第四章 お茶会日和 2

 春海キョウジが櫻華学園で学園長と和やかにお茶をしていた頃、夏目なつめナオトは東都大学で優木瑞稀ゆうきみずきと並んで講義を受けていた。ナオトは受ける必要のない講義であったが、昨日と同じく、頭のリフレッシュのために講義を受けていることになっていたのである。

 スクリーンに映し出された年表を指し示して、田名部教授が日本史の講義を行っていた。といっても年表は取っかかりにすぎない。年表だけを教えているのではなく、小話をはさんで、歴史の面白さを説き明かしていた。それも、日本の年表だけをおって講義しているのではなかった。その頃の世界の歴史を横軸にして、複合的に教えるというスタンスであった。

 この日も、ナオトは大胆にも風間慶一のすぐ後ろの席に座っていた。昨日の今日のことであり、警戒すべきかもしれなかったが、普通にしていれば問題はないだろう。そんな理由からであった。

 ナオトの目的は、秋津あきつカナタ手製のピンバッヂタイプのICレコーダーで、慶一と彰男との会話を録音するのが目的であったが、昨日と同様、慶一は田名部教授の講義を真面目に聞いていた。ナオトは、顎に手を当てて考えてみた。慶一は歴史が好きなのではないだろうか、と。その証拠に、ノートを取ったり、ノート・パソコンやタブレット端末に文字を打ち込むこともせずに、教授の講義に耳を傾けていたからである。無論、ICレコーダーの類も使用してはいなかった。

「ふむ」

 と、ナオトは心の内で思わず感心してしまった。

「ノート、取らないの?」

 瑞稀が当然のように、ノートすら出していないナオトに尋ねた。どうやら瑞稀は実際に書いて覚えるタイプであるようだ。古風だな、と思いながらナオトは人差し指を左右に振った。これはキョウジの癖が伝染うつってしまっていたのであるが、キョウジほど様にはなっていなかった。

「講義はノートを取るよりも、耳で覚えるほうが身につきやすい。大切なことは記憶に残るだろう。ノートを取れば、その作業に追われてしまう。なかなか、頭には入らないよ」

 ナオトが慶一を感心したのは、そういう理由であったのだ。

「そうかな?」

 瑞稀は首を傾げた。どうやら異論が有るようである。

「後で、ノートを見返すこともできないじゃない?」

「まあ、人それぞれだとは思うけれどね。それより、元々おれは受けなくてもいい講義だから、別にノートを取らなくてもいいんだよ」

「そうだったわね」

 ナオトが大げさに胸を反らせているのを目にして、瑞稀は笑いながらうなずいた。それとほぼ同時であった。講義の終了のチャイムが鳴りだしたのは。時間が経つのが早く感じられた。結局、リスクを犯して慶一に近づいてはみたが、一切私語もせずに、最後まで慶一は話に聞き入っていたのである。

 前の席の慶一が立ち上がった。一瞬振り向いてナオトと目があったが、どうやら慶一はナオトのことを覚えてはいないようであった。それほど、昨日のことは大した問題ではなかったのであろう。しかし、都筑彰男つづきあきおは違った。表情こそ変化はなかったが、軽く会釈した。慌てて、思わずナオトも会釈を返してしまった。

「やはり、この男は危ういな」

 ナオトの危険を察知する感覚が、そう告げていた。

 今日、このまま慶一に張りついてもいいものか、ナオトは頭を悩ませた。少し作戦を練り直す必要があるかもしれない。それに、彰男が慶一の側にいる限り、慶一が不貞をはたらく可能性は低いのではないか。

「いや。そんなことはない」

 素早く顔を二、三度左右に振ると、ナオトは、ふと浮かんだ可能性を頭の中から消し去った。昨日も慶一は、婚約者がいるのに街でナンパしていた。彰男が側にいてもである。この際は、徹底的に後をつけて行動を見張る必要があるかもしれない。そう結論づけたとき、瑞稀がナオトのシャツの袖を引っ張った。

