第10話


 旋律は、加藤邸の構造を知って

「こんなところに泊まれるなんて、ラッキーじゃん」と喜んでいた。

 加藤邸の半分は、迷路になっていた。平面図を見ながら進まなければ、家の中で迷子になる可能性があった。書棚の一部は、引き戸のようにスライドし、壁の一部は回転ドアのようにくるりと回る仕掛けが施されていた。さらに、天井を外し、広い二階の部屋に縄梯子で上れる箇所もあった。

 常人なら案内されて、平面図を見ただけでは、記憶が不可能だ。だが、野江は違っていた。野江は図面を手にして、一通り家の中を見た後で、すべての仕組みが頭の中に入ったと納得して、彼女用の平面図を加藤に返した。

 野江だけが、記憶しても意味はなかった。僕と旋律は、加藤の好意に甘えて、あと二往復してもらい、野江式記憶術で加藤邸の全体像を覚えた。

 ポイントは二十五箇所もあった。僕らは天井の模様や、部屋のドアのパターンや、壁の雰囲気に名前をつけて行った。たとえば、天井の模様がムンクの絵の『叫び』に似ているので「叫び」とか、ドアのパターンが海の波のようなので「サーフィン」。壁の雰囲気が怖そうなので「お化け屋敷」等々だった。

 僕は二往復しても、覚えられずにいた。旋律はすっかり記憶していた。つまり、図形を十二支や、カレンダーの一月から十二月の行事に、結び付けて覚える方法だった。

 十二支では、ねずみがムンクのように叫び声を上げ、ねずみの口から飛び出した牛が波間をサーフィン。牛にお化け屋敷から飛び出したトラがガブリと噛み付く。そんな光景を覚えていった。この方法で、うまくイメージできれば、順序正しく想起できた。

 野江は、部屋の同じの場所に来るたびに、「ほら、ここでねずみがムンクを真似て叫んだところ。ここでは、大ねずみの巨大な口から、牛が飛び出して、サーフィンした場所よ、お化け屋敷にいたトラが、牛に噛み付いたのがここなのよ」と説明した。知らない誰かがそばにいたら、ちんぷんかんぷんで戸惑うのは間違いなかった。

 時間を過ごしたあとで、周囲を散策してみた。

 旋律は「さっそく、光学迷彩素材を着用してみよう」と提案した。クルマの通行する場所では、このツールは使えなかった。そこで、加藤邸から徒歩で十分以内のところを散策した。僕らは久しぶりに、童心に帰ったようにワクワクしていた。

 加藤の広大な邸宅は、二千五百坪の敷地内に建てられていた。加藤は国内各所にアパート、賃貸マンションを経営する不動産オーナーだ。将来の人口構造の変化を考え、都内のほかにも大都市に合計七十棟の賃貸物件を運営していた。三千五百世帯から、合計にして月三億二千万円の家賃収入があった。

 加藤は、不動産運用のプロとして、国内でも知名度の高い人物だった。加藤が菖蒲から魔術師と呼ばれるのは、一つは邸宅のからくり部屋、一つは不動産の錬金術、もう一つは文字どおり、奇術ショーを開催できるほどの腕前に理由があった。

 僕ら三人は食卓につくと、豪華な招待の晩餐に舌鼓を打った。加藤は菖蒲の知り合いなので、僕らを信じ切っていた。決して、邸宅を天道の襲撃対象にしてはいけないと思った。

 僕は加藤邸から外出するときに、彼に軽く挨拶した。加藤は、丁寧にお辞儀して僕らを見送ってくれた。セレブらしからぬ、礼儀正しさに感心しつつ屋敷を後にした。

 徒歩で七分歩いた。周囲を見回しても、クルマの通行する気配はなかった。だが、道路上で光学迷彩素材を使用するのは避けたかった。万一の事故が心配だ。そこで、小さな公園に入り、公衆便所の中に持ち込み着替えた。

