にじのかなたに
雨庭未知
第1話 Prologue
——不思議な写真だった。
若い男性二人と、小さな女の子が一人。
見知らぬ三人が写っているだけなのに、その写真は特別な雰囲気を漂わせていて、なぜか私の目を惹きつけて離さなかった。
アメリカ人は、やたらと家族や友達の写真を飾るのが好きなものだが、ダニエラの学生寮の部屋にも、たくさんのフォトスタンドがある。私が目を留めたその写真も、そんなふうにして飾られた一枚だった。
大判のノートを広げたほどの大きさ。シンプルな銀のフレームにおさめられている。
「それはね、私の両親の結婚式の日の写真。まんなかで白い服を着ているのは、五歳になる少し前の私よ」
私の注視に気づいたらしく、ダニエラがそう説明をしてくれた。
二〇〇五年の秋から、私はカリフォルニアの大学に留学していたのだが、ダニエラ・パーカーは、そこに通う学生の一人だった。留学当初、英語に不慣れだった私に親切にしてくれ、私の最初の、そしてほとんど唯一のアメリカ人の親友になってくれたのが彼女なのだ。
ダニエラはアメリカ育ちだが、旧ユーゴスラヴィアからの移民だ。祖国クロアチアの戦火を逃れてアメリカで暮らし始めたのは、一九九二年の二月、彼女が四歳半の頃だという。
内戦で、まず父親を失い、次に母親を亡くし、唯一の係累だった叔父と一緒にアメリカに渡ってきた。その後、アメリカで結婚した叔父に育てられたそうで、彼女が「my parents」と呼ぶのは、その叔父夫婦のことだ。
「my parents’ wedding day」 ――とダニエラは口にしたはずなのに、そこに写っているのは二人の男性だ。
どういう意味だろう?
写真の中央で横向きに立っている女の子は、言われてみれば、確かに小さな頃のダニエラだろう。特徴的な栗色のカーリーヘアと、東欧系のルックス。この少女が、十数年たつと、今のダニエラになるのは頷ける。
そのダニエラと向き合うようにして写っているのは、車椅子に乗った若い白人の男性だ。写真で見ただけでも、かなり印象に残るようなハンサムだった。チョコレートのような茶色の髪で、優しげな面差しをしている。
彼は黒い礼服を着て微笑んでいて、よく見ると、胸に白い薔薇を一輪さしている。どうやら、小さなダニエラの服の胸に、自分と同じように、白い薔薇を留めてやろうとしているところらしい。
その車椅子の後ろに、もう一人、若い男性が写っていた。
ひどく背の高い人だ。彼も礼装姿で、やはり胸に白薔薇を一輪さしていた。片手で車椅子の取っ手を持ち、もう片方の手は、車椅子に乗っている男性の肩に親しげに置かれている。
彼は上体を屈めてダニエラを見つめているから、黒い前髪に隠れて、その顔ははっきりとは写っていない。けれど、唇が笑みの形になっているのはわかる。大切なものを、ようやくその手に抱きしめることができた――そんな人が見せる幸福そうな微笑みだ。
どちらかの男性がダニエラの叔父で、母親にあたる女性はどこか別のところにいる、ということなのだろうか。それとも、私がダニエラの英語をちゃんと聞き取れなかったのだろうか?
「ええと……ごめん、もう一回、説明してもらえる? この写真は、あなたのご両親の結婚式の日のもので、この女の子があなた、なのよね?」
That’s right. ダニエラは簡単にそう答えた。
「……じゃあ、どっちの男性が、あなたのお父さんなの?」
そう問うと、彼女は、唇に幸福な笑みを浮かべた。
そのとき、私は、写真の中の背の高い男性が、どことなくダニエラに似ていることに気づく。黒い髪をした彼もまた、典型的な東欧系の容貌で、微笑を浮かべた口元は、彼女と雰囲気がよく似ている。
「二人とも、私を育ててくれた父親よ」
意味がわからなくて、私はたぶん、きょとんとした顔をしていたと思う。
ダニエラが少し笑った。
「ごめんなさい、あなたとちゃんと親しくなるまで、私の両親について、軽々しく話をしないでおこうと思ってたの。日本は仏教徒が多くて、同性愛者に対する考え方が保守的なカルチャーだと思ったものだから。……あなたが誤解したり、へんなふうに受け止めたりしないってきちんとわかるまではね」
そう言うと、彼女はいったん言葉を切った。
「私を育ててくれたのは、ゲイカップルなの。だから、この写真の二人は、二人とも大切な私の父親よ。私は彼らが大好きだし、心から誇らしく思っている」
ダニエラの口調は、あくまでも静かだった。
そのときの私は、と言えば、驚きのあまり三秒ほどは口をきけなかった。
――養子を迎えて子育てをするゲイカップルがいるのは知っていたけれど、こんな身近にその具体例がいたなんて!
