昔の事だとしても、された側は忘れられないのです。
「ステファン殿下、参りましょ?」
モートン候爵家マージョリー嬢は、一言もお誘いの言葉をかけられていないのに、ずいずいとステフに近づいてきた。私とは反対側の腕に擦り寄って来ると、あろう事かむぎゅっと胸を押し付けるように彼の腕に抱きついた。
その光景に私は唖然としていた。
胸の谷間を強調したドレスは自分を美しく見せるために誂えたものだろう。
自分を綺麗に見せるためだと言うのはわかっているけど、それを婚約者でもない殿方に押し付けて色仕掛けするのは下品だと思うのだ。王子殿下に対する態度とは到底思えない。
なんていやらしい人なの! 私の婚約者になんてことを!
この人達完全に私のことナメくさってる。
無意識のうちに力が入っていたようだ。手にある扇子がぎしりと変な音を立てた。マージョリー嬢は私の存在を完全に無視して、ステフへ媚びるような笑顔を向けていた。
私は焦った。
ステフだって男の人だ。女性の武器を見せつけられたらクラッとすることだって……
「断ると言ったのが聞こえなかったのか?」
私が慌てたのは一瞬だけだった。
冷たく、凍てつくような声音で拒絶したステフはマージョリー嬢の手からさっと逃れた。完全拒絶である。
まさか拒まれるとは思っていなかったらしい彼女は、瞳が大きく見えるメイクがバリッと剥がれそうなほど目を大きく見開いていた。
ステフはそんなこと気にした素振りもなく、私の方へ向き直ると、にっこりと微笑む。
「ここは空気が悪いね。あちらに行こう、かわいいレオ」
そう言って私の唇にキスしてきた。
ためらいもなく、なんの恥じらいもなく、大勢の人前でぶちゅっとおもいっきりね。それを見ていた女性方の悲鳴と歓声が聞こえてきた。
私は恥ずかしくてたまらなかったけど、ステフに腰を抱かれて移動を促されたので黙ってそれに従った。
……モートン兄妹からめちゃくちゃ睨まれているのが気になったけど、ステフを見習って無視することにした。
彼らから離れると、私はほっと息を吐き出した。
兄が兄なら、妹も妹か。
一度や二度しか会っていないけど、あの人たち苦手だ。多分仲良くできない。
「あぁ、いた」
嫌な気持ちを引きずってため息を吐き出していると、ステフが独り言のようにつぶやいた。
何が? と私が彼を見上げると、ステフはとある女性連れの男性と目で挨拶していた。同年代であろう男性の隣にいるレディはどこか初々しさが抜けない雰囲気があった。緊張してカチコチしているのがここからでもわかる。
「あそこにいるのが大学の友人だ。妹さんが今年デビューしたばかりで、ダンス相手を頼まれているんだ。彼らの家は田舎の方で、普段あまり王都まで出て来ないから顔が広くない。それで社交デビューの際もあまり踊れなかったらしくて。──今から彼女にダンスのお誘いをするけど、それは…」
「それは何度も聞きました、わかってますから」
そのことは事前に言われていて、既に理解している。そんな弁解せずとも。
さっきのことがあるので、私を気遣ってくれているのかもしれないけど、私はそこまで心狭い女じゃないよ。
「誤解しないでくれ、私には君だけだ。一曲で終わらせる」
「はい。大切なお友達の妹さんに恥をかかせないためにも早く行かれてください……んぅ」
わかったと言ったのに。
ステフはまた私に口づけしてきた。人前なのに。ステフの友人が目の前に妹連れでいるのに。
ダメだと訴えるために胸を押し返すが、唇を更に強く押し付けられた。柔らかいその感触に抵抗を忘れ、瞳を閉じてしまいそうになったが、寸でのところで我に返る。
「人前はダメです!」
顔を逸らしてキスから解放されると、私は彼を叱った。
キスが嫌なわけじゃない。人前でするのは慎みがないからダメだと言うためにだ。
「怒っても可愛いだけだよ、頬が真っ赤だ」
それなのに彼はニコニコ笑って頬を撫でてきた。私を愛でて楽しそうにしている。
「もう、ステフ!」
「すぐに戻って来るよ、ここでおとなしく待っていて」
両頬を手で包まれて、至近距離から瞳を覗き込まれる。美しい翡翠の瞳に囚われた私がうっとりと見惚れていると、その隙にキスを落とされた。
私とキスして彼は満足したようだ。私を女性達が固まる壁際に置くと、ステフは友人の妹さんへダンスのお誘いをしに行ってしまった。
赤面した妹さんをエスコートしたステフがダンスフロアへ進んで行ったのを見送ると、私は熱い息を吐き出した。
あちこちから視線が飛んできて恥ずかしい……!