 三人は透明人間になった。付属のメガネを使用すると、互いの位置は確認できた。

「さあ、メガネを外して見ろ」旋律は声を弾ませた。瞬く間に、僕らは互いの視界から消え去った。

「よし、これは使えるぞ」

 その時、ヘッド・ランプの明かりが公園を眩しく照らした。しかも、五匹のゴールデン・レトリバーが、鼻をひくひくさせて近づいてきた。

 旋律は「天道に違いない」と声を潜めた。「これが必要な時が来たな」と、ディバッグから赤ニシンを取り出した。

 近づいてくる犬どもを見ながら、僕は無性に奴らをからかってみたくなった。犬は視覚よりも、嗅覚が鋭い。グッと気持ちを抑制し、旋律のやり方に任せた。

「こういうときこそ、メロディーの鋭い勘に任せましょう」野江は旋律の尋常ではない格闘センスを認めるだけではなく、誰よりも強い信頼を寄せていた。

 天才科学者、日本一の武道家、魔術師と呼ばれる超リッチ資産家、人気タレントたちと、凡庸な僕は、紛れもなく知り合いだ。コネで国立生化学研究所に入ることができたお陰だった。

 現在、僕は逃亡者の生活を余儀なくされていた。さらに、不祥事を避けるためどんな美人に誘惑されようと、忍耐を強いられていた。

 犬どもは五匹とも、静かに呼吸しながら、様子をうかがい知ろうとしていた。旋律が、七~八メートルの距離に近づくと、一匹が身を起こし、ぎこちない仕草で周りを見回した。

 旋律は、そこから一メートル、五匹のゴールデン・レトリバーの方に進むと、犬の進行方向の数箇所に、赤ニシンをバラ撒いた。犬どもの嗅覚はたちまち狂いが生じたように、動きがてんでバラバラになった。僕らは透明な姿のまま、加藤邸に向かって足音を立てないように進んだ。

 足音を殺して近づいて行くと、リーダーと思しき人物が、無線で誰かの指示を仰いでいた。相手が疎狂であっても、不思議ではない。あるいは、菖蒲の話していた財界の大物の可能性もあった。

「彼の居場所は想像がついたか」と、リーダーは無線を切ると、部下の男に聞いていた。「必要とあれば、私も先に進み、先生に連絡する。まずは、裕司をつかまえないと話にならない。どこに潜んでいるのか、見当もつかん。一旦、引き上げて、菖蒲の周辺をあたってみよう。何か分かるかもしれん」

「つま恋村の近くに、潜伏中の情報を入手し、手分けして探し、あともう一歩のところまで来ましたが、犬たちが何かにおびえて、混乱しています」

 天道たちは、申し合わせて、犬を引き連れ退散した。転居した初日に、天道は僕らの動きを察知し、後をつけてきた。最初から、中野区のアパートと、つま恋村周辺に部隊を配置し、僕を捕獲しようとしたともとれた。

 加藤邸に戻ると、すぐに菖蒲に連絡した。僕らは、今後の行動計画の打ち合わせをした。加藤に迷惑をかけられなかった。すぐに、転居するあてもなかった。ここにとどまって奴らを追い払う方法を検討した。

 菖蒲には、天道たちが探しまわっている様子を伝えた。さらに、僕らの居場所を聞き出すつもりでいる経緯を電話で報告した。

次いで、藍愛に電話した。

「裕司さんたちが、つま恋村の周辺にいるのは、警察内部で、私とクロカワ署長の二人しか知らない。何故、漏えいしたのか調べてみましょう」と、藍愛は申し出てくれた。

 リーガルズの検児に、電話で転居などの件を伝えた。

「引越しですか。情報漏洩で、居場所がばれた? たまらず、漏れそう、おしっこひ、何て……。アハハ。しかし、ご安心あれ。疎狂の野郎の目論見を暴いてみせますよ。ぽこ、ぺん、ぺんの、ぺん、ぺん」

