第9話
トイレの天井のセンサーライトが、戸の開いた拍子に点灯した。
明かりに照らされた中で、空の浴槽の中でくたびれた人形のように力ない姿勢で座った小柄な男が肩を竦めていた。
驚いたように目を大きく見開いて、犬神を仰ぎ見ている。
犬神は男の目の虹彩、そして広角の上唇がせり上がって、下唇にかかるようにこぼれた白い肥大化した犬歯を見た。
ポロシャツ姿で、その襟元から胸元にかけて、血で赤黒く汚れている。
一瞬の無言のあと、男は嗚咽のような力ない悲鳴のような声をもらして、前髪の生え際を毟らんばかりに頭を両手で抑えた。
「落ち着け、あんたに危害を加えに来たわけじゃない。一つ答えろ。3時間前、人間の女を襲ったか。どぶ板通りの飲み屋で、20代くらいの若い女だ」
男は返事にならない返事をしながら、体を立てに揺さぶるようにうなずく。
「襲ったんだな」
「やったぁ……おれが、やったぁ……」
血まみれの血飲みの男は、なにかの発作のように大きく縦に震えるようにうなずいた。その顔は涙と鼻水でぐじゅぐじゅになっていた。
犬神はそれを見て少し困ったように一瞬目を伏せて、黙って注射器を出した。
この男は、間違いなく高槻雛南を転化させた加害者だ。
そして、自分が何をしたのか冷静に理解して、気が狂いそうになっている。
しばしばあることだった。
そもそも、薬が切れた瞬間発狂して人を襲うほどになるまで吸血体質としての飢餓衝動を抑え込み続けてきたのである。
おそらくはこの街に流れ着くまで、人間に成り済ましてどうにか生きてきたのだろう。そして最も恐れていたであろう、人を襲うという事態を仕出かしてしまった。
その罪の意識から自殺も考えたが、いざ飛び降りようとして恐怖心が勝ってしまった。
犬神の立場として結論からいえば、それでいいのだ。
それが普通なのだ。
転化した事実を簡単に受け入れられる者などいない。人間に戻れる方法やそういう新薬があると聞けば、嘘でも本当だと希望を持って信じ込んでしまう者も居る。
そして、しばしばそうした弱い者が、こうした最悪の事態に陥ってしまう。
それを助けるのも、犬神融や月院清時の仕事のうちと思っている。
「気休めだと思って聞け。被害者の女性は、転化に同意している意思表示を残している。お前の血があれば、彼女は転化者として再び生きることができる」
男の片腕を伸ばし、二の腕にゴムチューブを巻く。そして迷わず肘の内側の血管に注射器を刺した。真空採血管を挿入すると、勢いよく赤黒い濃い色の血が透明の筒の中に流れ込む。
ゴムチューブを外し、2本目の採血管を差す。
「人を襲ったのは初めてか?」
男は、力なくうなずく。
「じゃあまだマシだ。血液提供に同意して、ちゃんとした弁護士をつけてきちんと状況を説明すれば、ほぼ確実に執行猶予がつく。あとは執行猶予が明けるまで大人しくして、よく考えるんだ。お前さんは、血を飲む生き方から逃れられない。前向きに生きる道を探せ、自分にできる生き方を見つけ出せ。他に道はない」
2本目の血をやや多めに取って、注射器の針ごと抜く。そして針刺し傷を、トイレットペーパーを手繰って千切り、それで抑えた。
「俺たちはもう、戻れないんだ。いいな、死ぬなよ。鬼籍として生きろ。俺はお前から抜いた血を、被害者のところに届けてくる。それで血液提供の同意とみなされる」
マスクをつけながらそう言い、金属ケースに採血用具一式をしまって、バッグをかついでバスルームを出た。
窓の開け放たれた外から、パトカーのサイレンが聞こえる。
犬神はそそくさと部屋を出て、エレベーターに乗った。
エレベーターの中で、手袋とゴーグルを外し、バッグに仕舞う。
1階のエレベーターホールについて扉が開くと、そこには既に紺の制服から黒のジャンパー姿まで、10人近い警官がいた。
犬神が降りるのと入れ替わりに、駆け込むようにマスターキーを手にしたフロント係と共にエレベーターに乗り込んだ。
すれ違う警官の眼差しを無視し、フロントにルームキーを返し、何食わぬ顔で外に出た。そのままフロント係に呼ばせておいたタクシーに乗り込む。
「新町総合病院まで」
そう言うと、一瞬マスクの位置を整えるような仕草でマスクを外した。
その瞬間に匂いを嗅いだ限り、この運転手の体臭も、血飲みの鬼籍のそれである。独特の虹彩の色をした目をカラーコンタクトで、口元をマスクで覆ってそうとは見えなくしている。
運転手は一つ、うなずいて発車した。この運転手の匂いから察するに血統は月院ではなく、近隣の他の街だ。
この者にも、聞けばそれなりの悩みや事情があるはずだ。
鬼籍は、人間のように、皆同じように母の股から生まれてくるわけではない。
それまでの人生を抱え、それまでの人生を曲げて、鬼籍転化者として生を受け入れ、今日まで生きてきたはずなのだ。
犬神はすれ違うパトカーの車列の赤いランプに目を細めながら、あくびをひとつした。
時刻は12時を周りつつあった。
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