S10C3 巨大なネズミ
巨大なネズミに会いに行く。
手紙に記された場所は大学の研究室だ。いくつもの棟が並び、さらにいくつもの部屋が並ぶ中のひとつに彼女がいる。
兎田は早めに出て周囲の状況を窺った。駅の近くは栄えていて、食事には困らず、貸し会議室やスタジオはもちろん、カラオケも多い。多少の騒がしさは有象無象に埋もれて平凡な日々の背景になる。
兎田はハンバーガーの袋を持ち、立ち止まれる場所を探す。雑踏で同じ場所に留まるにはやはりこの方法がいい。そこそこ落ち着いた場所で、しかも車の往来を一望できる場所を探す。見つけた。ここで昼食とする。
月曜日の昼過ぎだ。行き交う勤め人は昼休みの終わりを気にして、たまに若者が長い昼休みを見せつけるように悠々と歩く。いかにも夜職に出る前といった風貌もたまに見える。ナンパは来ない。勝ち目がない場所で張り込む輩はいない。
小さなクラクションが鳴った。
トラックのパワーウィンドウが降りて、見覚えある男が出た。マンションに荷物を運び入れていた運送屋だ。
「よおあんた、ラビちゃんだよな」
「そうですけど、ご用事?」
「荷物を運んだ帰りでよお、ラビちゃんが来るって聞いてたから、迷ってると思って声かけたんだ」
「親切にどうも。まだ予定には早いけど、もう向かってよさそうな感じかしら?」
「そいつはわかんねえ。俺ぁバカだからな」
迷ってないと気付いた様子で、窓を閉めて走り去った。念のためナンバーを控えておく。銀色の側面は中身が業務用の荷物と教えている。
バカと自称するが、どこまで本当かわかったものではない。本物の馬鹿は言葉を言いたい順に並べて、聞きやすさも意味も考えやしない。文章を文章ひとつとして丸暗記したような喋りをする。それで他者との関わりを求めるから、貴重な会話チャンスを長引かせようと食い下がる。
ところがあの男はそれらの特徴を持たない。背景を明かし、理由を明かし、行動を明かした。その全てを一定のパターンの組み合わせで言葉にした。話を切り上げる判断も早い。あの男は決して馬鹿ではない。
マンションの上層に入れたあたり、竜胆のお気に入りだ。必ず理由があって動いている。どこで関わるか、近いうちに調べ直す。
今日は約束の建物へ向かった。門を越えて受付へ。
ここが巨大なネズミの研究室だ。中央のテーブルにはバスケットのお菓子と飲みかけのペットボトルが二人分、他は部屋の外周に並んでいる。ロッカー、画面、サーバー、入力端末、半透明カバーの顕微鏡、ツマミが並ぶ機械、防護服、さらに奥の部屋への扉、様子が見える窓。
奥から一人が近づいてきた。窓で阻まれても少しは聞こえる。にこやかに「やあこんにちは」と、口の形も手がかりに聞き取れた。手にしていた道具を置いたりで物音が続き、扉を開けた時にはN95マスクをつけていた。
彼女が
「きみがうづりんね。私のラボにようこそ」
「初めまして。世話になりましたわ」
臼井は馴れ馴れしい言葉に続いて不気味なにやけ顔で兎田を見つめた。思わず目を逸らす。
「百二十だけど」
臼井がにこやかに明かした。
「何がです?」
「太もも、見てたでしょう。六十がふたつで、百二十」
呆気に取られる兎田を前にして、共有している範囲を話しだした。
美貌と話術で数々の男を骨抜きにして、しなやかな肢体で物理的な潜入もする。あまりに呆気なく突破したせいで警備会社が自信と評判を失い事業を畳んだとか、色恋に狂って国が傾きかけて強行策が出たとか。
誇張こそ多いが間違いではない。裏を知るのは仲間の印だ。
「竜胆様との関係も、知りたいけど」
「彼はいいよねえ。くれって言うと深く聞かずに融資してくれるんだよ。おかげで他のメンバーも合わせて恩がたっぷり、応えたくなるよね」
「そうね。メンバーさんも繋がりを?」
「いやいや、私だけだよ、秘密の品は」