 検児は、僕の臆病な性格を見抜いて、何でもないように言い放った。普通なら、相手の無神経な語り口に憤りを感じる表現も、検児の口から出ると気持ちの負担が軽減された。

 複数の知人に連絡するのは、リスクが拡大した。連絡は、信頼できる数名にとどめておいた。当然、正確な住所は緘口令を布く。吾妻所長への連絡は、最後になった。僕らにとっては、もっとも役に立たない存在だった。

 吾妻は、何か口実をつけて僕を首にしかねなかった。何とか、研究所員でいられるのも、優秀な野江の後ろ盾で助けられていた。野江は、行動をともにし、僕の立場を支持してくれていた。野江は頼りない僕に対して、母性的に振る舞い、まんざらでもなさそうな表情を見せてくれた。それに、救われていた。

 今後の対策については、加藤も参加してくれた。

 天道たちの魔手につかまると、疎狂たちの前で、素っ裸にされて、あちこち検査されるのか。そんな情景を想像すると、身の毛がよだつ思いがした。奴らはたった一日で、僕らの居場所から七~八分のところまで突き止めた。加藤邸があらゆる追手から身を守る仕掛けが施されていても、油断は禁物だった。

 加藤は、メイドに人数分のコーヒーを用意させ、テーブルについた。僕は中野区のアパートのオーナーの淹れたコーヒーを思い出した。いや、それよりも美味しい。メイドは、アキバ系の可愛い子ばかりだった。僕の席の横に立つと、女の子たちは身体をすり寄せてきた。なかには、立ち去るときに、僕を見てウインクしていく子もいた。

「普段はおとなしい子たちなのですがね。ちゃんと教育しておきましょう」と加藤は、僕を見て、少し首を傾げると微笑んだ。僕のどこに惹かれているのか、理解に苦しむという、メッセージを含んでいた。

「加藤さん、裕司の奴は特異体質なのですよ。女の子に言い聞かせても、駄目だと思いますね。むしろ、近づけない方がいいですね。でないと、こいつの寝室に見張りを立てないと駄目になる」と、旋律は笑った。

 加藤はまだ、判断しかねるといった風に「ずいぶん、威勢の良い妹さんですね」と、笑顔をつくり、僕と、旋律を交互に見た。

「いえ、あのう」と、野江が言い訳するのを遮るように

 旋律は「俺はこいつの用心棒だよ」と、胸を張った。

 いつもは、女らしい仕草と乱暴な話し方がアンバランスな旋律だが、何故だか男っぽく見えた。

「アハハハッ、冗談がお上手ですね」と、加藤は大きな声で笑った。

 天道たちの動きを説明すると、加藤は「ここで煙に巻いてご覧に入れましょう」と自信有り気だった。

 加藤は、秘密の通路に僕らを案内した。秘密の地下通路は、建築基準法に適合するように設計されていた。壁、柱、床、はり及び床版は、耐火性能で、天井及び壁の内面の仕上げを不燃材料で造作していた。非常用の照明設備、排煙設備及び排水設備で、法律で定めた構造で設置していた。

 さらに、法的な様々な制限をクリアするため、地下通路はあまり長くなかった。だが、そこを出ると、またコンクリートの迷路があった。迷路はまるで電子回路さながら、一辺が五十メートル四方の大きさだった。ここは、からくり部屋ほどの複雑さはなく、抜け出るのには簡単な公式があった。

 壁の端に来ると、左右両方に信号機と同じ赤、青、黄色の色が数センチ塗られていた。角に来て曲がる方向は、実際の信号機の左→右の順に見て、青、黄、赤の順に動く。それが約束事だった。たとえば、壁の端の左右の色が青と黄なら、青の側に曲がり、次はもし黄と赤なら、黄の側に曲がった。次が赤と黄なら赤の側に曲がる。頭の中で「青、黄、赤」と唱え続けて、角を見て曲がると、出口にたどり着く単純構造だ。

