20
いつでも奈々子ちゃんの部屋に移っていいと言われたけれど、わたしはもう一晩客間で母と寝ることにした。一人になるのが怖かったし、心細かった。
「使っていいっていうんだから、使わせてもらったらいいのに」
「いいでしょ、もう一晩くらい」
わたしが駄々をこねると、母は呆れたように笑って「早く寝なさい」と言った。
枕元のリモコンで消灯した。常夜灯がほんのりと天井を照らす。わたしは仰向けに寝ている母の横顔を見た。今わたしの手の届くところにいてくれる、たった一人の家族の顔だった。
「お母さん、おやすみ」
「おやすみ、実花ちゃん」
少しだけ柔らかい気持ちになって、わたしはまぶたを閉じた。頭の中で何度も「大丈夫」と繰り返した。大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫だ。わたしたちは大丈夫。そうやっているうちにいつの間にか眠りに落ちて、
どれくらい経った頃だろう。
名前を呼ばれたような気がした。
気がつくと、客間の天井を眺めていた。
ぼんやりとした頭で、まだ窓の外は暗いなと思った。今は一体何時くらいなのだろう? 体を動かして時計を確認しようとしたとき、ぼそぼそという話し声のようなものが聞こえた。
わたしはとっさに動くのを止めた。起きていることを何者かに悟られたらまずい、という直感があった。
目だけをこっそり動かして辺りを探った。頭の方へと視線を動かしたとき、窓際に人影を見つけて思わず息を呑んだ。
常夜灯の下で一瞬真っ黒な影のように見えたそれは、母だった。カーテンの閉まった掃き出し窓の方を向き、姿勢を正して座っている。後ろ姿で、どんな顔をしているのかまったくわからない。
母はカーテンをわずかに開き、窓の外を見ているらしかった。わたしは息を殺してその姿を眺めた。あれは自分の母親なのに、たった一言「どうしたの?」とでも声をかけたら、いつもの顔でこちらを向くはずなのに、なぜかどうしてもそれができなかった。
どれくらい時間が経ったのかわからない。やがて母はカーテンをきちんと隙間のないように閉め、くるりとこちらを向いた。わたしは急いで目を閉じた。母が立ち上がり、隣に敷かれた布団に戻る音と気配がする。身動きする物音は少しすると聞こえなくなり、きっと母が布団に入ったのだろうとわたしは思った。そしてそのことを確認するため、こっそりと、細く目を開けた。
呼気がかかりそうなほど近くに、こちらを見つめる母の顔があった。
驚いて呼吸が止まりそうになった。
わたしが見たことに気づいたのかどうか、よくわからない。わたしはすぐに目を閉じてしまったし、母は何も言わなかった。
沈黙が満ちていた。そのとき、
ずっ、
という音が聞こえた。
頭の方、掃き出し窓の方向だった。
全身に怖気が走った。
……ひた、ずっ、ひた、ずっ……
音は掃き出し窓の外を、ゆっくりと移動していく。
閉じた両目のまぶたの間から涙が溢れた。母が見ているかもしれないのに、止めることができなかった。
(もう嫌、どうしてこんなことになったの。どうして。お母さん。お父さん)
頭の中がぐちゃぐちゃになって、涙がぼろぼろ流れた。泣きながら眠って、何か悲しい夢を見た。
目を覚ますと、いつの間にか外からの音は聞こえなくなっていた。それでもまだ表は暗い。無理やりもう一度寝ようとしたが、寝つけなかった。
じりじりするような時間をやり過ごしているうちに、ようやく窓の外が明るくなり始めた。白い光がカーテンの隙間から差し込んでくるのを見た途端、わたしは気絶するように眠りに落ちた。
次に気づいたのは朝の八時過ぎだった。
「実花子。起きて。実花ちゃん」
肩を揺さぶられて目を開けると、もう身支度を整えた母がわたしを見ていた。相変わらず疲れた感じではあるけれど、普段どおりの母に見えた。
「お母さん、離婚届出してくる」
「待って、わたしも行く」
急いで布団から飛び出そうとすると、母に止められた。
「いいわよ、一人で」
「ほんとに? ていうか車は?」
「タクシー呼んだから大丈夫」
でも、と食い下がったわたしの肩を、母は落ち着かせるようにぽんと叩いた。
「あのね。実花子はお母さんと違って文坂の血を継いでるんだから、余計に近づいちゃ駄目。それにあたしが離婚届出したって、すぐにあんたの名字まで変わるわけじゃないのよ。その辺の手続き、役所でちゃんと聞いてくるから待ってて」
母は小さな子供にするようにわたしの頭を撫で、「いい子にしてなさい」と言った。それからさっさと立ち上がると部屋を出ていった。
「お母さん」
わたしは急いで布団から抜け出すと、寝起きの格好のまま廊下に飛び出した。玄関で靴を履いている母の背中に向かって「気をつけてね!」と声をかけた。
母は振り向いた。
「はいはい。行ってきます」
そう言って笑うと小さく手を振り、外に出ていった。
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