第32話 敵襲 弐
「塩沢さま。高遠にございます」
「入れ」
すぐに部屋へ通された。さすがの塩沢も、いつもより余裕がないのが見て取れる。
「お須磨の方さまの件じゃな」
「はい。まさか大奥でこのような事件が起こるとは……。それで、お匙から脅迫文のことを聞きましたが、誠にございますか?」
「ああ」
塩沢はそう言って、A4サイズの紙を差し出した。受け取って読む。
確かに奥医師が言ったとおりの文言が書かれていた。
高遠は密やかな声で問う。
「……賊の目星はついておりましょうか?」
「いいや。わからぬ。今は誰もが好きに部屋へ出向いてもよいゆえ、とても絞りきれぬ」
「……賊は、
「おそらく、そうであろう」
須磨が雇っている部屋方はひとりだ。総触れで部屋を開けてしまえば、忍び込むチャンスはいくらでもある。
「しかし、どこから絵師が、お須磨の方さまであると洩れたのでしょうか。契約に同席した御右筆が明かしたとしても、絵師の名は明記しておりませぬ」
「――
「…………そ、れは」
あり得る話だった。
沢渡主殿頭は、塩沢に出版中止を強く求めた。金崎のような反対派も存在している。それだけではない。今、大奥は男色本に湧いている。塩沢の言うとおり須磨の部屋方がひと言でも「お須磨の方さまは絵を描かれています」と、洩らせば瞬く間に広まるだろう。
誰もが怪しく、誰もが無実。ここまで出版を阻止したい者がいるとは想像だにしなかった。どこかで己の正当性に甘えていた。認識の甘さに臍をかむ思いだ。
「高遠」
「……はい」
「これは看過できぬことじゃ。早急に皆を集め、衆議を開かねばならぬ。――お前をかばいだてすることは難しい。わかるな?」
「――…………はい」
高遠は頷くことしかできなかった。
***
『上様のお相手であった、
それは大奥に激震を走らせた。
江戸城のなかに存在し、どこよりも安全であるはずの場所での狼藉。大奥の威信に傷を付ける大事件だ。
誰もが疑いを避けるように、禁止だった男色本を捨て、女中たちも仕事以外、極力部屋から出ないように過ごしていた。それは、上様のご寵愛を受けている御中臈たちさえ、例外ではなかった。
それらを解決しなければならない衆議の場は張りつめていた。
高遠にとって、ひと言、ひと言が針で刺されるように痛む。
叶が沈痛な面持ちで言った。
「恐れ多くも、上様のお手が付いた者の部屋を荒らすとは尋常ではないこと。我々のしたことは間違いだったのやもしれませぬ……」
金崎も甲高い声でなく、腹の底から吐き出すように言う。
「……誰が賊であるかわからない以上、お須磨の方さまの、身の安全を第一に考えねばなりませぬ。しかし、もとはといえば男色本を出版しようとしたことが始まり。大奥の風紀が乱れたことで起こったとしか考えられませぬ」
中野も珍しく意見を主張した。
「――確かに、男色本を買いあさる者たちが続出しましたな。金崎殿の言うとおり、風紀が乱れていたことは否めませぬ」
塩沢が認めたことなので、皆、はっきりと口に出さないが、もう、出版に賛成できないということが伝わってくる。賛成派だった叶や、中野も、それっきり口をつぐみ、静かにフェードアウトして沈黙を保った。
静寂が部屋をおおい、誰が『出版は否』と口にするか探り合っていた。
動いたのは叶だった。
スッを塩沢に身体を向け、手を突き、
「……塩沢さま。誰が賊なのかわからない以上、大奥が落ち着きを取りもどすまで、出版は見送ったほうがよいと考えまする」
金崎も続いて言う。
「賊は大奥内にとどまらず、沢渡主殿頭のいる表向きも疑うべきです。どうか、冷静なご判断を」
じっと動向を窺っていた塩沢も、ついに重い口を開いた。
「――わかった。賊が見つかるまで出版は見送るしかあるまい」
高遠は目を閉じた。
事件の原因である自分がなにを言えるだろう。須磨が無事だったことだけでも喜ばなければならない。
塩沢の答えに叶は即座に続ける。
「懸命なご判断かと存じまする。もともと、この話は大奥が決めたことではありませぬ。塩沢さまに責任はございません」
視線は高遠に移った。
――そうだ。これが大奥というもの。
「……わかりました。早急に鶴屋に文を出し、出版を止めるよう伝えます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます