そうだ、引っ越ししよう
引っ越し屋さんを待つために、私たちは慌ただしい朝食を済ませてから、車で走る。坂を走ると、そこから海が光って見え、海鳥がツイーッと飛んでいるのが目に入った。
「うわあ、すっごく眺めのいい場所ですねえ!」
助手席で座っている春陽さんは楽しげに言うので、私は頷く。
「本当に物件探しに苦労したの。人混みがなくって、そこそこ買い物に行けて、ネット回線が問題なくって……って、場所」
我ながら引っ越したい街は厳選に厳選を重ねた結果、いい物件を買えたと思う。こっちだって、ポンと一括払いで家を買ったんだから、やっぱりなかったことにしますと家を売り払うことはできない。
春陽さんは楽しそうに頷く。
「わかります。わたしも野菜を買うとき、農家さんを渡り歩いて、そこから直接買えるよう手配しましたから。それに買ったっていう古民家、リノベーション済みと聞きましたけど、ガスは……」
「それ迷ったのよね。ガス台にするか、電気にするか。結局悩んだ末にガス台の家を買ったのよね」
オール電化も考えたけど、なにかあったときに電気とガス、どちらか片方だけだったらまだ生活できると思うけど、どちらか一本に絞って全部使えなくなるより、どちらか片方使えたほうがいいかなと思ってのガス台だった。
だんだん高台が見えてきた。そして我が家も。
「わあ……! 可愛い……!!」
春陽さんはどこまでも楽しげだった。
見えてきた古民家。大正時代からの建物を、元の持ち主がリノベしたもの。飴色の木の板は掃除には気を付けないといけないけれど、それ以外は割と快適だ。
まだ家具一式が届いてないから、広々としている。
そして春陽さんは、スタスタと台所に入っていった。さすがフードコーディネーター。最初に気になるのはここか。
リノベの際に水回りに力を入れたのか、古い家の割に風呂と台所だけは最新仕様だ。最近はどこもかしこも電気台が多いけれど、ここはしっかりガス台。金輪は三つ。私が家事の楽のために食洗機は置くけれど、それを差し引いても広々としているから、料理するのは楽なはず。
春陽さんは調理台の高さを確認したり、流し台の片付け方をチェックしたりしている。
「あの、荷物が届くまでの間に、私の料理用の道具一式を流し台に片付けても大丈夫でしょうか? 美奈穂さんのものがありますか?」
「あー……私、そこまで本格的なもの持ってないから、後から来る段ボールでも食器棚と食器は届いても、ここに入れるものはそこまでないかも」
「どうやってご飯食べてたんです……?」
「一応つくれるときはつくってたけど、なにぶん営業だから」
会う手はずを整えているお客様第一にしていたら、食いっぱぐれるからもっぱら外で食べていたのだ。さすがに体に悪いなあと思ったときは、サラダバーで栄養摂取しているから勘弁して欲しい。
でも意外なことに春陽さんは「そうですかあ」と言いながら、自分の鞄を開くだけだった。入っていたのは、普通に包丁のセットに、ボウルに菜箸と、私だと全然使い方のわからないもの。
「あのう、それは?」
シリコンの器には見えるけれど、これを直火調理は無理だと思う。それに春陽さんは「ああ!」と笑う。
「これシリコンスチーマーです。便利なんですよぉ」
「シリコンスチーマー」
聞いたことがあるような、ないような。春陽さんはうきうきと使い方を教えてくれた。
「これに切った野菜を入れて電子レンジでチンしたら、簡単に蒸し野菜ができるんですよぉ。これ、かなりレパートリー増えますよ?」
「そうなんですか?」
野菜を普通にラップして電子レンジで温めるくらいじゃ駄目なのだかなと、料理をあまりしない人間は思うけれど。私が首を捻っていたら、春陽さんは続ける。
「野菜の中の水分を使って調理してくれますから、楽なんですねえ。油を使わない料理とかも、肉の脂をそのまんま使ってくれますし。だからシューマイとか、野菜と豚肉の重ね蒸しとかも、電子レンジでチンして食べられるんです」
「はあ、なるほど……」
そう聞くと便利そうだけれど、私は多分使わないだろうなあと思った。
そうこうしてる内にチャイムが鳴った。引っ越し屋さんが来てくれたのだ。
****
家中段ボールだらけになってしまったけれど、どうにかこうにか寝るところは確保した。二階を寝床にして、一階をそれぞれの仕事部屋にした。お風呂もトイレも一階だ。
家具に電化製品の設置はしてもらったから、あとは持ってきた荷物を入れるだけなんだけれど……もうお腹が空いて力が出ない。
「疲れた……」
「引っ越しですもんねえ。店屋物取りましょうか」
スマホで検索かけると、この辺りにも来てくれそうな店は何軒かあった。
「お寿司屋さんとどんぶり屋さんでしたら、この近所ですぐ来てくれそうですけど、どうします?」
「寿司! 酢飯! 魚!」
私がガンッとすると、春陽さんは朗らかに「あー……」と笑った。
「この辺り魚も新鮮みたいですもんねえ。じゃあお寿司にしましょうか。お寿司どうしますかー?」
「今日はもう疲れたから、一番高い奴。あとお吸い物」
「はあい」
春陽さんはさっさと電話して頼んでくれた。
高台だし、もっと時間がかかるのかと思いきや、意外と早く届けられた。その届けられた桶の中身を見て、私は目を見張る。
どう見ても身はぷりんぷりんしていて、新鮮だ。私たちはそれぞれ段ボールから小皿を取り出して、そこに醤油を入れると、お寿司を銘々取った。私は鰤で、春陽さんは甘エビだ。それをチョンと付けて食べると、喉の奥から「くぅー……!」と声が漏れ出た。
身が締まっていて、醤油をちょっと付けただけで旨味が増す。そしてシャリの酢飯がしつこくなくておいしい。ものすっごくおいしい。
春陽さんも甘エビをぺろりと食べてから「なんかこの身、ものすごくおいしいですねえ」と目をパチクリとさせていた。
「まさか一日目でこんなおいしい店屋物に会えるなんて。休みの日とか、もっと開拓しましょうか」
「ああ、いいですねえ。わたしも買い物できる場所とか、もっと見ておきたいですし」
「まあ明日は」
段ボールだらけで、未だに片付いていない。まだぐちゃっとした部屋だ。
どう考えたって、ここを片付け終えなかったら生活できない。
「頑張りましょうか」
「頑張りましょう」
互いに顔を見合わせて苦笑いするのだった。
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