喉が渇いて仕方がないのです。お水をください。


 頭のふわふわが全身にまで及んで来ている。まっすぐ立っていようと思うんだけど、どうにも覚束なくて後ろに寄りかかると彼は両腕で私を支えてくれた。


「レオーネ? ……酒臭いな。そこの誰にかけられた」


 綺麗な顔をした王子が私の顔を覗き込んできた。

 彼の顔が近くて面白くなった私は、彼の唇を人差し指でつついて笑った。口紅がついてるよ。

 王子は苦笑いを浮かべて手をそっと掴む。私を見つめながら指先にキスしてきた。


「──確か、ヘーゼルダイン嬢と親しいそこの青いドレスの娘だと思いますよ? レオーネの顔面目掛けてシャンパンをかけていました」


 王子と貴族令嬢集団の間に入ってきた人物。その人は先日中庭でイジメられているところを庇ってくれたハンカチのフェルベークさんだ。

 しまった、今日はハンカチ持ってきてないや。

 いつか返そうと考えているんだけどその機会に恵まれずに借りっ放しなんだよなぁ。


「……見ていたのか」

「レオーネがイジメられているようだったので、助けに行こうとしたら殿下に先を越されました」


 あら、また私のことを助けようとしてくれたの? 貴族なのに下々のものに優しいんだね、フェルベークさん。


「……かまうなフェルベーク」


 しかし王子はそんな彼を警戒しているらしい。私をギュッと抱き込むと、恐いお顔でフェルベークさんを睨んでしまった。

 私の勘だけど、この人は大丈夫だよ。そう教えてあげようと思って王子の腕をぽんぽんと叩いていると、「レオーネわかった、後で」とあしらわれてしまった。


「そんなひどいな。僕と彼女は親戚同士なんですよ? 殿下もご存知でしょう。やましい気持ちで近づいたのではありませんよ」

「さて、どうだか」


 私の足が本格的にふらついて来たのを察した王子は、軽々と私をお姫様抱っこした。ふわりと体が浮いて、私は「わぁ」と声を漏らす。

 わぁ。王子様にお姫様抱っこされちゃった!


「いやぁぁあ殿下ぁ!」

「嘘…!」


 私を抱っこしたことで周りから女性の悲鳴が聞こえてきたけど、王子は知らんぷり。そのままホールを後にした。



 まだまだパーティは始まったばかりなのに主役の王子が抜け出してもいいのだろうか。運ばれながら私は王子の顔をまじまじと見上げた。彼はお城の通路の先をまっすぐ見つめており、私の視線には気付かない。

 季節の花々が咲く迷路のような広い庭にもあちこちライトが照らされていて、幻想的に映った。


 今宵はお城のパーティということであちこちに警備の騎士が立っている。彼らは私たちの姿を見ると道を空けて譲ってきた。居住区域方面に向かっているので、私を部屋まで送ってから会場に戻るつもりなのかな。


 せっかくドレスアップしてもらったのにパーティ途中で退場して色んな人にがっかりさせてしまいそう。今日のために衣類や宝飾品を準備してくれた王子もだけど、準備を手伝ってくれたヨランダさん達も内心がっかりするだろう。

