3章 揺り籠から墓場への道
S08C1 卒業式の準備
立つ鳥跡を濁さず。
兎田が真っ先に求めたのは店の後始末だ。ナンバーワンが突然に姿を眩ませれば確実に疑念が生まれる。金持ちが多い店た。国内外の探偵が十や二十を超えて動く。欲しいものは買う、いらないものは捨てる。金持ちとはそういう生き物だ。成功者は特に。
なので大々的に行き先を明かす。イベントを開いてもいい。そのぐらいの融通は利かせられる。時間は二ヶ月もある。企画から準備までで一週間、予告に三週間、残りはトラブルシューティングに回す。残る問題はどんなイベントにするかだが、誰にでも経験がありどこででも使われる言葉がある。
卒業式。
次のステージへ前向きに送り出す言葉だ。印象づけにはちょうどいい。勘繰る者も現れるだろうが、せいぜい数人までは抑えられる。あしらえる程度まで減らせればいい。残りは兎田の側でさらに
控え室に入った。いたのは着替え中の一人、新顔の
後ろ姿だけで初対面との違いがわかる。胴回りに洗練された曲線ができた。姿勢への意識が変わり、筋肉の使い方が変わり、体型に現れる。
「トキちゃんね、おはよう」
「おはようございます。顔以外も覚えてるんですね」
「人を忘れたら、私も忘れられちゃうわ。ところでナルミちゃんはまた一緒じゃないのね」
「あの子、このごろ他のとこに行ってるみたいです。オーナーさんが紹介した方が来て、次から別の店に行くって」
「あの
「逆ですよ。私よりずっと勉強熱心なのに、指名もゲストさんの顔色もイマイチって悩んでました」
気になる。もう少し揺さぶる。
「トキちゃんが可愛いからじゃなくて?」
「可愛さで言えばあの子も、少なくとも引けはとりませんって。私と仲がいいんですから」
「それじゃあ勉強熱心だからこそかもね。ここは特殊だから」
自習をするなら教科書の精度がそのまま成果に繋がる。世にのさばるテクニック指南書は平凡な環境を想定している。指南書を求めるのは平凡な連中だから、同じく平凡に合わせた内容になる。平凡な男は決して金持ちにはなれない。金持ちの子飼いの一人、名前も知らない数字が関の山だ。
「さしすせそをやってたりしない?」
「なんですか、それ」
「さすがです、知りませんでした、すごいです、センスいい、そうだったんですか。男を煽てる言葉でキャバレーにはつきものだけど、ここに来るような上物には通じないわ。月並みな言葉なんか知ってるから」
「言われ慣れてる、ってことですよね」
「自分に向く武器の調べがついてるってこと。モテない男が付け焼き刃の恋愛テクニックに頼るのと同じよ」
「うわ、そりゃ想像しただけで寒い」
兎田も着替えていく。相手と同じ立場だと示すには服装は大きな役目を持つ。
同時に、肢体を見せられるほどの手入れを見せつける。猪瀬は肌に近い色のタイツで毛穴や虫刺されの跡を隠すのに対し、兎田は生でも色白の肌が続く。怪我も汚れもない艶かしさは異性同性を問わずに魅了する。
美容は実用でもある。外見が印象になり、印象が信用になり、信用が安心になり、安心が指名になり、指名が成果になる。総じてキャストとしての力量を左右する。
服が同じならば皮膚で違いがつく。皮膚も同等ならば姿勢で、姿勢も拮抗したら言葉で、言葉でも甲乙つかなければ話題で。見える範囲をどこまで拡大できるか、最後に笑うのは、最初から最後まで笑い続けた者だ。
「それで、ナルミちゃんとの仲は続けられそうかしら。私のせいで亀裂が入るなんて嫌よ。仲直りが必要なら手を貸します」
「大丈夫ですよ。一緒にやるはずだったもう一人がいるんですけど、その子のおかげで三人仲良くしてます」
「いいバランスってわけね。それなら私がいなくても、大丈夫」
「かもしれませんね。あの子、ラビさんの写真を見て逃げ帰ったんですよ」
「下にあるやつ?」
エレベーターホールの、目立つ位置に。ナンバーワンからナンバースリーまでと、様々な短期記録の保持者の写真がある。
それで逃げ帰るなら、何かを知っている。ポーズは珍しくもないから顔の、ホクロを目印にすれば誰でもすぐにわかる。顔の左側に泣きぼくろとお喋りぼくろがある女、覚えやすくて間違えにくい。
「同じ大学の子よね」
