2章 乗船チケット

S03B1 迷い子たちの家

 タワーマンションは高級都市に似ている。


 いくつもの平屋が並び、徒歩かせいぜい自転車までで、全員が顔見知りになる。区画に入るだけでも許可か技術を要求する。上下が空より狭くはあるが、おかげで天気を気にせず出歩ける。


 本物との違いは住民にある。天気の話題が封じられれば、いよいよ技術の見せ所だ。技術不足ならば隠れてやりすごすか、徒党を組んで戦うしかない。都会人気取りの田舎崩れはおしなべて口下手で、自分だけで生きられると思い込んで生きている。連帯なしには交渉ができない。孤立した個人は無茶な要求でも強引に飲ませられる。


 支配者に都合のいい駒を穫り放題の畑に兎田も住んでいる。


 ナンバーワンの座を得た頃にトラブル回避のため支配人が提供した。渋谷区を見下ろし、誰にも見下ろされない。最上階とそのひとつ下のフロアはさらに特殊な仕掛けで、部外者は一人も入れさせない。


 エレベーターの隠しボタンを操作した。地面が遠ざかる。上を向いての耳抜きもすっかり板についた。途中の階には止まらない。次に扉が開くのは兎田が住む最上階だ。


 ここは地上百メートルの町。すべての住民は顔見知りで、共助もあり快適な暮らしがある。ガムを吐き捨てる者すらいないこの場は東京の楽園として知られる土支田や平和台をさらに上回る衛生状況を実現した。南東の一角が兎田の家で、南側が共有空間だ。


 天井は空と違って模様がないが、時刻に合わせて光量を調整する。今は深夜の二時、赤の光で優しく照らす。


「ただいま」


 兎田は迷わず南に入った。残業の話がきっと通っている。期待通り、すぐに必要な照明が灯った。洗面所と、浴室と、寝室が。


 その操作をした彼女は未来翔みらい・しょう、支配人からの呼び名はオビス、職業は四年目の住み込みメイド。


 エプロン姿にぱっちりお目目の可愛げに満ちた容貌ながら、表舞台よりも裏方を望む熱心さを、十六かその程度の元気な時期から片時も欠かさずに続けていた。本当に思う所がないとは考えにくい。やはり訳ありの子娘だ。兎田は頼ると同時に訝しんでもいる。


「おかえりなさい、お疲れ様でした。後始末はお任せくださいな」


 自信満々に小さな胸を叩く。言葉に甘えて、兎田は着ていたすべてを洗濯かごに放り込んだ。シャワーを浴び始めるまでの静かな時間に状況を聞いておく。


「今日はショウちゃんだけ?」

「そうですよー。明日は客人が二人ほどですが、午前だけですぐ帰る方達ですね」

「安心ね。私は昼まで寝るわ」

「静かに話しますね」


 汗を流し、化粧を落とす。ぬるま湯を浴びて軽く撫でれば垢まで落ちる。上がったら体重計に乗り、水を飲んで、歯を磨く。ドライヤーは翔に任せた。温風で始まり、手首を回して広範囲を少しずつ乾かしていく。徐々に温度を落とし、最後は冷風で。ブラシで整えて、軽く結んで、絹の帽子を被せた。


「これでもういつも通りの卯月さんです。ごゆっくりおやすみくださいね」

「いつもありがとう。おかげで今日もゆっくり眠れるわ」


 全てを聞いているはずでも、努めて普段通りに動いてくれる。ここは帰れる家だ。日常に戻る助けになる。喧騒も潜入も殺害も、すべてが映画でも見ていたように普段通りの寝室が待っている。匂いも寝心地も変わりない。


 しかし、兎田は覚えている。目を閉じると考えが巡る。同じように微睡む所に、兎田が忍び寄り、撃った。だから一人が死んだ。呆気なかった。何も苦労なく、人差し指に力を込めただけだ。


