ラビアン・ノアル

エコエコ河江(かわえ)

1章 遅めの初体験

S01A1 模造品の恋慕

 冬の夜空は好奇心を殺す。


 太陽の助けもなく、体温を守るのは自前の装備とカロリーのみ。寒さとは命の危機だ。ひたすらに筋肉を動かして抗いながら、目線は人の波か、ここを見てくださいと主張するイルミネーションか。暗さに慣れれば眩しさを避け、眩しさに慣れれば暗がりは見えない。最も落ち着いた光は、ひとつ前を歩く男が着こなす緑色の背中だ。新発見はできない。


 弱り目に祟り目と言うが、現代にはそんな言葉が生まれた時代を遥かに上回る技術がある。その両方を覆い隠すための。


 弱り目ではなく熱心さで、祟り目ではなく魅力的な提案だ。熱心に働いた男たちを繁華街へ引き込み、一時の癒しを餌にして、金と秘密を搾り取る。ここは眠らない街・東京。ネオンの光が目を惹くほど、陰はますます深くなる。


 兎田卯月とだ・うづき、職業はナンバーワン・バニーガール。


 外を歩くときはいつでもサングラスと男物のトレンチコートを身につける。冬の帽子はウシャンカ、ロシア人の写真に必ず映る暖かい逸品だ。長身もあり、ただ歩くだけで不埒な輩も道を開ける。


 上客が急に呼ぶので駆けつけた。表向きにはそうなっている。外を歩いた匂いと乾燥を化粧下地にして、目敏い男も騙しきる。準備は十全に、見えない所まで。兎田はこの手でナンバーワンの座を八年に渡り保持している。


 裏のエレベーターで上へ。黒服から動向を聞く。東京駅に着いた連絡が三分前、交通状況に問題はなし。彼なら三〇分程度で来る。


 その時間に、新顔の教育も。突然の要求だが兎田は涼しく答えた。


「この時期で、急に来る、学生さんかしら」


 黒服は画面を見せた。表のエレベーターのカメラが見た二人組、いくらか垢抜けた様子から二十歳は超えたと見える。高級店に来たのは自信か調査不足か、話せばすぐにわかる。


 控え室をノックしてから開けた。新顔の二人は着替え前で、目線をコピー用紙から離して、おずおずと挨拶の言葉を探す。可愛い子たちだ。先輩として、ナンバーワンとして、導いてあげよう。


「今日からの子たちね。はじめまして。私は兎田卯月とだ・うづき、源氏名はラビ。新人ちゃんの指導を担当するわ。よろしくね」


 サングラスとマスクを外してにこりと微笑む。顔の左にある泣きぼくろとお喋りぼくろが動く。


猪瀬刻いのせ・とき、二〇歳の学生です。よろしくおねがいします」

犬山成美いぬやま・なるみです。お世話になります」

「トキちゃんとナルミちゃん、覚えておくわね。ちょうど新しいノートを出すから、さっそく先頭に書いちゃう」


 気丈そうな子と、内気そうな子。一見して主導権が偏りそうで、ナルミちゃんの負担ばかりが膨れれば友人関係は長くない。それでいてチャームを揃えているあたり、仲を繋ぐ三人目がいる。下手な手出しは控えて、真っ当に付き合う。


 相手の特徴を言葉にして、同じく文字でも書き記す。相手に興味を持つと示し、時間と手間をかける価値があると示す。兎田はボールペンと大学ノートをいつでも持ち歩いていて、日付から関係性までこと細かに書き加える。


 まだ白いページを指す。このあたりに相手が話したことを、こっちは自分と一緒に話した内容を。最終的には自分が読み返しやすい形ならどれでもいいが、最低限の手順がある。情報は必ず増えるので、余白を多めに取ること。日付には年と曜日と天気を含めること。見開きページを一人で使うこと。


 小銭を惜しむより大損を恐れよ。ノートの半分を無駄にしても千円に満たないが、チャンスを掴み損ねれば得られたはずのお金は桁が二つも三つも大きい。


「メモは大事だけど、ゲストや外の人に見せちゃあだめよ。それから、スマホで書くのもだめ。万が一にも流出してはいけないからね」


 新顔たちは元気な顔で頷く。話が早くて助かる。着替えも早ければもっと助かる。


 兎田は自分のロッカーからバニースーツを出した。コートを脱ぎ、私服も脱ぎ、素肌を惜しげもなく見せつけて、ブーツとウエストニッパーの黒で覆い直す。薄化粧と髪のセットをしたら耳をつけて完成だ。


 胴と手袋と靴が黒で、耳とカフスと尻尾が白で、髪だけが赤。色を三角形に並べて落ち着いた印象を作り、際立つ赤を目に焼き付ける。


 感染症への対策は、半透明のマスクで吐息の流れ先を下へ誘導する。少なくともキャストからゲストへの感染を防ぐポーズと、不足分は空調設備に任せる。


「ねえ二人とも、見惚れてないで着替えるのよ。せっかく来たのに怖気付いちゃったの? 初心者マークをつけたら大丈夫、ゲストの皆さんもいい所を見せたがって優しく教えてくれるから。上手にできたらよし、イマイチに思えても逆に利用して、初めて優しさを知ったみたいな態度で気持ちよくさせるチャンスにするの。OK?」

「はい!」


 新顔たちのセットアップを手伝い、笑顔で送り出した。ボーン入りのバニースーツには慣れない様子でも、背筋を伸ばした姿勢なら圧迫が緩むと体に覚えさせる。背筋が伸びれば魅力が出る。


 兎田は自分の客へ向かう。


 メインホールは豪奢な曲線で視界を区切り、互いに見えない位置取りでソファとローテーブルを並べる。横を見れば明るい金色と植物、上や下を見れば落ち着いた深緑、はべるは若い女。ここでは誰もが世界一の強い男でいられる。