 加藤は、得意げに説明した。

「至極単純な構造ですが、すぐには見破れないものですよ。たいていの人は、答えを聞いて納得するが、解法に気がつくまでに時間がかかる。そこが狙い目なのですよ」

 天道たちが、攻めて来たとしても、防御は完璧だった。加藤の言う通り、簡単に奴らを煙に巻けそうな気がしていた。

 僕は菖蒲の様子が、気になり始めていた。菖蒲の父親は、公安当局の関係者だった。連絡さえしておけば、大丈夫だと信じたかった。でも、万一の危難があればと思うと、気が気でなかった。

 加藤は「菖蒲ちゃんなら、大丈夫ですよ。彼の父親は並の人物ではない。実は私のすすめで、彼女の家も細工が施してある。そう簡単には、つかまらないでしょう」と、太鼓判を押した。

 ここに来て初めて知ったが、加藤は国立生化学研究所のスポンサーの一人だった。

「今回の人体実験の部分ではなくて、動物実験の成功を祈っています。中百舌鳥製薬ともども、出資者として相応のメリットとベネフィットが欲しい。だから、あなたがたをお守りし、滞在費用も出させてもらうのです」

 僕は、単に人が良いだけのセレブを知らなかった。親切な行為や思いやりに満ちた眼差しの底には、何らかの強かな計算が隠されていた。だが、加藤への好印象は揺るがなかった。野江も旋律も、加藤の話す言葉に感心を示し、柔和なムードを心地良く思っていた。

 逆に、豪華な邸宅に、アキバ系のメイドは不釣り合いだった。加藤はロリコンなのかと、思っていると、旋律が「加藤さんは独身なのですか」と尋ねた。

「妻とは一昨年、死別しました。子供ができなかったので、今は独身貴族を楽しんでいます。メイドたちは、私の趣味ではなくて、亡くなった妻の要望です。妻が少女たちの衣装もつくってくれていました」

 野江と旋律は、目を輝かせて頷いていた。世之介症候群の僕でも、何だか妬けてきた。

 異性に好かれるのは、最高に幸福で甘く芳しく、素敵な夢だと考えていた。だが、僕の現状は、いかにも不自然でグロテスクだ。加藤のように、自然体で好かれるのが、本来の理想の姿だった。

 夜遅くなったので、僕らは別々の部屋で睡眠をとった。用心棒の旋律は、野江と同室が割り当てられた。

「何かあったら、すぐに連絡しろ」と、旋律は命じた。

 僕らは、あてがわれた部屋に行った。久しぶりに、パソコンをセットして、メールを受信してみた。すると、影法師からメールが届いていた。影法師=菖蒲だ。何故、今更と思いながら目を通した。

 影法師は「そこから、すぐに離れてね。家主は天道の手先なのよ。気をつけてね」と書いてあった。

 菖蒲が、影法師を名乗って、送信してきたメールは、全部が全部、男性的な文体だった。その時だけは、メール・アドレスも違っていた。これだと、影法師を名乗る意味がなかった。何故、電話して来ないのか不可解だと感じた。

 そこで、菖蒲に電話してみた。すぐに、菖蒲が出て

「そんなメールは、送信していないから。きっと、罠なのよ。私と加藤さんの関係を知らないから、影法師になりすまして、送信したのでしょうね」と、指摘した。

 天道はあらゆる機会を使って、僕の居場所を突き止めようとしていた。間一髪のところで、中野区のアパートを脱出した僕らを忌々しく思っているに相違なかった。

 メールがもう二通届いていた。盛本と吉岡からだった。

「吾妻所長から聞いたよ。転居したにもかかわらず、移転先を教えないなんてないだろ。お前の様子を心配している」と、盛本は怒りをぶちまけていた。

 吉岡は「スポンサーの中百舌鳥製薬と、加藤興産が今回の件で逃げていないから、実験は継続できた。裕司がいなくても大丈夫だけどな。野江博士には、実験に参加してもらわないと困る。お前からも早く、研究所に戻るように頼んでくれよ」と告げた。

