第六章 発火点 2

千歳ちとせ』という名前のスナック・バーの入り口は、ある雑居ビルの階段を降りていった地下一階にあった。道路をはさんだビルの二階にある喫茶店から、そのバーへ至る階段を見下ろすことが出来た。春海キョウジは、その喫茶店の窓際に座って、小一時間ほど、その階段を見張っていた。駅から近いこともあって、人通りは多く、尽きることがなかったが、日中のこともあってか、誰ひとりとしてその階段を降りていく人はいなかった。キョウジはどちらかといえば能動的な性格タイプであり、そろそろ待つのにも飽きてくる頃合いであった。

 キョウジは、近くにいる美しいウェイトレスに声をかけて、アイス・コーヒーを追加注文した。ついでにウェイトレスの連絡先を尋ねたが、ものの見事に轟沈した。キョウジは、頬をさすって、再び窓の外を見つめた。

 店内は冷房クーラーが効いていることもあって快適ではあったが、なんら得るものがない張り込みは、正直、退屈極まりない。これも仕事と割り切って、真面目な顔をして考え込んだ。

「開店は、確か午後六時だったな」

 先ほどキョウジは、大胆にも『千歳』へ至る階段を降りていって、入り口を開けようとした。しかし、鍵がかかっていて開かなかった。やはりスナック・バーということもあって、営業時間は午後六時からと看板に表記されていた。諦めて階段を上がって外に出ると、道路を挟んだビルの二階に喫茶店があったので、そこへ入って窺うことにしたのである。

 キョウジは、喫茶店の時計に目をくれた。

「午後四時三〇分か」

 開店まで、まだ一時間三〇分ほどあった。この一時間三〇分を有意義なものにするために、再びキョウジは、先ほどの美しいウェイトレスに声をかけた。

「人に名前を尋ねるには、まず、相手の警戒心を解く必要がある。こちらから名乗るのが筋というものであり、礼儀というものだろう。おれは春海キョウジという。君の名前を教えてもらえないだろうか?」

 ウェイトレスはキョウジのいいようがおかしかったのか、くすりと笑った。脈がありそうであったので、キョウジは、言葉を尽くすことにした。

「今日、おれが君に会えたのはなにかのえにしであろう。そして、君がおれに会えたのも同様だ。人の出会いとは、なにげなく見えて、実はそうではない。おれがこの店に入らなければ、君のシフトが違っていたら、この店が無ければ、おれがこの街にいなければ、そもそも、おれが生まれていなければ、君が生まれていなければ、決して起こり得ないことなんだ。ある人はそれを運命という。または、奇跡というかもしれない」

 面倒くさいことをキョウジは口にして、さらに続けた。

「せっかく人として生まれてきたんだ、神様に感謝して、人としての幸福を追求するのも悪くはないないだろう。というよりも、それが、神様への恩返しになるというものさ」

「人としての幸福ってなにかしら?」

 それは、ウェイトレスの仕事上の言葉ではなかったので、キョウジは、更に言葉を尽くすことにした。

「それは、究極的にはひとことで済ませられる」

「なにかしら」

「わからない」

 ウェイトレスは小首をかしげた。キョウジの答が意外に感じたのであろう。

「おれはまだ軽輩なんでね、人として、という御大層な命題について語るのはおこがましい。君が手伝ってくれるのであれば、別だがね」

 キョウジは、黙っていれば二枚目なのだが、口を開くと三枚目になる。その落差を自覚しているのかいないのか、キョウジは黙して語らないが、ただの美男子でないことは確かであった。キョウジの瞳は、今、美しいウェイトレスをまっすぐに見つめている。キョウジの記憶の中では、ほとんどの女性は、この見つめられるという行為に弱い。

 美しいウェイトレスは、次第に顔を真赤にすると、黙ったままキョウジの前から小走りで走り去り、そのままの速度を維持しながら、奥の厨房へ引っ込んでいった。結局、その後、そのウェイトレスはキョウジの前に二度と現れなくなった。替わりに、いかついなりをしたウェイターが現れることになった。

「うーむ」

 渋い表情で、キョウジは考え込んだ。「一体、おれのどこに落ち度があったのだろうか」、と。答が出る前に、陽が暮れ始めた。

 街灯に明かりが灯り、店の看板のネオンが色とりどりに光り、車のヘッドライトがまばゆい輝きを放ち始めると、人通りの数は日中の倍以上に膨れ上がった。鞄を手にしたサラリーマンやOLはもちろん、学生もそぞろ歩いている。小と大はともかく、中と高の学生は、学生服のまま行き交っていた。

