優しい世界

小林勤務

第1話 理想

 誰しもが心のどこかで完璧を求めている。


 わたしの夫は理想的なひとだ。


 優しくて、かっこよくて、誰に対しても誠実で。

 誰もが羨む一流商社に勤めていて、しかも本社部門に所属のエリート。

 いつも友人や、ママ友から羨望の眼差しを向けられている。


 もしかして、裏では嫉妬の声が渦巻いて、やっかみでもちきりかもしれない。

 だが、そんなある種の下方の声は、上位に位置するわたしたちの耳には届かない。

 夫は外見や社会的地位、いわゆる見た目だけが完璧なわけじゃない。


 内面も完璧なのだ。


 わたしとの関係がマンネリにならないように、常に色々なイベントを用意してくれている。


 突然の海外旅行だったり、何か落ち込んだことがあったら花束を手渡されたり。学生時代、俳優を目指していて何度かドラマのちょい役にもなった経験もあり、その演技、サプライズときたら。


――そんなことしなくても、わたしはあなたに冷めたりしないわ。


 そんな甘い声も、彼から言わせると。


――キミには、俺と結婚して心からよかったと思って欲しい。だから、いつもキミには刺激的な毎日を過ごして欲しいんだ。


 いつでも、わたしを一番に考えて、この胸を熱くさせてくれる。

 結婚してから十年経つというのに、真摯な姿勢は変わらない。

 それどころか、わたしへの愛は深まり、ますますその傾向は強まっている。

 わたしが熱を出したときなんて、そりゃあもう。

 有休は当たり前。わざわざデパートまで足を運んで、瑞々しいフルーツや、胃に優しいおかゆも作って食べさせてくれる。

 やりすぎかもしれないけど、それが当たり前のように心地いい。


 この前、夫に内緒で産婦人科に行ったの。

 出来てたわ。

 やっと辿り着いた、二人の愛の結晶が。

 サプライズはいつがいいかしら。

 きっと飛び上がって喜んでくれるに違いない。

 非の打ち所がない理想的な夫。

 わたしは心の底から、彼と結ばれてよかったと思っていた。


 そう――あのことが発覚するまでは。


 *


 深夜一時のリビング。

 わたしに眼下には、床に這いつくばり、ひたすら頭を垂れる夫がいた。


「ごめん。どうか許してくれ」


 そう許しを乞う姿はどこか切なく、同時に今までこの人を信じていた自分がいかに愚かだったかを痛感するには十分すぎるほどだった。

「この通りだ」

 頭を下げるぐらいなら猿でもできる。使い古された言葉かもしれないが、謝って済むなら警察はいらない。

 愛する人に許しを乞われると、心がほだされて気も許してしまうとはよく言ったものだが、今回のケースは微塵もそんな感情にはならなかった。

 むしろ、この心臓がそのまま凍てついてしまうほどだ。

 だって――。


「黙って、那由の預金にまで手を付けたのは本当に謝る」


 わたしのお金をこっそり抜いたんだから。


 すまなかったと叫ぶ夫の声が虚しく響く。

 いつの頃から夫は投資という名のギャンブルにのめり込んでいた。


 理由は定かではない。でも、少しだけおかしな兆しはあった。

 順風満帆な彼だが、同期との出世競争に出遅れたのだ。なんでも、世界を覆うウィルスのパンデミックによってリモートワークが主体となり、見えづらくなったプロセスに代わり、成果のみを追求されるようになったからだ、と夫は嘆いた。

 プロジェクトの社内調整という、成果が見えづらい本社管理部門は、今までと比べて不利みたい。とはいっても、先に同期の一人が管理職になっただけの話。そんなの、いくらでも転がっているようなケースだ。銀行なんて、もっとし烈だと友人から聞いている。それに比べたら、給与は高水準だし、左遷になって冷や飯を食べさせられているわけでもない。


 ただ、出遅れただけ。


 それなのに、ここ最近は無性にイライラしていた。心ここにあらずといった様子で、常にぼんやりしていた。夫は出世の遅れを取り戻そうと、目を付けたのは投資という罠だった。


 出世した同期との賃金の差を埋めるため、運用によって利益を得ようとしたのだ。最初は株に手を出した。そこそこインデックスが順調に推移すると、調子にのった夫は次々とレバレッジをきかせた、いわゆる先物取引に手を伸ばした。


 これが、悲劇の始まりだった。


 そこで大きく元本が割れてしまい、それを取り戻すため、わたしの預金にまで手を付けたのだ。

 そして、結果はこの通り。

 あろうことか全てを溶かして、挙句の果てに、危ない闇金にまで手を染めてしまった。

 誰もが羨む紳士は、床に額をこすりつける憐れな男と成り下がったのだ。


「これから、わたしたちどうするのよ! もう、なにもかも終わりよ」

 サプライズどころじゃないわ。

「大丈夫だ、まだFXやオンラインカジノがある。これをうまく運用すれば――」

「あなた馬鹿じゃないの!? そんなのが運用だなんて聞いたことがないわ! ただのギャンブルよ。勝つか負けるか、一切を運に任せた、愚かなギャンブルよ!」

「そんなことはない。手元に資金があれば、必ず取り返せるはずだ」

 目を欄欄と輝かせて、さっきわたしに土下座したことなんてすっかり忘れている。いや、元から誠意を込めて謝る気なんて、さらさらなかったんだろう。それは、その後の言葉ではっきりとわかった。


