第22話 「ばち」と「情けは人の為ならず」が消えた。

 河の近くに河童の絵が描いてあって「キケン、ここは怖いぞ」という看板を見たことがあると思います。河で溺れるリスクを理屈ではなく空想の生物の恐怖に置き換えているところが、非常に日本的だと言えます。


「神隠し」も同様ですね。鬼、山姥等々、自然の驚異=超自然の恐怖に置き換えて忌避する。


 また、何か悪い事をすると「ばちが当たる」と言うのも同様でしょう。西洋的な絶対神の規範ではなく、何か超自然的なメカニズム、何かわからないけど因果応報のシステムがあって、悪い事をすると自分に害があるかもしれないという恐怖による規範が染みわたっていると思います。


 その一方で「情けは人の為ならず」のメカニズムも非常に唯物的な解釈が出回ってきています。「他人に情けを掛けると甘やかすことになる」というのは不正解で「人に親切にすると親切の連鎖で回りまわって自分の得になるんだよ」という解釈です。


 うーん。実はこれも私は本来の意味だとは思いません。この続き新渡戸稲造が言葉にしています。「己がこころの慰めと知れ」ですね。新渡戸稲造がことわざを参照したのか、彼の言葉なのか知りませんが「人への情けが自分の満足であるという人間になりなさい」という意味です。つまり利他の精神です。


 この「情けは人の為ならず」に「回りまわって自分の得になる」という現世利益を持ち込む解釈がもう資本主義に毒されていますね。ただ、文部科学省はこちらを正解としているようです。


 つまり、一神教の規範によらない日本の道徳を支えてきたのは、超常的なものに対する畏怖と、利他の精神により自分を高めるという思想だということです。


 災害が多い日本の自然がそうさせてきたのかもしれません。厳しい自然や動物あるいは人間同士の闘争により発展した地域と異なり、日本はどうしようもない大災害と向き合ってきたので、自然の恩恵を受けながらも、一定の距離以上近づかないことでいたのでしょう。

 そして、人間同士が助け合わないとこの災害の多い島国で生き残れなかったのかもしれませんし、そういう利他の精神を持つ人が生き残って今の日本人がいるのでしょう。


 今、この前提が崩れてきています。その原因が資本主義、西洋的な価値観で、それを悪い形で広めているのがユーチューバーとSNSではないでしょうか?


「ばち」なんてないから、自分のやりたいようにやるのが得だという考えです。利他なんて損するだけだと組み合わさったとき、非常に殺伐とした社会が生まれると思います。


 ただ、一方で「ばち」なんてないというのは本当でしょうか?私は「ばち」は社会の見えないメカニズムとして、文化、社会制度、言葉や深層心理の中に組み込まれている気がします。それが「良心」の正体でしょう。サイコパスでない限り、自分の善悪感情には正直になった方がいいです。良心に反する行動をとり続けると不幸になる気がします。






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