 兎田は苦悩した。自分も同じくらいに呆気なく死ぬ。眠る間とは無防備そのものだ。この瞬間を狙うのが最も合理的だ。


 もし刺客が忍び寄ったら。きっと翔が守ってくれる。そのために自分の価値を提示し続けている。兎田は言い聞かせるようにして眠った。


 次に瞼を開いたら、小さな話し声が聞こえた。


 カーテンの隙間からわずかな光が見える。時刻は一時すぎ、十分な睡眠を取れた。昨日の朝と同じく。誰が死んでも、何が起こっても、普段通りに一日が始まる。


 まずは仕事用のスマホを確認した。模造品でも恋愛らしくする。店外でも連絡を取り合う。鼻の下が伸びた言葉が二件、寝坊の理由は店長からの無茶振り会議が盛り上がったとした。片方からディナーの誘いがあった。集合は午後の六時、もちろん行く。すぐに返信した。


 着替えて居室へ出た。ちょうど翔が来客の男を見送る所だった。


「ラビちゃんか。なんか大仕事をして大変って聞いたぜ。元気でな!」


 無精髭とマスクの引っかかりを気にしつつも軍手つきの大きな手を振る。トラックから食料品や小道具運び込むため定期的に会う顔だ。ここに来るあたり支配人のお気に入りらしいが、彼に目立つ経歴はない。


「いつもお疲れ様です。また元気で来てくださいね」

「たりめえよ。俺はバカだから元気しか取り柄がねえんだ」


 ガハハと笑い、背中を向けた。一人で全員分の賑やかを持つ彼が過ぎ去った家は普段以上に静かに感じた。


「卯月さん、ブランチのリクエストはいかがでしょう」

「じゃあ、フレンチトーストを」

「お任せあれ」


 自信満々に胸を張って台所へ向かう。卵と、砂糖と、厚切りのパンを並べて、それぞれをフライパンで合流させる。身長が少し足りないので踏み台を昇降して、しかし手際のおかげで優雅ささえ見える。翔が同じ場所に立つのは一度だけだ。冷蔵庫で一度、調理台で一度、コンロで一度。大掛かりなパーティと同じだ。家事はどこまででも効率化できる。


 それでも卵液を漬けるには時間がかかるので、その間に顔を洗い、髪をセットして、読むべきニュースに目を通した。


 目立つ話題はまだなし、よく言われる「犯人は現場に戻る」の意味がわかった。自分の行動がどうなったか確認したい。人は知らない状態の不安に耐えるには大きな力を使う。兎田と違って知識と技術が足りず友人もいない輩ではたまらず戻ってしまう。


 株価の動向を見て、SNSで人気の話題を見て、各業界の発表会を見て。ゲストと共有できる話題を仕入れていく。どれを見ても熱心な男の顔が浮かぶ。誰が次に来ても盛り上げられる。


 キッチンタイマーが鳴った。読書を切り上げる。


 兎田は窓の先を眺めた。やっぱり、何も変わらない。大きな行動だと思っていたのは自分だけかもしれない。きっと世の人々はもっと大きなことをしている。仮定が浮かんでは具体例なく過ぎ去る。本当は何かを考えたいのではない。目を背けたいだけだ。自覚しても、もう少し時間がかかる。


「卯月さーん、できましたよー。アツアツですよー」


 小麦粉、卵、砂糖。焼くといい匂いになる食べ物の中でも上位に来る品を集めた料理だ。ひと口サイズに切ったら表面積が増えてさらによく薫る。大きな皿に山盛りにして、下部には結露を防ぐ網を置く。


「ありがとう。いただきます」

「召し上がれ」


 ポテトングで掴み、口に入れる。単品では味も動きも変わり映えがないので味変に小皿を出した。卵はビタミンC以外のあらゆる栄養を持つので、少しのケチャップを加えたら栄養価はばっちりだ。


 向かいでも翔がつまむ。多く用意して、食べ残しにはならない。食べる量を調整できる。表情を見たら、考え事も。


「傷心、みたいですね」

「どこまで知ってるの?」

「大体は」


 あの支配人が雇った子だ。きっと今回の内容まで聞いている。それでこの落ち着き方は、こう見えて経験豊富か、現実感がないか。どちらにも見えるし、どちらでもないようにも見える。