飲み物は出ずに菓子だけを出す。テーブルの中央の器を引き寄せて、上半分を外すと下がゴミ箱になっている。中身はブルボン製を中心に、うまい棒やブラックサンダーも少量ながら見える。
「遠慮なくどうぞ」
「たこ焼き味のリニューアル版?」
「それ評判が悪すぎて誰も食べないんだ。よかったら食べてみてよ」
確認したら、賞味期限が遥か昔に切れている。うまい棒のたこ焼き味は固い食感が特徴で、味付けの手間が二重になる都合で最もコストが高い。ところがリニューアル版は、長らく放置した影響もあるだろうが、半端な柔らかさはもちろん、味がまるで別物だった。そう長くないうちにリニューアル前の味と絵に戻った。今でもうまえもんをたこ殴りにする絵で親しまれている。
「いつからこれを?」
「まあ昔だねえ。三十本入りで買ったんだけど、あと二十二本あるよ。さあ遠慮なく」
「遠慮するわ。せめて賞味期限内なら話題になったかもだけど」
掘り出し物は続く。ダイジェスティブビスケットに手を伸ばしたらイギリス本場の味付けで、日本のブルボンをあまりに引き離した仕上がりに腰を抜かしそうになった。
「ねえねえうづりん、あまり新しいものに飛びつきすぎるのも考えものだよ」
「とくと味わったわ」
「なんだか楽しくなるね。これからですよ、当店自慢のお菓子フルコースは」
臼井は気を良くしたらしく、ロッカーから期間限定フレーバーのお菓子を出してきた。もちろん賞味期限は遥か昔に切れている。新しかった時期にも店で売るには罰ゲームにぴったりと書いてようやくだったと話題の品の数々だ。
「食べないから」
「私、知ってるんですよ。うづりんが店のブログで話題になるものを探してるって。必要でしょ?」
「くどい。本題を始めましょう」
強引な押し売りを察知して強引に終わらせた。アンノウンからの手紙を渡して、暗号の有無を確認する。案の定、仕込まれていた。内容は伏せて、臼井は「やっておくね」と短く答えた。
「ところでこの部屋、盗聴器はないでしょうね」
「ないよないよぉ。うづりんのそれ以外は」
顔は穏やかでも竜胆の息がかかった女だ。何らかの手段で秘密を扱い、同時に言い逃れの余地もある。
「揺さぶり?」
「やだなあ、持ってるでしょ? 根拠は内緒だけど、持たないはずない。何を盗みたい? 手短な方がいいよ。この後も用事があるはずだから」
「私はアンノウンに協力したお礼をしに来ただけよ」
「あれかなあれかな、去年の暮れに一分だけ見張りを眠らせたやつ」
「そうよ」
「どういたしまして。すごいでしょ」
犬の尻尾ほどに物を言う。臼井は満面の笑みで胸を張った。座ったままでも腰に手を当てて、小さな上半身がより際立つ。
「すごい。さっきの暗号の話もこのすごさでやってくれるのかしら」
「もっちろん。私に任せんしゃい」
「楽しみにしてる」
兎田は立ち上がった。お菓子の袋が少し飛び出した部分を整えて、椅子の位置を戻す。
「もう帰っちゃうの? 寂しいなあ」
「信用してるのよ。挨拶もしたし、やってくれるともわかった」
本当はもう少しどんな奴か知りたかったが、面倒な奴と分かれば早く切り上げたい。仕事でもなしに厄介な奴とは話せない。
「せっかくだからもっと褒めていってよ」
「それは無理。私がわかってないのに褒めたら上っ面だけになっちゃうでしょ。私は本心でしか動かない」
「ちぇー。じゃあ最後にひとつ覚えていって」
臼井は耳を近づけるよう手招いた。膝を曲げて高さを合わせる。臼井はそこまで小さくないので半端な高さになる。
「イマスグ・ニヒャク・ミギ・ニジュウ・デル・ニジュウ・デル・ヒダリ・ヒャクニジュウ・ハイル」
言い終えたら兎田の背中を叩いて送り出す。振り返っても臼井の顔は上機嫌な笑顔のままだった。
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