 時計はない。腕時計さえも。ゲストも慣れた者は時刻がわかるものをすべて鞄にしまっている。外では何時何分か、太陽と月はどこにあるか、すべて忘れてしまえばいい。ここに乗り換え時刻はないし、リモート会議の準備もない。


 夢の国からさらに奥のVIP室で兎田は待つ。


 メインホールの奥、観葉植物の陰から廊下を進み、トイレの奥を曲がり、控え室と並ぶ三つの部屋、今日はその三番に来る。落ち着いた調度品に、キングサイズのベッドや洗面台も備えて、黒服の案内があってのみ入れる特別な部屋だ。非常口を示すマークは使う度に隠して、使い終えれば元通りにする。手数をいくらでもかけられる。そういう男だけが来るから。


 この扉は入るときのみ自動ドアだ。ノックから開閉まで恭しい黒服が担う。


 彼は軽井照雄かるい・てるお、職業は情報ドロボウ、表の顔は広告会社の戦略部。


 扉を閉じるが早いか、高級な鞄をソファに投げ捨て、兎田と抱擁を交わした。吸わないはずのタバコが香る。今回は初めての銘柄だ。大きな背中を優しく叩き、さりげなく下腹部を当てる。


「今日もお疲れさま。一番に会えて嬉しいわ」


 軽井は自慢よりも癒しを求めるタイプだ。なおかつ、スーツや小物を新調する度に自慢を演じる。初対面で重い情報を扱う立場とわかり、何年もかけて策を重ね続けてきた。そうして掴んだ情報が麻薬カルテルとの繋がりだ。


「ラビちゃん、今日、僕はやったよ」

「よしよし、大仕事ができたのね。パーティの準備もあるわよ」

「もしかして、それって」


 ノックの音と、黒服が配膳台を運び入れる。銀色の下に何があるか、軽井がハンドルに手をかけてゆっくりと持ち上げる。ドライアイスの白煙が流れて、ずっと昔に少しだけ言った好物が現れる。


「ショートケーキ、しかも前回より大きな逸品を、てるちゃんのために用意しました」

「やったー!」


 飲み物は別に注文する。今日はブランデーのロックだ。すぐに次の配膳台が届き、兎田が受け取り、台だけを返す。一九九〇年生まれの、軽井と同じ時間を今日までどこかで過ごした年代物だ。


 兎田が注ぎ、軽井が飲む。次に、軽井が注ぎ、兎田が飲む。同じ品の共有が好きだと言うが本当は酔いすぎを防ぐためだ。肝臓に自信があるらしいが、それは兎田も同じだ。互いに酔い潰れを知らず円満に長く来てもらう。


 軽井の手はグラスと尻で塞がるので、ケーキをあーんで食べさせる。


 ウエストニッパーの硬さと尻の柔らかさが作る谷を軽井は好む。もう少し下へ行けば骨で再び硬くなる。人差し指だけが入れる聖域がここにある。


 他愛のない話を続けた。今日はタクシーの運転手が気の利く男だった、今日は新幹線で近くの席のガキンチョが騒いでいた、取引先がコロナで倒れて面倒だった。自分の仕事から離した話題ばかりを出す。


 これは隠しているフリのフリだ。


 人は秘密を暴いて喜ぶ生き物だ。付き合いが長くなった頃に軽井は本当の仕事場を示す情報をこぼした。自分でもこぼしたと気づかないフリをして、断片的な情報から答えを暴かせた。本当に隠したいものは別にある。


 兎田も気づかなかったフリのフリで応える。


 気づいていれば持ち出すべき数字を避けて、逆に避けるべき数字を選ぶ。時には偶然にも数字を合わせる。本当に隠したいものまで暴いているとは決して気取らせない。


 ロックアイスを新しくしても流れは新しくならない。くだらない話を続けて、ズボンがきつくなったら手洗いへ向かう。もちろんVIP室のトイレは一般向けよりも広い。戻った時の軽井は、ズボンで苦しくなった腹を出してきた。


「ラビちゃん、ひと休みしてもいいかな」


 いつもの言葉でベッドへ移った。兎田の奉仕は手と口が主で、素肌を見せたのは強く求めた一度きりだった。今日が二度目になる。膨らんだ臓器を丁寧に持ち上げて、しぼむまで。紛い物の愛を育んだ。


 夜が更けて、軽井の背中を見送り、コップを二つと錠剤が届く。用意するのは普段は黒服だが今日だけは違った。顔の掘りが深い男、竜胆辰臣りんどう・たつおみだ。


支配人オーナー様、次の仕事でしょうか」


 兎田は口を濯ぎ、別のコップの水で錠剤を飲む。竜胆は扉を閉める。秘密の話だ。


「三つ、話をする」


 彼は重低音で、ゆっくりと語った。


「年明けごろ、クルージングに興味はないかな。二人きりの一泊二日、海域は太平洋側だが」

支配人オーナー様の望みとあればどこへでも、喜んでお供します」

「それは助かる。次に今日の新人たち三人についてだ」

「三人? 私が見たのは二人でしたが」

「だろうな。その急に帰った一人の詮索はやめておけ。そういう契約をした」


 話がわかった。詮索は秘密裏に行う。


「そして最後、見送ったばかりの彼だが」


 竜胆は姿勢を正した。久しぶりに残業が始まる。


「夜明けまでに


 あと五時間ほど。兎田は立ち上がり、手足の可動域を確認した。異常なし。すべて普段通りの動きができる。


支配人オーナー様の望みとあれば、どこへでも」


 兎田はシャワーを浴び、潜入用のバニースーツに着替えて、エレベーターへ向かった。

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