 キョウジは憮然として、そんな中・高生を見下ろしてつぶやいた。

「なんて短いスカートなんだ。あれでは、下着を見せているのとかわらんではないか」

 まあおそらく、そんなものがあるかはわからないが、見えても構わない下着やスパッツをはいているのであろう。それでも、扇情的に見えなくもない。キョウジには、そう思えた。それでちょっとでも視線を下げれば覗いたといわんばかりの表情で、「キモイ」などといわれるのである。しかも自分ひとりの時はそうすることは出来ずに、仲間が多いと比例して高圧的になる。対象がひとりの気弱そうな若いサラリーマンだと、彼氏がどこからともなく現れて、金銭を要求する。いわゆる美人局つつもたせというやつだ。心の弱さを見せればつけ上がり、つけ込まれる。ハッタリでもいい、相手に弱みを見せてはならないのである。この美しく素晴らしい世界で楽しく生きていくためには。

「と、どこかの誰かが嘆いたそうな」

 キョウジは、独り言をつぶやいて、慨嘆した。

『千歳』の看板に明かりが灯った。幾人かが階段を降りていったのを確認すると、キョウジはレシートを手にとって席を立ち、レジに向かった。財布を取るためにズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。すると、先ほど見事にキョウジのことを撃墜した美しいウェイトレスが現れてレジ打ちを交代した。

 すっと差し出された名刺大の紙切れに目を落として、キョウジは口元に笑みを漂わせて顔を上げた。頬を赤くしたウェイトレスは、なにも話さずに素早くレジを打ち、精算が済むと、そそくさと店の奥へ消えていった。

「ふむ、収穫はあったし、今日の仕事はこれで終わりにしたいところだが、そういうわけにはいかんか」

 ウェイトレスが消えていった店の奥の厨房を眺めていたキョウジは、不服そうに首を振った。

「宮仕えである以上、やりたくないことでもやらなければならん。なんとも、世知辛い世の中になったもんだよな」

 紙切れを人差指と中指で挟んで揺らしながら、キョウジは喫茶店を後にして、階段を降りていった。

 信号機に嫌われたようで、交差点でしばらく待たされた。青信号に変わるのを待っている間に、キョウジはスマートフォンを取り出してナオトに連絡を取った。ナオトは直ぐに電話に出た。

「もしもし、ナオトだが、どうかしたのか?」

 なんら独創的ではない受け答えを聞きながら、キョウジは髪をかきあげた。

「なにも用事がなければ連絡はせんよ」

「それもそうだな。で、どうしたんだ」

「今、どこにいる?」

「マルタイを尾行中だ」

「答になっていないね。おれが尋ねたのはどこにいるかであって、なにをしているかじゃあないぞ」

「それもそうだな。おれは今、『東都大学前駅』の上りのホームにいるところだ」

 キョウジが今いるのは、「東都大学前駅」から二駅下った駅前であった。つまりは、慶一たちは『千歳』とは反対の方向へ向かうということであった。

「ということは、今日は、風間慶一は『千歳』には来ないというわけかな」

「おそらくはな。今のところは、だがな」

 そう返事をしてから、ナオトはキョウジの現状を確認した。キョウジは、あっさりと答えた。

「今から『千歳』に入るつもりでいる」

「ひとりで大丈夫か? ヘルプに行こうか?」

 電話の向こう側で心配しているナオトの顔が、キョウジの脳裏に鮮明に浮かんだ。

「いや、問題はないよ。こちらは任せてくれても構わないさ」

「そうか、わかった。無理はするなよ」

 ナオトの返事を聞いているキョウジの表情は、真面目そのものであった。そして応えも、同様であった。

「当然だ。無理はせんよ」

 キョウジは電話を切った。信号が青に変わった。キョウジは道路の向こう側へ移動した。

『千歳』が入っている雑居ビルの前で、呼び込みが大声で客引きをしていた。

「おや、そちらのお兄さん。どうです、うちにはいいが揃っていますよ、さあさあ」

 お兄さんはいい。キョウジは二十三歳であったからだ。しかし、いい娘というのが引っかかった。可愛い娘、綺麗な娘、美しい娘ではなく、いい娘である。少々穿ったように考えてしまう。それに、ひとりで歩いている相手に声をかけるのもいい。しかし、キョウジはモデルといっても通用するほどの美男子である。女性には不便してはいないと見るべきであろう。そんなキョウジに声をかけるのは、間違っている。

「いや、あいにく間に合っている。それに、女遊びに金を使うほど懐は温かくはないんでね。お兄さん、人を見る目がないね」

 客引きのチャラい若い男にそう告げると、同じかそれ以上にチャラいキョウジは、『千歳』の入口がある階段の前で立ち止まった。スナック・バー『千歳』の看板がいざなうように煌々と光を放っていた。階段を見下ろすと、『千歳』の入り口にある窓から明かりが漏れていた。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか。できれば、両方現れてくれれば、無駄にした時間を有意義なものだったと上書きできるんだが」