もしかしてステフはこれを狙っていたんじゃないでしょうね! 注目を浴びれば、監視の目の代わりになる。私に声をかけて来る不埒ものが減ると思ってこんな真似を……
「愛されていますわねぇ」
からかいの色が含まれた言葉に私はギクッと肩を揺らした。貴族令嬢からのイビリが来たのかと身構えたのだ。
恐る恐る声の持ち主へ視線を向けると、そこには私と同じ栗色の髪をした、オリーブ色の瞳の令嬢が立っていた。扇子で顔半分を隠しているけど、ひと目でわかった。
「あ、あなたは」
「お久しぶりね、お元気そうでなによりですわ」
その人は元花嫁候補(※割り込み)だったカトリーナ・ハーグリーブス伯爵令嬢だ。最後は婚活するからと辞退して行った彼女。貴族だからどこかで会うかもとは言われていたけども、まさかここで彼女から声を掛けられるとは思ってなかった私は目を見開いて固まってしまった。
「あら、そういえば今はフェルベーク公爵家のご令嬢でしたわね、私から声をお掛けした非礼をお許しになって」
「あ、あぁ…はい」
謝罪されたので許した。
そうだ、身分の低いものからお声かけするのはマナー違反だ。……まだ貴族の立場に慣れておらず、変な感じがするけど、それが貴族社会だからと違和感を飲み込む。でもなぁ…この間まで私が頭を下げていた立場だからどうにも違和感が拭えないというか……
「婚約者に内定しても邪魔者が出てくるわね。でも安心したらいいわ。あの方に殿下が惹かれることなんて、天地がひっくり返ったとしてもありえないでしょうから」
カトリーナ嬢の言葉に私は首を傾げた。
彼女のその言い方だと、多分先ほどの一連の流れを全部見ていたように聞こえる。そして恐らくモートン妹の話をしているんだろう。
……ありえないとはどういう意味だろうか?
「それは…どういう意味でしょうか?」
質問してもいいものなのか少し迷ったけど、気になる言い方をしていたので私は彼女に尋ねてみた。突っぱねられるかなと少し思ったけど、カトリーナ嬢は気を悪くした様子もなく、答えてくれた。
「ステファン殿下は幼い頃、お身体が弱くて表には出てこられなかったことはご存知よね?」
彼女の確認のような問い掛けに私は頷いた。
もちろんだ。幼少期は高確率で発作を起こしていたから、城の外にはあまり出なかったと本人から教えてもらった。
でもそれがどうかしたのだろうか。
「あの御方の体調が比較的良かった時に一度、友達作り目的でお茶会に参加したことがあるのだけど……あのご令嬢、ステファン殿下の握手を拒んで不敬にも言ったのよ。ご病気でやせ細っているそのお姿を、王子様じゃない、気持ち悪いって」
カトリーナ嬢の口から語られた過去の話に私は息をのんだ。
ステフの様子がどこかおかしかったのはそれだったのか。
「幼いステファン殿下は傷ついた表情になり、泣きそうになっていたの。そのお兄様も似たようなもので、病気が伝染ると言っていたわ」
「ひどい……!」
確かに私と初めて会った時も、彼はすぐに儚くなりそうだった。今の健康で逞しい彼からしたら想像できないくらい身体が弱かった。
だけど彼だって好きで身体が弱かったわけじゃない。誰よりも本人が1番健康を望んでいただろうに、その言い方はあんまりだ。
ましてや貴族の娘が王族に対してあまりにも不敬である。
子どもだから何言っても許されるわけじゃない。むしろ貴族の子息子女だからこそ、厳しくしつけられるはずなのに。
ブロムステッドの保養地で過ごしたステフは私と毎日のように遊んだけど、病気は一度も伝染らなかったし、私は風邪一つひかなかった。
彼は頑張って回復した。それまでの日々は苦しくてつらくてたまらなかっただろうに。私とお別れしたあとは必死に、王族としての責務を果たそうとそれはそれは努力したという。
彼が今の地位にいるのはすべて彼が苦難を乗り越えて努力して実った結果だ。
──一度手酷く傷つけておいて、今になって近づいてきて利用しようとしているのかあの人たちは…!
私のことをバカにしてナメていると思っていたけど、彼らは私だけじゃなくてステフのことも見下しているんだ。貴族らしい打算的な人たちだ。
彼の気持ちを考えると、腹が立つ!
怒りが抑えきれなかった私は扇子を握りしめた。
ぎちりと嫌な音を立てたそれはちょっとひしゃげてしまい、目の前のカトリーナ嬢をドン引きさせたのであった。
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