「那由の両親は不動産を経営してたろう? もしよかったら、キミからお父さんに――」


 ああ、この人は、わたしの預金だけじゃ飽き足らず、わたしの家族の財産まで手を付けようとしているんだ。

 なんて憐れな人。

 卑しい守銭奴に成り下がったのね。


 もうこんな人――

 死んでしまえばいいのに――


 黒い感情に支配されようとした、その時。



 ピーンポーン。



 突然、インターフォンが冷え切ったリビングに鳴り響いた。

 だれ? こんな深夜に。

 なぜか、ぞわっと背筋が粟立つ。嫌な予感がして、わたしの足元にひれ伏す夫に目を向けると、彼は絞り出すようにこう言った


「す、すまん。実は取り立て屋に追われている」

「な!?」

 もしかして、そいつらが自宅に。

「正直、もう返すあてもなくて、闇金からある提案をされたんだ……」

「て、ていあん? なにそれ」

「臓器を売るか――」

 再び、最悪な未来が全身を覆う。

「女は体を売るか――」


 ま、まさか。


 夫はごくりと唾を飲み込む。

 間違いない。今から、わたしは聞きたくもない事実を聞かされようとしている。


「き、キミを風俗で働かせることに同意してしまった」

 その言葉に耳を疑った。

「申し訳ないが、那由の写真を彼らに見せたんだ。そうしたら、奥さんなら一年で大丈夫だって」

「なにそれ! そんなの勝手に!」

「悪いのは十分わかってる。本当はこんなことしたくなかったんだ。でも、これしか方法がないんだ」

「絶対にイヤよ! だいたいそんなの本人の同意なしで、強制的にできるわけないじゃない! 警察に言うわ」

「むだだよ」

「なんでよ! 中世じゃあるまいし、そんなのできるわけないじゃない」

「むだなんだ」


 夫はすらりと立ち上がり、なぜか自信に満ちた顔をした。歪んだ笑み。怒りと衝撃で気が付かなかったが、よくみると、顔のあちこちに殴られたような痣が見えた。

 こ、これって。


「那由もわかったかい。彼らには法律なんて関係ないんだよ。いくら法治国家の日本とはいえ、必ずその網の目を搔い潜るやつらが蠢いているんだ」


 ピーンポーンと、再びインターフォンが鳴らされる。

 今になって気付いたが、このインターフォンはオートロックの音じゃない。玄関のインターフォンだ。

 ドア一枚挟んで、彼らがいる。


 まずい。もし彼らにこの部屋に侵入されたら。

 キッと玄関に目を向けると、最悪なことにカギすらかかっていない。

 間違いない。きっと、夫が会社から帰ってるときに、わざとカギを締め忘れたんだ。

 咄嗟に、ドアチェーンをかけようと玄関に向かうが、がしっとその腕を掴まれ、


「頼む。たった一年なんだ。場所は瀬戸内海の小島だと聞いている。ある程度の自由は効くし、必要なものも、娯楽だって用意されているみたいなんだ。何も海外にいくわけじゃない。流石に、言葉が通じないところはいやだろう。もしかして、頑なに嫌がる理由のひとつはそこだったかい? 安心してくれ。その辺は、ちゃんと彼らと話をつけたから大丈夫だ。そりゃ嫌だよな、外人なんて。大丈夫、ちゃんとした日本人だから。おじさんだけじゃない、最近では学生なんかも遊びにくるみたいだ。俺は那由を愛している。俺を信じて欲しい」


 狂ってる。


 夫は完全に狂っていた。

 一体、何を信じろと。

 いや、信じる部分が根本的に間違っている。

 わたしを風俗に売る前に、自分が自分の腐った臓器を売ればいい。


 強引に掴まれた手を振りほどこうとするが、ものすごい力でびくともしない。まるで、強固な楔を打ち込まれたようにその手は離れない。


「頼む! 俺を信じてくれ!」

「だ・ま・れ」


 ぐぐぐと顔を真っ赤に染めて、掴まれた夫ごと玄関へと向かうが、互いの足がもつれて床に倒れ込んでしまった。


「もうすぐなんだ。もうすぐ、もうすぐ――」


 なんなの、この男は。

 わたしを借金の生贄に選んで、何がもうすぐなのよ。

 夫は腕だけでなく、がしっと強引にこの身にしがみつく。あくまで玄関にはいかせない、そんな強い悪意が絡みつく。

 だが、それはわたしの破滅を意味する。

 渾身の力を込めて、ずりずりと匍匐前進で玄関へと手を伸ばすが――

 その手は一歩及ばず。


 がちゃり。


 ゆっくりとドアが開かれていく。


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