「メイドですから、ちゃんと片付けられるために、アルさんから聞きました」

「待って。アルさんって誰?」


 翔は驚いたように、目をさらに丸くした。


「ご存知ない? あの、竜胆さん」

支配人オーナーの、あだ名?」

「らしいです。由来までは私も知りませんが」

「ふうん。アル、ねえ」

「クルージングのお誘いがあったなら、一緒に聞いているとばかり思っていました」

「そのクルージングって、ショウちゃんも行ったの?」

「ないですが、特別な人を招待するそうですよ」


 何のつもりかまるで見えない。海上では誰の目も耳もないからすべての出来事は秘密のままだ。支配人が言う特別な人で、翔を含まないもの。もしくは順番待ちか。


 フレンチトーストで口を塞ぎ、考えるエネルギーに変換する。何かを見落としているのか? 濃密な一日だった。もしこれが一日目なら? これから濃密な日々を始めるとしたら、思惑はどこにある? 経歴が見えない相手は難関だ。予測に必要な手がかり足がかりを自前で用意するしかない。船舶の免許や所有者のリストはあるが、書類上の情報だけでは特定できないし、抜けている可能性さえある。


 兎田が小難しい顔で次の一枚を掴もうとしたとき、視界に翔の笑顔があった。


「恥ずかし。変な顔してた?」

「魅力的な顔でしたよ。熱心にお仕事してる人って感じで」

「熱心さなら、ショウちゃんもでしょ」

「私は楽だからここにいるだけですよ。おかげで卯月さんの熱心な顔を見られて、今日は嬉しい日です」


 フレンチトーストを頬張る。これ以上話す気はない、と示した。兎田も同じく齧って追及しないと示す。


 兎田の通知が鳴った。


「ごめんよ」と呟いてスマホを置き、左手で読む。ディナーの集合場所への地図と写真が届いた。喜びの反応を送る。


「お仕事の話ですよね。気が休まらなそうですが」

「まあね。けど返事そのものは思い浮かぶ言葉を並べるだけだから、見た目よりは楽よ」

「どんなに疲れていても、ちょっと待ってが通じないでしょう。特殊技能ですよ」


 翔は少しだけ寂しげに言った。店外の一言で表しても、動きは急な呼び出しそのものだ。この内容がプライベートに浸み出しても平気な気質を持つもののみが一流になれる。その意味では兎田も一流だ。同じく翔も。


「四時半ごろに出発するわ。ディナーと、ナイトもきっとある。日付が変わる前には帰るつもり」

「わかりました。くれぐれもお元気で」


 空になった皿を片付ける。兎田はストレッチを始めた。膝を臍の高さまで持ち上げる足踏み、肩関節を大きく回したり伸ばす方向に力をかけたり、体の後ろ側を縮める力をかけたり。


 現代人の生活習慣病は便利なものの使いすぎが原因となる。


 スマホを握って文字を書く。画面を食い入るように見つめる。車のハンドルを握る。荷物を抱えて持ち運ぶ。電車が空いていたら座る。どれも体を内側へ丸める方向の力をかける。筋肉は使うほど強くなる。伸ばす力との釣り合いが崩れて、些細な不調が溜まり、やがて大きくなった頃にようやく気づく。何もしてないのに体調が悪くなった、と。


 何もしなければ屈筋優位になるから、その逆の伸筋を意識的に使う。多すぎと少なすぎを均してバランスを取る。人は健康な体を美しく感じる。肌が柔らかく透き通る、姿勢がしなやかで安定する、そうした強い遺伝子を残せそうに見える。


「もう元気に動けますか?」

「もちろん。というか、動かないでいたらそれこそ動けない理由になるのよ。いつも通り、動き続けるのが結局は楽なの。ショウちゃんもやってるようにね」

「私が?」

「掃除も整頓も、毎日少しずつやってる。見てるわよ。いつもありがとう」

「そう言われると、照れますね。どういたしまして。大事に使ってくれるおかげです」


 翔はとびきりの笑顔で答えて、小さく崩したファイティングポーズを見せた。これから兎田が出かけたあとは、日報を書いたり、テレビ番組を見たりするようで、そのための準備を整えていた。


 あまり気を散らせてもいけない。兎田は着替えて、外へ出た。もちろん翔の見送りつきだ。

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