「ねえねえ、先輩はこの後どうするの? 別の講義でも受けるの? それとも、アルバイトかなにか用事があるの?」

 瑞稀の問いかけに、ナオトは唇に手をあてて考えた。

「そうだな。どうするかな」

 講堂の出口に向かう慶一を見ながら、ナオトは他人事のようにつぶやいた。

「次の時間、わたし講義を受けないから。お茶でもしない?」

「お茶か? 次の講義には出ないということは、その後の講義は受けるつもりということかな?」

 ナオトが尋ねると、瑞稀は元気よく「うん」と、うなずいた。

「ということは、学食か?」

 もう一度、瑞稀はうなずいた。ナオトは、この瑞稀という女子大生から、なにか引き出せないかと打算的に考えた。沈黙は短く、決断は早かった。

「そうだな、別にこれといった用事もないし。君の誘いを受けるよ」

「わたしのことは、瑞稀って呼んでね」

「ああ、わかった。以後、そう呼ぶことにするよ」

 ナオトは笑顔を見せた。瞳には、講堂を出て行った慶一が映っていた。

 講堂を出てから学食につくまでの間、瑞稀は、楽しそうに鼻歌を歌っていた。聞いたことの有るメロディであったが、曲名は思い出せなかった。無性に気になった。しかし、瑞希に尋ねようとは思わなかった。自分で思い出したかったのである。ナオトが小首をかしげて考えている間に学食に到着した。

 学食には大勢の学生がいた。家では朝食を食べずに、ここで取る学生が結構いたのである。食べ物や飲み物の種類は豊富で、カロリーや塩分量なども表記されていて、更に美味くて安いとあって、学生たちには大人気であったのだ。

 ナオトはトレーを取ると、大きな紙コップを購入して、アイス・コーヒーを注ぎ、ストローとガムシロップをひとつずつトレーに載せた。瑞稀はアイス・レモンティーを選んだ。

 席は適当に、二人席のテーブルを選んだ。ナオトと瑞稀は向かい合うようにして腰を下ろした。

 側のテーブルでは、二人組の学生が、それぞれノート・パソコンやタブレット端末を開いてケーブルでつないでいた。軽快にキーボードを叩く音が聞こえてきた。

 彼らは、講義内容を共有していたのである。ひとりが講義で打ち込んだ文章を、もうひとりの学生が「コピペ」していたのである。こうすれば、講義を受けなくても、講義の内容はわかる。この手を使えば、例えば四人がそれぞれ別の講義を受けていれば、後で講義の内容をやりとりすることが出来るので、三つの講義を受けなくてもよくなり、時間を有意義に使うことが出来るという寸法であった。後は内容をレポートとして提出すれば、片がついた。

 しかし、講師によって、単位の選定方法はかなり違った。レポートを提出すれば済む講師もいれば、出席をきちんと取る講師もいた。試験の結果が全てと考える講師もいた。ノートの提出を義務づけている講師もいた。その辺りの情報を入手して、効率的に単位の取得を図ろうとする努力は、たいしたものであると、半ば呆れながらもナオトは感心してしまうのであった。

 講義内容の「コピペ」は問題になっていた。しかし、効果的な対応策がない。まさかノート・パソコンやタブレット端末、スマートフォンの持ち込みを禁止することもできないだろう。今やそれらの類は必要なものでもあった。今の世の中、そういった情報機器を有効に扱うこともひとつの才能であり、必要であるとの考えもある。それが新しい考えであるとすれば、瑞稀は古い考えの持ち主であったかもしれない。講義はきちんと自分で受けるべきだと考え、きちんと実践していた。

「わたし、ああいうの好きじゃないな」

 タブレット端末で情報をやりとりしている学生を見て、瑞稀は不満そうに眉をしかめていた。その表情を目にして、ナオトはうなずいた。

「おれも、同感だな」

「ほんと? 良かった、わたしだけじゃなかったんだ」

 瑞稀は、ナオトが自分と同意見であることが嬉しくてたまらなかったようである。これ以上はないというほどの笑顔を見せて、元々きれいな瞳がキラキラ輝いている。

「でもさ、今の世の中って、ネットで検索すれば大概の情報を得ることが出来るだろう? それが取っかかりになればいいな、とは思うよ。それに、情報が溢れかえっているだろう? その中で取捨選択するのは才能のひとつだとは思うし、そのあたりの感覚センスは養える。すべてが悪いことだとは思わないけれどね」

 ナオトが語ったことは瑞稀にもわかってはいたのである。それでも、瑞稀は小さな唇を尖らせて反論した。

「理屈はわかるけれど、なんか嫌だな、心情的に」

「その気持もわかるよ」

 ナオトは、微笑を浮かべた口元にコーヒーの入ったコップを運んだ。

「君、じゃなかった、瑞稀は、なぜ歴史を学びたいと思ったんだい」

「そんなの決まってるじゃない。歴史が好きだからよ」

 ナオトはその答に大いに感銘をうけた。理由としては、これ以上のない、至極まっとうな答であったからである。そう考えると、慶一が歴史の講義を私語もせずに黙って聞いていた理由がわかったような気がした。