 楽しそうに口笛を吹きながら、キョウジはゆっくりと階段を降りて行った。入口の前に立ったキョウジの瞳に営業中の札が映りこんでいた。

 キョウジは、入り口のドアノブに手をかけて、無造作にドアを開いた。すると、もうひとつのドアが現れた。

「ドアを開けるとまたドアか。部屋の前、といったところだね」

 キョウジの目が素早く上下左右に走った。ドアが二重になっているのには特別な理由がありそうであった。二枚目のドアの上には、カメラが埋め込まれていたのである。一度、キョウジは振り返った。一枚目のドアの上にもカメラが見える。店に入ってきた客と、店を出て行った客の顔を確実に捉えることが出来そうであった。そう考えると、防犯用ではなさそうである。どちらかといえば、店に出入りする客を監視するように思えた。

「なんのために?」

 キョウジは、警戒しつつ心中でつぶやいた。どこかにマイクがあるかもしれなかったからである。今度は慎重に、二枚目のドアのノブに手をかけた。ゆっくりと二枚目のドアを開いた。ボサ・ノバが聞こえてきた。店内の天井には暖色系のダウンライトが数えるのも嫌になるほど設置されていた。壁にもいくつかのライトが灯されている。

 グラスを磨いているバーテンダーが、入店してきたキョウジに目を向けた。それは一瞬であった。黙ったままグラスを磨いているバーテンダーの前のカウンター席に、キョウジは堂々と腰を下ろした。

 バーテンダーはひとことも発しなかった。そのバーテンダーの背後には、幾つもの酒瓶が収納されてあった。当然、ワインは温度管理されたワインセラーの中で寝かせられている。

「雰囲気は悪くはないね」

 女性の接客係がいなかったのは大きな減点対象であったが、非常に落ち着いた、大人の疲労した心を癒やすスナック・バーといった小洒落た雰囲気ムードは、充分に加点対象であった。

 キョウジはハイボールを注文した。

 バーテンダーが冷えたグラスに氷をいれて、ウイスキーと炭酸水を注いだ。相当強いウイスキーのために、氷が瞬く間に溶けていった。もう一度氷を浮かべると、キョウジの前にハイボールが差し出された。

 昨夜、ナオトは水割りを飲んだ後に眠りに落ちていったと話していた。それは単に、睡眠不足と肉体的疲労の共同作業の結果であろう。まさか酒の中に睡眠薬が入っていたとは考えにくい。それは推理というよりも妄想に類するものである。

 キョウジは、ハイボールの入ったグラスを手にして傾けた。半分くらいを一息で飲んだ。味に怪しいところはないようである。それどころか美味いといえた。さすがに仕事中に飲む酒は、格別であったのかもしれない。

 二杯目のハイボールを飲み干して、グラスをコースターに乗せると、キョウジは、両肘をカウンターにあずけて指を組んだ。

「さてと」

 どうするか。キョウジは考えた。この飄々としたバーテンダーに直接尋ねるか。しかし、そこまで、このバーテンダーを信用していいものか裏づけがない。かといって、なにもしないで待つのは性に合わない。

「とりあえず」

 キョウジは立ち上がった。そしてバーテンダーに声をかけて、トイレの場所を尋ねた。バーテンダーは黙ったまま、キョウジの背後に目を向けて、顎を二度ほど上下動させた。横着にも程がある。「グラスを磨いている間は話すことができないのか」と皮肉のひとつでも投げつけてやろうとしたが、目立つべきではないとしてやめた。

 キョウジが振り返ると、大きな観葉植物が置かれている側に、ドアがあった。「トイレ」と書かれている札がかかっていた。キョウジはバーテンダーに礼を述べると、ゆっくりと歩いて行って、そのドアを開いた。左右にトイレの入り口がある。右側が女性用で、左側が男性用であった。その空間は一畳ほどの広さで、奥の壁際には観葉植物が置かれている。ご多分に漏れず、壁の上にカメラが埋設されていた。キョウジはもちろん左側のトイレに入った。

 トイレには誰もいなかった。ということは、今現在の客は、女子トイレに入っているかもしれない女性と、フロアにいる客八人程度ということになる。キョウジは一番手前の個室の扉を開いた。

 本来であれば、全ての個室を確認したかったが、トイレにカメラが有る可能性は否定できなかった。そのため、最初に開けた個室に入った。まさか個室の中まで監視するとは思えなかった。さすがにそれはやり過ぎである。

 キョウジは便座を閉じて、その上に座った。しばらくしてから水を流して個室を出ると、フロアに戻り、カウンター席に座った。

 三杯目のハイボールを注文すると、呷るようにして飲んだ。炭酸が口腔内ではじけた。程よい刺激が心地よい。

 その後キョウジは、ハイボールを四杯、カクテルを五杯、水割りを三杯注文して全てを異袋に流し込んだ。それでも、決して眠ることもなく酔うこともなく、やがて、朝を迎えた。

 結局、なにも起こらなかった。誰も消えたりしなかった。精算を済ませると、キョウジは店を出た。朝の清々しい日差しを浴びながら、キョウジは、始発電車に乗るために駅へ向かって歩き始めた。おもしろくもなさそうに、口笛を吹きながら。

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