「サークル仲間ですよ。二回生の頃にはもう家を持ってたり仕事もしてて、しかも全部を一人でやってる超すごい子」
「本当に超すごいわね。びっくりしちゃった」
似たような奴に心当たりがある。兎田の人生に影響を与えた一人の、クソレズサブカル探偵。年齢からそいつの子供の線は消えるが、息がかかった可能性はある。
それと仲がいいなら、こうして兎田へ探りを入れている可能性さえある。深追いを控えて、今日のメインホールへ向かった。
今日は本指名が一人と、そのあとは閉業までポールダンスを披露する。
股間部の皮膚は中央へ近づくと白から別の色へ変わるが、正面からはバニースーツの黒が隠し、角度をつけるときはポールの陰で。もしかしたらに期待した者らの注目を集める。
通気取りには乳房の隙間からバニースーツの裏側を見せる。決して特別ではない場所でも普段は見えない部分でさえあれば価値を感じる。
これらは技量があってこそだ。姿勢をゆっくり動かすには自分の筋肉だけですべてを制御する。勢いには頼れないし、重力にも逆らい続ける。体の曲線を右へ左へと波うたせて、足を浮かせるには腕で柱を掴み、細い柱を体に見立てて包む。
パントマイムにも通じる。現実にはないものを、あたかも透明なだけに思わせる。触れている。掴んでいる。客席からは確かにそう見える。
膝を曲げて、足の裏を向かい合わせて、つま先で立つ。
上半身が柱の奥を通るときは必ず乳房を押し当てて弾力を見せつける。柱を掴む手は小指から階段状に柔らかく掴み、よく見ると力を込める指がやがて三本だけになる。表情筋を含む全身の筋肉を艶かしく煽情的に動かし続ける。
筋肉には二種類がある。鍛えれば大きくなる白筋と、鍛えても小さいままの赤筋が。ボディビルダーや重量挙げ選手は白筋を鍛えて瞬間的な力に優れて、マラソン選手や歌手は赤筋を鍛えて持久力に優れる。
外見で筋肉量は測れない。ただし、細身になるには筋肉が要る。弱ると内臓を支えきれなくなりお腹が膨らむ。これで太ったと思って食事を減らすとさらに筋肉が弱りさらにお腹が出る。
怠惰と美容は相反する存在だと、ポールダンスを通じて後進たちに伝えている。体力をつけて、二時間くらい続けてみせろ。その頃には体が研ぎ澄まされて美しくなっている。
拍手が渦巻き、次に静かになる頃には黒服が走り回る。カードを受け取り、会計を済ませて、カードを返す。エレベーター内で鉢合わせないように一人ずつ案内していく。夢は一人で見て一人で覚める。
「また見に来てくださいね」
兎田の言葉に、ゲストは握り拳を掲げて応えた。
閉業後の店では定例ミーティングを始める。財布が固いゲストや失礼なゲストを共有したり、儲かりそうなゲストを呼ぶ施策の案を出す。
それらと並べて兎田が店を離れると伝えた。海外への留学で、詳しく追求されたらアメリカと答えた。
満場一致で祝辞と賛同で溢れた。次いで寂しさに涙する声も。
ナンバーツーは恨み言を。結局、あんたには勝てないままだった。
猪瀬は泣き言を。まだぜんぜん教わりきってない。
黒服はぶっちゃけを。今だけは出しゃばらせてください、ファンでした。
ナンバーツーは猪瀬を推した。繰り上げで次期ナンバーワンにはなりたくない。最後の二ヶ月でその後継者を育て上げて、その後で実力で勝ち取らせろ。
猪瀬は恐縮した。百戦錬磨の一流に追いつくまで二ヶ月なんてとても足りない。
黒服は言い淀んだ。演出次第で可能性はあるが、それを彼女らに言うにはばつが悪い。
兎田はぶっちゃけた。演出で人気をいくらでも操作できる。新星のごとく現れた新たなナンバーワン、名札があれば人は名札の正しさを探し始める。
留学と伝えたが、これがどこまで信用されているかは疑問なままだ。特にナンバーツーは疑い深い。裏をすでに見透かされたと考えておく。具体的な行き先までは見えないだろうが、それも今後の支配人次第なところがある。彼も把握しているはずで、確実に手を打っている。
表向きには誰もが兎田を手放しに祝う。印象がよければ後でおこぼれを貰うチャンスになる。打算に満ちた世界だ。兎田はそう見ている。
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