 無言のままの王子の様子が恐い。がっかりを通り越して私のこと怒っているのかな。ぴりぴりしている彼に声をかける勇気が出なくて、私はきゅっと唇を閉ざした。



◆◇◆



 がちゃりと音を立てて開かれた部屋の中は寝具の側のサイドテーブルにランプ明かりが灯されているだけで薄暗かった。

 王子は部屋を突っ切ると、ベッドに私を下ろした。

 サイドテーブルに乗っていた水差しとグラスを手に取るなり水を注いで自分で飲んでた。


 喉が乾いたのかなと彼をぼんやり見上げていると、空になったグラスに新たな水を注いで私に差し出してきた。

 それを見て「毒味したのか」と悟る。

 だめでしょう王子が毒味なんかしたら……


 窺うような視線を送ると、私が水を拒否しているように見えたのか、王子は私の背中を支えてグラスの淵を私の口元に押し付けてきた。

 傾けられたグラスから口の中に水が流れ込む。


 あ、おいしい。

 自分が思うよりも身体が水分を欲していたみたいだ。

 グラス一杯分の水を飲み干すと、口端から零れた雫を指先でくいっと拭われた。


 うーん、もう一杯水が飲みたいな。


「もっと」


 王子が持つグラスに手を伸ばした。水をもっと飲みたかったのだが、彼によってグラスを遠ざけられた。

 サイドテーブルに戻されたグラスの淵から残った水分がたらりと零れ落ちる。


「んっ…」


 目の前が真っ暗になったと思ったら、唇を柔らかいもので塞がれた。

 角度を変えて何度か唇を重ねた後に与えられたのは更に深いキスだった。口の端からは飲み込めなかった唾液が流れ落ちた。


「違う…みず」


 ちゅっと音を立てて唇を離した私は訴えた。私は水を求めているのだって。だけど彼には伝わらなかったようだ。

 私の腕を抑えつけて上から見下ろして来る王子はまた私を睨んでいた。さっきまでの王子様な雰囲気はどこに消えてしまったんだ。

 なんでそんな怖い顔で私を睨むのか。私の存在がそんなにむかつくのか。それなら何故私にキスをするの。


 睨んでくるかと思えば優しくなったり、気分屋過ぎる。

 王子がなにを考えているのか、いまだによくわからないよ。


「睨まないでよ、こわい……」


 全身がふわふわしてなんだか気が大きくなっていた私は、普段なら言えない文句を言った。

 王子はそれに少し驚いた顔をしていたが、ぎゅっと苦しそうに眉をひそめていた。


 目と目を近づけて、吐息が交わる距離になるとまたキスをされた。


「んむぅ……!」


 胸元を押し返してやめてくれと訴えてみるが、キスが余計に激しくなるだけだった。

 息も絶え絶えに王子のキスを受け止めるしか出来ない。足の間に王子の身体が入り込み、ドレスを踏み付けられているためますます動きを拘束されているのだ。

 ちゅっと音を立てて唇を離された後に、彼は切ない声で言った。


「……君が私を忘れているからだろう」


 忘れている?

 なにを?

 それを問う猶予すら与えられなかった。


 苦しくて熱くて、心地好い。そんな不思議な感覚だった。溺れていくような気分。唇だけでなく、身体まで熱くなってきて切なくなってきた。

 私の吐息が彼の熱い呼吸と混ざり合う。


「も、っと」

「レオーネ……愛している」


 熱に浮されたような彼が許しを乞うように私を呼んだ。

 その顔が可愛くて私から彼にキスをする。


 これは私の夢だろうか。

 お酒に酔っているせいでこんな夢を見たのだろうか。

 それにしては私を組み敷く彼の重みや熱がリアルだけど……


 私が身じろぎすると、宥めるように唇にキスが落とされた。

 体を軽く抱き起こされたと思えば、ドレスの飾り紐に手をかけられる感触がする。──あぁ、脱がせてくれるのかな。眠るのにドレスは窮屈だものね……寝るなら寝間着に着替えないとね。


 だけど私の意識はもう限界だった。

 すとんと眠りの世界に落ちていったあとは、夢も見なかった。






 朝目覚めると、頭を鈍器で殴られたような鈍い痛みで私はぐったりしていた。


「あ、頭が痛い……」

「二日酔いでしょう。パーティで不届きものからシャンパンをかけられたと聞き及んでおります。レオーネ様はお酒に弱い体質なのかもしれませんね。本日は午前中の習い事はお休みにしていいとのことです。ゆっくりお過ごし下さい」


 朝、起こしに来てくれたヨランダさんが着替えを手伝ってくれた。重ね重ね申し訳ない。

 ……昨晩の記憶が曖昧なんだけど、私はいつの間にネグリジェに着替えたんだろう。


「本日はゆったりしたお召し物にしましょう」


 彼女から手渡されたのは首元まで隠れるブラウスとゆったりしたスカートだ。私の体調が良くないから楽な服装を薦めてくれたのだ。彼女の気遣いに感謝しながら、着替えようとして私は全身が映る鏡に映る自分を見てぎょっとした。


 シュミーズ姿の私の皮膚は首から胸元まで無数の赤い痣が浮かび上がっていたのだ。


「なにこれ!? 病気!?」


 まさか毒蜘蛛の後遺症!?

 私が青ざめていると、ヨランダさんが生暖かい視線を送ってきた。


「結婚前の、婚約もしていない相手、それも酩酊しているレディに手を出すなんて、殿下には今一度釘を刺しておかなくてはなりませんね」


 彼女の言葉に私の頭の中にとある記憶が蘇った。

 生々しい口づけの感触、熱い吐息──私は昨晩王子とキスをした。

 一度や二度じゃなく何度も繰り返し。唇だけに及ばず、いろんなところにキスをされた。


 あれは、夢ではなかったのだ。

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