第10話 勾玉
音もなく彼女は舞い降りた。
羽を持つ彼女は天使よりも、
翼端から翼端まで六間を超える、長大な白磁の翼が折り畳まれながら、その背に吸い込まれて朝露のように消失する。
もうあの部屋着にしていたダウンは着ていない。それが羽衣の依代であったというのに。今日はぴっちりとした防寒着に包まれている。
「ありがとう・・・随分と手早いお越しね」
史華は腕組みをして、はぁとため息を洩らした。
上空で冷えているのだろう、呼吸が白かった。
「やっぱり気づいていないのね。貴女が信州を旅立ってから、そう大巫女様の思念波の交信を絶ってから、今日で三日目なのよ」
返す言葉もない。
あの鬼どもに時間を奪われたのか、あるいは勾玉に、あの六竜珠にそんな能力があるのか。それとも時計などを持たない、時間に鷹揚な私の性格なのか。
私の記憶では午前中にあの鍾乳洞に入ったけれど、もう冬の陽が翳り始めている。しかも空白の二日間がそこに寝そべっているという。
「色葉が心配しているのね」と言葉を交わす間もなく、彼女の感情が強い思念波で織り込まれてきた。
《心配かけて、もう!全国模試ひとつを飛ばしちゃったわ。六花姉、これは貸しだからね》
《私はいつから閉ざされていたの》
《なんかJRで黒い物質に囚われてた、とか言ってたときが一昨日の話。タクシーに乗ってしばらくは視えていたの。突然途切れたわ。剣呑な雰囲気だったので、それで史華さんにも手助けして貰って。今までどこにいたの》
色葉が私の記憶をもそもそと探るのが、わかる。頭皮のなかに蟲が潜り込むような痒みを感じるのだ。もう彼女には誤魔化しは有り得ない。
《もう視えているんでしょ》
《鍾乳洞に封じられていたのね。その場所がいまいち判らなくて。お姉を、結界のなかに虜にするって、余程の強敵だったのね》
《いや、あの鬼は雑魚だったと思いたいの。多分、勾玉の力だと思うわ》
私は黙ったまま硬直していたのだろう。
史華が手持ち無沙汰そうに、じっとこちらを伺っていた。
「・・鍵はあるのかな? コレってここまで乗ってきた、あの鬼の車よね」
彼女の視線は乗り捨てられたタクシーに向いていた。
「流石に羽衣でも、ひとを抱えては飛べないわ。風が無いと自分でも飛び立つこともできないし。大丈夫と思う。わたしも免許持ちよ」
そこに逡巡があった。
奪った鍵は手元にある。
存在感のあるキーだった。
もう一度握りしめて、史華に渡したものか、と思う。
今はタクシー車内で、勾玉は封じられている。
しかしその密閉空間にふたりで乗り込んでいいものか、と思う。
ああ、これが畏れなのかもしれない。
敵を、苦もなく屠ってきた私が、あんな魍魎にも達していない欲鬼に翻弄されるなんて。
矜持が逡巡に勝った。
私の手から放物線を描き、鍵が史華の手に渡った。
「やった。ハイブリッド車って初めて。流石に個人タクシーね」
運転をしてみたかっただけのようだ。ちょっと可愛いと思った。キーが解除されて、後部座席に収まった。
車窓から、急流が見えた。
随分と山道を下っていた。
谷底の川とその国道は、交尾をしている二匹の蛇のように、互いにうねりながら高度を下げてゆく。側には雪原に対比して黒々とした流れがある。
そうだ。
往路は女霊と男鬼の嫌がらせに忙殺されていた。山深いこんな場所まで誘い込まれていたのか。よくもここまで練り込まれたものだ。策を・・・
策を!
背筋に冷たいものが疾った。
「あの川は・・・」
「そうね、田海川っていうらしいわ。ナビに依るとね。JRが使える場所に下りて来れたらこのタクシーは捨てていくわね。ドライバーはどうしたの?やっぱり喰べたの?」
「既に腐敗していた骸だったわ。それを色欲鬼が憑依していたのよ。それは美味しく頂いたわ」
「そう。タクシーを運転できる二種免許は持ってないから、検問があるとヤバいのよ。経歴に傷は欲しくないわ。わたしは人間社会で生きていきたいから」
アクリル板越しに彼女は楽しげに喋っている。
こんなに友好的な笑顔をこぼす娘だったか?
猜疑心が、蓋をしても蓋をしても湧いてくる。
大きく蛇行しているカーブが見えた。
雪道の彼方は虚空に開いていた。
曇天に朧な日の形が浮かんでいる彼方が見える。
その車は減速はしない。
むしろアクセルを煽っている。
「史華っ」と叫んでいた。
ガクンと車体が滑り、斜めに路肩を超えてゆく。
車内に羽の渦が湧き起こる。視界の全てが黒い羽に包まれた。それは史華の、彼女の羽衣ではない。口の中にまで羽毛で埋められる気がする。
口中からの超寒気は塞がれた。
視線で凍結破砕を試みたが、その羽毛は魍魎のものであり現実のものではない。これを分解するには素粒子をも活動を妨げる極低温に引き摺り込むしかないが、それには時間がかかる。
車体が中空に浮かび、そして大地へ吸い込まれていく。
窓が破られている。そこから黒い羽毛の塊が、蛹が羽化するように抜け出していく。
加速度が物理的に存在するかのように、胃を絞り上げる。
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