「そうか、それが自然かもしれないな」

 感心したナオトに、瑞稀は補足した。

「アニメやゲームだけが好きなんじゃないよ。純粋に歴史が好きだからよ。特に、自分が生まれて生活している国の歴史は知っておきたいと思ってね」

「なるほど、瑞稀はいわゆる歴女というわけか。でも、純粋にアニメやゲームが好きでもいいと思うよ。歴史を知りたいと思うきっかけになれば、ゲームでも、アニメでも、漫画でも、ドラマでも、小説でも、お祖父さんから聞いた昔話でも、取っかかりはなんでもいいと思うよ」

 どのような理由であれ、興味を持つこと自体は悪くはない。

「ねえねえ。先輩は、戦国時代の武将で、誰が好き?」

 突然、瑞稀が尋ねてきた。

「えらい範囲が広いな」

 ナオトは、口元に手を当てて考え込んだ。戦国時代の大名ではなく武将である。それは、綺羅星のごとく、数えきれないほどいる。その中でひとりを選ぶのは困難であった。それでも、ナオトの頭をよぎったのは、ひとりの武将の名前であった。

「やっぱり、真田信繁かなあ」

「信繁って、幸村のことでしょう。確か、武田信玄の弟の典厩てんきゅう信繁の武勇にあやかって名づけられたって本で読んだことがあるけれど。わたしも嫌いじゃないわ」

「よく知っているな」

 瑞稀はレモンティーで喉を潤してから話し始めた。

 戦国大名といえば、甲斐の虎・武田信玄は外せない。信玄には「武田二十四将」と呼ばれる武将たちが配下にいた。それを描いた「武田二十四将図」には幾つかあり、描かれている武将には異同がある。最も有名と思われる武田神社所蔵の絵図には、真田信繁の祖父・真田幸綱と、その長子の真田信綱は描かれているが、真田信繁の父である武藤喜兵衛も描かれている絵図もある。恵林寺所蔵の絵図である。武藤喜兵衛とはいわゆる真田昌幸のことである。ふたりの兄が戦死した後に真田家を継いだのだが、彼の武名を高めたのは、「第一次上田合戦」で徳川勢を退けたことであろう。この合戦には徳川十六神将の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉が参陣している。そして、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、「第二次上田合戦」では、真田昌幸、信繁親子は徳川秀忠の大軍を信州上田城で圧倒的少数で迎え撃ち、退けた。まさに痛快であった。が、小競り合い程度ともいわれている。

 そして「大坂の陣」では、多くの豊臣恩顧の大名・武将が家康に与している中、信繁は豊臣方についた。秀吉子飼いの賤ヶ岳の七本槍については、加藤清正はすでにこの世の人ではなく、福島正則と加藤嘉明、平野長泰は江戸にて留守居を命じられていた。片桐且元は戦前に家康に臣従し、脇坂安治本人は参陣しなかった。糟屋武則は、後々に徳川の家臣になったといわれている。

 大坂方についたのは、数多くの浪人たちであった。真田信繁、後藤基次、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登など。なぜそうなったかは各々それぞれ理由があるだろうが、家康を嫌悪していたり、秀吉への恩義を忘れなかった、という単純な理由だけではなかったのではないか。もちろん、豊臣秀吉への恩義を感じている大名もいたであろうが、徳川幕府の大名家、ことに外様大名としては、家臣団を路頭に迷わせる可能性のある博打には、打って出ることが出来ないという理由もあるだろう。苦渋の決断であったのも、容易に想像ができる。

「もうその頃には幕府が開かれていた。つまり、天下人としての地位を家康は確立しており、二代将軍に地位を譲っていた。勝てる見込みの無い戦いで、徳川幕府に反抗するには、色々と制約があったんだと思うよ」

「秀忠の評価は様々あるようだけれど、征夷大将軍の位は徳川家が継承することを公にすることで、徳川幕府は盤石なものとなったのよね。そうすると、確かに、頭の痛い問題だってのはわかるわ」

「そうだな。現実的な選択だったんだろうね」

 ナオトはコーヒーをすすり、瑞稀は紅茶をすすった。しばらく沈黙がふたりの間に広がった。ナオトも瑞稀も、四百数十年前の日本に思いをはせていた。

「話を真田信繁に戻すけれど、信繁の兄、真田信之は徳川家康に恭順を誓った。信之の正室は家康の養女で、勇将・本多忠勝の娘だ。一方、信繁の正室は大谷吉継の娘。弟と敵味方にわかれたとしても、結果どちらが勝っても真田の家名を残すことができる。だからこそ、信繁は大坂方としてなんの心配もなく懸命に戦えたんだと思う」