 僕は、何か変だなと直感した。

 MHCやフェロモンの研究では僕よりも、野江の方が重要なポジションにいた。知識も僕よりも数段上だった。しかし、天道は僕をねらっていた。理由は、まだ解明されていなかった。この日はもう夜遅いから、次の日、電話で藍愛に尋ねてみたいと思っていた。

       ※

 架電しようとした矢先に、早朝、藍愛から連絡があった。沈着冷静な藍愛にしては、開口一番「大変な事態になりそうなの」と告げた。いやな予感がした。

「どうも、警察内部から情報が漏洩していると思っていたら、クロカワ署長から、天道の幹部に流れていた」と、声を小さくした。

「それで、僕らの居場所まで、知られてしまったのでしょうか」

「今日、加藤邸に向かって、大がかりな捜査が行われる予定。ただし、管轄外なので静岡県警が動く。逆に考えると今日、明日は、天道たちは、おとなしくしている。いずれにしても、天道にも居場所が知られたわ」

「僕らは、どう動くべきでしょう」

「警察内部に、天道と内通しているものがいて、あなたたちを逮捕しようとしているのよ。私の立場では、逃亡を手助けするわけにはいかない。何とか、事態が収束するように手配するから、それまで変な動きをしないように……」

 天道に追われる僕らに、どんな嫌疑がかかっているのか懸念された。

 藍愛は、僕が想像したような天道による経済事犯の濡れ衣ではなく

「裕司さん、あなたに、性犯罪の容疑がかかっているの」と告げた。

「えーっ、どういうこと」と、僕は思わず大きな声を出してしまった。

「強制性交罪とか、わいせつ罪とか、ですか」

「そう、中野区の二十歳の女性から被害届が出ていたの。その話の中身が、かなり怪しいの。それで連絡したけど、私からの連絡は内密にするように……」

 この安全・快適な邸宅に、県警の警察官が訪ねてくる。無実の罪を着せられたらたまらないと思った。藍愛の話では、警察が動いたので、内通者の情報から天道は居所を特定し、僕を追い詰める算段があった。

 キョウセイセイコウだなんて、フェミニストの僕に、それはありえなかった。恐るべき天道たちの毒牙にかかるのも御免蒙りたいが、警察にあらぬ容疑で逮捕されるのも避けたかった。僕は、藍愛が真相を究明するまでは、どこかに隠れていたかった。

 警察署員は、この日の何時頃に、加藤邸に来るのか確認し、事前に対策を要するところだった。僕にかけられた嫌疑は、都府県をまたがり、広域捜査される重大事件だとすると、背後に何があるのか気がかりだった。

 藍愛は、エリートによくある、感情移入しない淡々とした語り口が特徴だったが、僕には「なのよ」とか「それでね」とか、妙に親しみを籠めて話しかけてきた。それは、フェロモン物質やMHCの効果がその時になって現れたからなのか――。い職務に忠実で優秀な藍愛に限って、それはないと信じたかった。

 僕は、すぐさま緊急避難すべきなのに、午前八時の朝食のテーブルに着いてから、野江や旋律に、藍愛との話の内容を説明した。

「何故、連絡があったとき、すぐに私たちに、相談しなかったの」と、野江は僕を咎め立てた。

「電話があったのは、六時三十分頃だよ。君たちを叩き起こすわけにはいかないじゃないか」

 旋律は「逆に言えば、それだけ緊急性のある状況だろ。多忙な藍愛は、昨日の夜遅くになって、静岡県警の動向を知って、朝早く連絡してきたとは、考えられないのか」と、僕の顔に鋭い視線を向けた。

