている感じもした。


「イタリアンはお好きですか、瀬良さん」

「は、はい。食べられます」


 唐突に聞かれ、慌てて首肯した。話題を振ってくれたことがありがたくも、申し訳なくも思う。


「それは何より。苦手な食べ物は?」

「ゴーヤとか酸っぱすぎるものです……沖縄料理とかタイ料理は少しだめで」

「私と似ていますね。特にパクチーが苦手なんですよ、私は」


 苦笑する貞樹はどこか楽しそうだ。教室で話す時とは違い、雰囲気が和らいでいることを理乃は悟った。しかし、なぜリラックスしているのだろうか。男心はよくわからない。


「甘いものや海鮮は平気ですか? 今から行くところは特にエビのクリームパスタが美味しいので」

「それは大丈夫です……海鮮類は好きですから」

「よかった。店選びを間違えたかと思ったもので」


 不意に貞樹が微笑んだ。穏やかな、いつもとは違う柔らかな顔はそれでも端正だった。


(わ、わたしなんかでいいのかな、本当に)


 理乃は悩む。先程もそうだが、すれ違う女性がちらちらと貞樹の方を見ているのはわかっていた。自分なんておまけ程度でしかないように強く感じる。例え真似事だとしても、恋人なんてあまりに不釣り合いではないか。


 不安をひた隠しつつ、二人でたわいない話をしながら人混みを抜け、地上へ繋がるエスカレーターへと乗る。強いビル風が理乃の黒い髪、貞樹の焦げ茶色の髪をほつれさせた。


 上がったところにある商店街に来るのは久しぶりだ。随分様変わりしたようにも思い、辺りを見渡しているうちに少しずつ、体の強張りがほぐれてきた。


「ここは人が多いですね、相変わらず」

「観光地ですし……宇甘さんはよく来られるんですか?」

「たまに来ます。大型のディスカウントストアがあるので、そこで買い物をしたり。瀬良さんは確か、教室近くにお住まいでしたね。あそこはスーパーが少し遠いから不便では?」

「近所にドラッグストアがありますし。大抵の買い物はそこで済ませちゃいます」

「なるほど。そのご様子だと自炊はほとんどしていないのでしょうか」

「……苦手で。料理」


 羞恥で赤くなった顔を若干うつむかせ、本当のことを暴露した。ほとんど自分を知らない相手に弱点を晒すような真似を、と情けなくなって語尾が消え入る。


 だが、貞樹は気にすることもないように口元を緩ませた。


「得意不得意も個性です。気に病むことはありませんよ」

「あ、ありがとうございます……」


 貞樹の言葉に、どこか救われた気がして理乃は安堵する。隆哉たかやには料理もできないのか、と呆れられた記憶があった。それをまざまざと思い出し、慌てて頭を振る。


「どうかしましたか?」

「なんでもないんです……お店はもうすぐですか?」

「ええ、もう見えていますよ」


 観光客でごった返す道を歩いて行けば、アーケード内に赤い扉と階段を持つ小さな店舗があった。入口に立てかけられた木製の看板には、メニューなどが書かれている。そこが目当ての店だったのだろう。貞樹が方向を変え、店の方へ近付いていった。


「狭いですから気をつけて下さい」


 理乃は頷き、先導する貞樹の後ろについて階段を上がっていく。


 中は意外と広かった。客もそれなりにいて賑わっている。ボトルワインがたくさん置かれているカウンター、ウッド調のテーブル。落ち着いた店内とは裏腹に、陽気な話し声が響いていた。


 店員に二階、二人用の席へと案内される。まだ十一時少し過ぎということもあってだろう、見たところ観光客の姿はない。来店しているのは常連が多そうだ。


 理乃は貞樹にうながされ、席に着く。荷物入れに鞄とバイオリンケースを置いた。自分のあとに続き、貞樹がテーブルを挟んだ場所に腰かける。


「とりあえず飲み物は緑茶が一つ。瀬良さんは?」

「え、えっと……烏龍茶でお願いします」


 机の上に置かれているメニューにざっと目を通し、好きな飲み物を頼んだ。


「食事の注文はあとでします。飲み物を先に持ってきて下さい」


 店員が理乃たちへかしこまった挨拶を返し、階段を降りていく。


 店内は暖かい。理乃はコートを脱いで、鞄の上に置いた。その際、鞄から月謝と入会金が入った封筒を取り出す。


(これを渡したら、もう後戻りはできない……)


 手が少し、震えた。今更かもしれない。ためらいと戸惑い、そんなものが頭によぎる。


上江かみえさんのためだもの。姉さんだったら絶対に今の上江さん、見過ごさないはずだから)


 数秒ののち、決意を新たに封筒を机の片隅に乗せた。

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