「後顧の憂いがなかったってこと? 確かに、あの時代では家名を残すことが第一に考えられていたとは思うわね」

 瑞稀は、真田信之のことが嫌いではなかった。

「平和な世の中をあらゆる階級の人々は待ち望んでいたんだと思う。豊臣家を滅ぼす必要まであったのかは諸説あるだろうけれど、そこは辛酸を嘗め尽くした末に天下人となった家康にしてみれば、徳川の天下を完成させるためには必要だったのかな。秀頼にとっては、不幸だったのかもしれない。戦国の世を終わらせた家康の手腕は、冷徹ではあったが、豊臣家の滅亡は戦国時代の終焉の、いわば、象徴的な出来事だったんだと思う」

「うーん」

 瑞稀は難しい顔をして唸った。

「でも、信繁は、家康の首を上げれば、豊臣の勝利だと思っていたのかな?」

「勝利かどうかはわからないな。さっきもいったけれど、徳川幕府はすでに二代目の秀忠が継いでいた。仮に家康がすでに亡くなっていたと考えると、秀忠は大坂城を攻めただろうか? それはわからない、としかいいようがない。歴史に『もし』は無い。知的好奇心は刺激されるけれどね」

 ナオトはコーヒーを飲み干した。もう一杯飲もうとしたが、ちょうど終業のチャイムが鳴ったこともあって、トレーにコップを置いた。瑞稀もコップを置くと、ナオトは立ち上がった。トレーを片づけながら、ナオトはさり気なく瑞稀に尋ねた。

「話は変わるけれど、風間慶一って、付き合っている彼女とかいるのかな?」

「?」

 突然に問いかけられて、瑞稀は目を瞬かせた。一瞬なんのことかわからなかった。あまりにも脈絡がなく、唐突過ぎたようである。

「あれだけの色男だ、彼女がいてもおかしくはないと思うが」

「そんなことが気になるの?」

「風間グループの御曹司だろう? 少しは興味が有るな。おれはミーハーだからね」

 心にもないことを、ナオトは口にした。学食を出ると、瑞稀は頬に手をあてて答えた。

「そうね、風間慶一に彼女がいても不思議はないけれど、キャンパスじゃあ、いつも女の子を引き連れているわね。でも、特別な女の子じゃないみたいよ」

「そうか」

 ナオトは短く応じた。しつこく追求すると怪しまれるかもしれなかったからである。ふたりは並んでキャンパスを歩いた。

「それに、前にもいったけれど、わたしの趣味じゃないわね」

「どうして?」

「だって、いろいろ面倒臭そうじゃない? 風間グループの御曹司なんて、雲の上の存在だわ」

 瑞稀は、肩をすくませてから、首を横に振った。

「玉の輿って考えたことがあるかい?」

 ナオトがいったなにげない問に、瑞稀は眉をしかめた。

「それって、女性蔑視だと思われるよ」

「そうかな?」

「女の子がみんな玉の輿を狙っていると思うなんて、偏見だと思う。好きになった相手が好きだから好きになったのよ。あれ、ちょっと表現がおかしいわね」

 瑞稀は微笑した。

「肩書は恋愛とは無関係ってこと?」

「肩書と付き合うわけじゃないからね」

「そうか、うがった見方をしてすまない」

 ナオトは素直に頭を下げると、瑞稀が首を横に振った。

「だけど、肩書を気にする女の子がいるのも確かよ。誰だって、惨めな生活はしたくないでしょう? 尽くす愛ってあるとは思うけれど、それはよほどの覚悟と深い愛情があってのことだと思う」

「ふむ」

 ナオトは感心したようにうなずいた。

「お役に立てたかしら?」

「ああ、そうだな」

 ナオトは気のない返事をした。その双眸は、キャンパスを出て行く慶一の背中に向けられていた。

「じゃあ、先輩。わたし、この後、講義があるから行くね」

 そういって、瑞稀は手を振った。

「ああ、今日は、おれはもう帰るよ」

 ナオトは手を振ると、校門へ向かった。慌てず、騒がず、早まらず。ゆっくりと慶一と彰男の後を追いかけた。

「今日はまた、一段と暑いな」

 ナオトは空を見上げて慨嘆した。暑さの原因である太陽が、雲ひとつない青空の中で、ひときわ光彩を放っていた。

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