 加藤は、余裕の笑顔で「大丈夫ですよ。警官たちが着いたあとでも、煙に巻いてご覧に入れましょう」と、僕らの不安を一言で打ち消した。

「どうして、そんな風に断言できるのですか」僕は、首を傾げた。

「昨日、お見せした地下通路を出て、地上の迷路の出口から二十五メートル向こうに、洋風の庭園がありましたね。あれは、コンクリートの壁に描いた騙し絵です。右端の高さ二十メートルの榎を、後ろに回りこむと、隠れ家があります。警戒が解けるまで、しばらく、そこに滞在していただきます。私も、藍愛警部の噂は知っています。藍愛警部が辣腕で、賢明なのは、見事に証明されるでしょう」

 危険が身に迫りつつあるので、長く朝食に時間を割くわけにはいかなかった。席を立とうとすると、加藤に止められた。メイドたちは、相変わらず僕のそばに来て、話しかけたがった。テーブルの上の皿を片づけるときに、無理に僕の肩に、豊な胸を押し付けて立ち去る子もいた。

――こんな状態は、嫌だ――と、つくづく考えていた。

 異性を惹きつける原因が、僕の人間的魅力の賜物でないのが、はっきり分かる以上、どうにも不愉快だった。嗅覚レセプターを刺激して、関心を抱かせるよりも、僕の思わせぶりな表情や、詩人のように巧みな語り口に惚れさせたかった。

 食事を終えてすぐ「どうです。美味しいコーヒーをもう一杯。それとも、紅茶にしますか」加藤は余程、自信があるのか、ゆったりと構えていた。

 窓の方に目を向けると、メイドの一人が、僕らと向き合わず外を見て立っていた。メイドは、窓敷居に両肘をかけていた。ガラスには、メイドの顔が映っていたが、はっきりと判断できなかった。が、全体の雰囲気が先日、会ったときの菖蒲にそっくりだった。

 藍愛や菖蒲の協力のおかげで、僕の周辺事情は、徐々に明らかになりつつあった。一方で、警察から容疑をかけられるといった、新しい事態も発生していた。僕はすべての出来事を記憶と照らし合わせながら、何度も反芻してみた。

 まだ、はっきりとした文脈で、すべてを理解できてはいなかった。野江や藍愛でも、分からない全体像が、僕のちっぽけな脳髄で推理できるとも考えられなかった。僕は僅かに手を動かそうとする都度、新しい展開に向き合うはめになった。

 メイドは目を軽くこすり、額にかかった髪の毛を掻きのけて、僕らの方を見た。

「あっ」と、僕は声を上げてしまった。それは、紛れもなく菖蒲の姿だった。昨夜、いなかった菖蒲が朝早くから、邸内にいるとは――。

「ちょっとしたサプライズですよ。あなたがたを驚かそうと思って、準備していました」と、加藤は種を明かした。

「それは、どういう意味なのでしょう?」

 メイド服が、似合うタイプには二つあった。一つは、雑巾、掃除機、バケツを手にすると様になる下働きの女タイプ。もう一つは、メイド服で、見栄えがするタイプだった。菖蒲は、平凡な顔立ちで目立たないが、メイド服が驚くほど似合っていた。無論、ファッションとして見た場合に、可愛く見えた。

 菖蒲の品定めをしている場合じゃなかった。どんな理由があって、菖蒲がここにいるのか判然としなかった。もし、夜間に移動して朝到着したのでないのなら、昨日加藤は僕らに嘘をついたのか、疑われた。

「実は菖蒲ちゃんは、あなた方より一足早くここに来ていました。裕司さんが電話したときには、隠れ家の一室で、会話していたのですよ」

「どうして、そんな風になったのでしょう? 何か思惑でもあるのですか」

「敵を欺くには、まず味方からですよ」

 菖蒲は「天道がどう出るか試すために、加藤さんと相談して決めました。ですが、思ったより早く、県警が動き出したので、今朝、正体を明かしたのですよ。探偵事務所には、二週間の有給休暇届けを出しています。なので、メイドの一人として、ここで働いてバイト代を稼ぐつもりです」