同性愛者に対する偏見を、持ってはいないつもりだった。でも、目の前の友達が、ゲイカップルに育てられた女の子だという事実には、やはり驚いてしまった。
と、同時に、やっぱりアメリカだなあ、という感想も抱いた。ホモセクシュアルのカップルが、家庭を築いて子育てをするのが可能なほど、同性愛者に対する容認度が高い社会というのは、アメリカという国が自由であることのひとつの証左だろう。
「車椅子に乗っているのがエド。彼はアメリカ人で、私の姓のパーカーっていうのは、彼の名字なのね。こっちに立っているのはルカ。彼は私を産んだ母の弟。つまり、実際には叔父なんだけど、私の父母はクロアチアの内戦で死んでしまったから、ルカは私を娘として育ててくれた。そのルカのパートナーがエドだから……だから二人とも、私の大好きな父なの」
ダニエラはごく普通の声で続けた。
一組のペアレンツの元で育った娘が、その事実を告げているにすぎないのだ、と私は心の中でつぶやいた。その両親がゲイであるということに、特異な意味を探し出し、揶揄や悪意のある憶測を抱くほうが間違っているのだ、と。
ダニエラの静かな口調には、そう思わせる凛としたものがあった。
「この写真を最初に目にすると、たいていの人が、うっとりしてそれを見つめちゃうのよねえ。今のあなたみたいに」
ダニエラはくすくす笑った。
「うっとりしちゃうっていうか、なんだか、もっと見つめていたくなるのよ。この写真の中に、何か、特別な物語があって、それを知りたくなるような気がするの」
私が英語でそう言うと、ふーん、とダニエラは感慨深げにうなずいた。
「あなたがそんなふうに思うのは、この写真を撮ったフォトグラファーの力かしらね。ねえ、ロバート・オカザキっていう報道写真家、日本人のあなただったら、知ってるんじゃない?」
「ロバート・オカザキ? ……『A City in the War』を撮った、ロバート・タカ・オカザキのこと?」
「そう、『あの』ロバート・オカザキ。ジャパニーズ・アメリカンの写真家だから、やっぱり、日本でも知られた存在なのね。これは、彼が撮った写真なのよ」
ダニエラは栗色のカーリーヘアをかきあげて笑った。笑うと、明るい茶色の目に光がさして、写真の車椅子の青年のほうとも、なんだか表情が似ているような気がする。
「ダニエラは、この結婚式の日のことを覚えている?」
そう尋ねると、ダニエラはうなずいて笑みを深くした。
――うん。まだ五歳にもなっていない頃のことだから、断片的だけどね。
五月の終わり、よく晴れた日曜日だったこと。プリンセスみたいな白いレースのドレスを着られて、とても嬉しかったこと。
ルカがエドの車椅子を押して、私はルカの隣を歩いて、三人で祭壇まで行ったこと。
薄暗い礼拝堂に入ったら、隣に立っていたルカが急に泣き出したから、すごくびっくりしたのも覚えている。
どうしてルカは泣いているのって私が尋ねたら、泣いていたルカのかわりに、エドが答えてくれた。
今日は、僕たちにとって特別な日だから、ルカは嬉しすぎちゃったんだ。
僕たち三人が家族になる、特別な日だからね――って。
そんなことを覚えているわ。
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