第59話 大奥は華やかに咲く 壱

 鶴屋の文にはこう書かれていた。


『噂が噂を呼び、ひっきりなしに人が訪れ、千枚振舞せんまいぶるまいどころか二千部にとどきそうな勢いで売れております。先日天神に参拝してお礼を申し上げました。当家は近く、上方かみかたでの販売を決めた次第にございます。今後もどうぞよしなに』


 千枚振舞は考えていた範疇だが上方――大阪までにまで売られることになるとは想定外だった。

 しかし、そうなれば、どれだけ大奥を助けられるだろう。どれだけの人に読んでもらえるだろう。須磨の絵を見てもらえるだろう。

 高遠は文を携え、塩沢へ報告を行った。

 塩沢も驚いてはいたが、かすかに笑って言った。


「よく成し遂げたの」

「塩沢さまのお力添えがあったればこそにございます」

「いや、お前の実力じゃ。ようやってくれた」

「お言葉、誠に嬉しく存じますが、これは、わたくしの力だけではありませぬ。お須磨の方さまの絵があってこそでございました」

「そうよの。あの絵はずいぶんと卑猥ひわいであった」


 塩沢はふふっと笑った。


「え? ま、まさか塩沢さま――……?」

「わしが許可したことだ。それが、どのようなものか知っておかないでどうする」


 バッチリ濡れ場のある男色本を、厳しい人格の塩沢が読んだのだと思うと、嬉しいより、全身から嫌な汗が吹き出るような形容しがたい感情が湧き上がった。

 塩沢は楽しげに言う。


「しかしな、高遠。売れたのは絵だけではあるまい。この内容であれば続きを読みたくなるものだと、わかるていどには書を嗜んでおる。ずいぶんと書き直しをしたな」

「――は。時間がたつと気になる点が多く、半分近く書き換えましてございます」


 平常心を保っているが職場の上司に男色本を読まれ、かつ、感想を伝えられるなど、どんな拷問だ。

 高遠が内心悶絶している心も知らず塩沢は真面目に言った。


「それでじゃ、高遠。改めて聞くが本当に売り上げのすべてを奥に入れてよいのか? 今後、さらに売り上げが伸びれば、何百、何千両とお前の懐に金が入ろうに」


 塩沢の問いに高遠はきっぱりと答えた。


「いいえ、大奥を救いたいと始めたことにございます。それを貫かせてください。それに、自分の懐に金子を納めていると知られれば、足下をすくわれる可能性もございます。どうぞこのままで」


 高遠の答えに塩沢は「そうか」と頷いて言った。


「お前がいてくれてよかった。わし個人も、二巻を楽しみにしておる。励め」

「――は」



 ◆大奥は華やかに咲く



『一度は取り止めになった男色本が、千枚振舞となって売れているらしい』


 そんな噂がささやかれるようになったのは、鶴屋から文をもらって一月ひとつきも経過しないころだった。

 江戸市中でも本の存在は公然の秘密として広まっていると五菜ごさいから知らされていた。このご時世では外に娯楽がないため、多少高くとも布令ふれを犯さず好色本が手に入るなら買いだと本を求める人が鶴屋に列をなしているという。


 そんな状況なので、あっという間に大奥に出入りする商人から女中たちの耳に入ったようだ。しかし、騒がれる理由はそれだけではない。


『あの沢渡主殿頭さわたりとものかみを出し抜くことができるなんて、誰が書いているかわからないけれど、なんて胸がすく思いでしょう!』


 そういう思いが男色本への嫌悪よりずっと勝っていた。

 皆、大奥が息苦しくなったのは沢渡主殿頭の質素倹約によるものだと知っているので、この話は痛快だったようだ。

 また、大奥総取締役、塩沢が七夕をきっかけに贅沢の許しを出したこともあり、密かに本を買い求めているという話も聞こえている。


「人の心とは砂のようですね。傾いた方と流れていきますわ」


 と、千鳥の間で一緒になった叶が、噂の詳細を高遠に聞かせてくれた。


「自腹であれば好きにしてよいという、塩沢さまのお言葉も大きいですわね。表使おもてつかいも男色本だと咎めることもないそうで、塩沢さまのお許しがあったのだと思いますわ。それぞれが暮らしを華やぎたいと大奥は活気づいています。上様の奥渡りも戻りましたし、高遠殿。まこと、ようやりましたな」


「いえ、わたくしはなにも。運良く時勢にのっただけですので」

「ご謙遜めさるな。売り上げ全額を奥に納めていることも皆に評価されておりますよ。私利私欲がないというのは人の心に響きます」

「もとから、そういう話で始めましたので。どうぞ、過分な評価はお控えくだされ」


 言葉を慎重に選んで答える。

 勝って兜の緒を締めよだ。


「それで、二巻の進み具合はどうですの?」

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