 朝食を終えて、席を立とうとしたとき、ドアのチャイムが鳴った。加藤が応対すべく玄関に向かった。室内電話が鳴った。

 加藤は小声で「県警が訪ねて来ました。さあ、隠れ家まで、例のルートで行って下さい」と指図した。

 僕らは、からくり部屋を出て、地下通路を脱出し、騙し絵の後ろの隠れ家にたどり着いた。一時間が経過した。誰かが、鍵のかかったドアを開けて中に入ってきた。

 他ならぬ、加藤だった。加藤は「県警の刑事が、三人訪ねて来ました。大掛かりなものでは、ありませんでした」と微笑んだ。

 僕らは、緊張したムードの中で、時間を過ごしていたため、ずっこけてしまった。

「県警の刑事を送り出したあと、玄関から外の様子を見てみました。すると、パトカーから離れて、十五メートル先に、黒塗りの品川ナンバーのセダンが停まっていました。ガラスには、フィルムが貼られていたので、中の様子は分かりませんでした。何か嫌な予感がしますね」と、加藤は警戒を促した。

 私服刑事は、拳銃を携行している様子はなく、ものものしい雰囲気もなく、令状も所持していなかった。僕を逮捕しに来たのではなく、任意での事情聴取に訪れていた。 

 加藤は「天道に、居場所がばれてしまいましたね」と案じた。

 野江も、旋律も、菖蒲も同じ意見だった。

 僕はまだ、何故そんな風に決め付けるのかと思い、薄ぼんやりとしていた。

 加藤の勘は、当たっていた。疎狂の動きについて、リーガルズの検児から連絡が入った。奴は周囲に対して、オフを利用し、つま恋村に行くと話していた。しかも、胡散臭い連中と、接触している様子もあった。

 疎狂が、天道たちのボスなのか――、テレビのキャラクターから考えると、想像もできなかった。人の本質は、見た目やイメージでは分からなかった。国会議員とはいえ、落語家が愚連隊を指揮して、僕を追いつめるのは想定外の出来事だった。

 天道たちの動きを察知すべく、藍愛に連絡してみた。

 藍愛は「県警を囮に使って、天道はあなたの居場所を突き止めたわ。正確な動向は捜査している。今のところ、阻止する手立てがないから、気をつけて。つま恋に天道が、明後日までに出向く情報を入手した。何か準備しているのが分かる。それと、署内の内通者が分かったわ」

 藍愛は、そこまで説明すると一息ついた。

「それで、誰が内通者だったのですか」

「最初は、クロカワ署長本人かと思ったけど、そうじゃなくてね。クロヤマ警部補が天道に情報を流していたの。詳細は調査中だけどね。本件では、クロカワもクロヤマも使えないわね」

「今の説明だと、両方クロのように聞こえますよ」

「名前は二人ともクロだけど、一人はシロだけどね」と、藍愛は笑った。

 警察の幹部なのに、僕に対する親しみのこもった話し方や、事件に巻き込まれそうな人間を相手にして、楽しげに笑う何て、ナンセンスだと思った。

 僕は、加藤邸のメイドたちには、身体にスリスリと胸を擦り付けられて、困惑していた。こんな妙な雰囲気になるとは、モテない頃には想像できなかった。天地がひっくり返っても、ないと信じていた。

 モテない頃は、タレントが羨ましかったが、世之介症候群に罹ってからは、彼らが気の毒で仕方がなかった。はたして、ハートとハートで感じ合う本物の恋愛ができるのか疑いたかった。僕は、美人の身体を抱き寄せるよりも、純粋な女性のハートを鷲づかみしたいと念じていた。

 理知的で責任感が強い藍愛にまで、僕が会ったときに、嗅覚レセプターを刺激して、心理状態に影響を及ぼしたとは考えにくかった。

 藍愛は、電話の最後で「疎狂は、天道のボスじゃなくてね。背後にもう一人の影がチラつくの」と、ほのめかした。さらに、時期尚早なので「具体的な氏名や立場については言えない」と、クールに答えた。

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