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 兄が読んでいた日記は、父やわたしが読んでいたものよりも付箋紙の数が多い。この時期、先代のお祖父さんは文坂家やサヨさんのことを特に気にしていたのだろう。

 次のページでは、比較的長い文章が綴られていた。

『文坂家でサヨさんと出くわす。私の知っているサヨさんのようでない。化物の類がほんとうに山にいるかは定かでないけれど、あれはまるで人間のようではない。山に住んでいるのではないかと聞いたら、ここへは遊びにくるのだと言って笑った。その顔がやはり以前の彼女のようでない。

 やはり意見すべきだろうか。私のような若輩者のいうことを文坂の当主が聞くかはさておき、サヨさんのことでは眉をひそめる者も少なくない。

 山に化性が存在するのかどうか、私は疑わしく思っている。サヨさんの変化は、望まれて嫁いだはずの家で邪険にされ始めたために起きた悲劇と、そう考えることが妥当ではないか。何しろ規さんは変わり者だ、親の反対を押し切ってまでもらった娘に飽いてしまったではないか。味方のいない嫁ぎ先で彼女がどんな思いをしただろう。性格が一度に豹変したのは、辛さや恨みが積み重なったためではあるまいか。

 だが怖ろしい。そういうものではない、なにか人智を超えたものを感じる。これ以上首を突っ込むのが怖ろしい』

 そう書いた後は、しばらく関係のない内容が続く。あとは短い記述が多い。

『初江が山の近くでサヨさんに会ったという。以前の彼女のようであったという。肌が日に焼けて痛々しかったと』

『文坂家に町から医者が来ていたと初江からきく』

『文坂家の前を通ると、広い庭園を規さんが掃除していた。下男が辞めてしまったのだという。庭でまだ幼い惣領息子が遊んでいる。いつの間に歩くようになったのか。幼いが私の方を見てにっと笑い、それがまるで人間のようでないのでぞっとした。まるで以前のサヨさんの笑顔である。ばかばかしい。こどもが何事もなくすくすく育っているのであれば、それで良いのではないのか』

 しばらくページが飛んで、『朝方、文坂家からサヨさんが亡くなったという報せがとどく』とあった。また数ページ、関係のない記述が続く。

『文坂家に人が居つかない。山から何か来るといって、同居していた親族が外に出て行く。使用人にはそれがわからないらしいが、それが来る間は絶対に戸や窓を開けるなと規さんが命じたらしい』

 最後に『サヨさんであろうか』と書き、その上から三本線を引っ張って消している。それがそのノートの最後の記載だった。その次がわたしの読んでいたノートになる。

 一通り皆で読み終えると、兄がノートを集めて立ち上がった。

「コピーとってくるわ」

「コンビニか?」

 父が立ち上がりかけたが、兄は「いや、オレの部屋のプリンタ、スキャナついてるから」と言って、一人でリビングを出て行った。トントンと階段を上っていく足音が聞こえる。

 リビングにはまだ、重苦しい空気が漂っている。

「……お茶いれてくる。飲むか?」

 父が立ち上がった。

「わたしがやろうか?」

「いや、ちょっと動きたい」

 そう言って父もリビングを出て行く。一人でリビングに残ると妙に静かだ。スマートフォンを見てみたが、アプリのどうでもいい通知があるだけだ。誰かからの連絡はない。たとえば聖くんから、とか。

(――ここへは遊びにくるのだ、と)

 日記の中身を思い出す。山のものは一時、おサヨさんに憑いていたのだろうか。それが惣領息子――つまり彼女の長男に乗り移り、先代の祖父にはそれが感じられたのかもしれない。そんなことを考えていたそのとき、わたしの脳裏を、ふとある人の名前がよぎった。

(――哲さん)

 父がこの家の養子になる前、分家を継ぐはずだった人だ。本家の当主を殺そうとして未遂に終わったという――

(子供殺し。もしかしておサヨさんも同じことをしようとしたんじゃない? 子供ごと殺そうとしたのかな、それとも子供に憑いた化け物をなんとかしようとして失敗しただけ? 何をしようとしたの?)

「おおい、実花子。コーヒーとほうじ茶と緑茶、どれがいい?」

 キッチンから顔を出した父に、わたしは立ち上がって勢いよく「お父さん!」と話しかけた。

「おお、驚かせるなちゃ」

「哲さんって、えーと、あれ? ちょっと待って。あー、失敗したんだった……」

 一人で盛り上がったりがっかりしたりしていると、父は「実花子はせっかちやなぁ」と言って笑った。ひさしぶりに父がこんな風に笑うところを見たような気がした。

 階段の上の方から、兄の足音が聞こえてきた。

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