Extra Tracks

日常閑話 風邪っぴき

 はじめは簡単にできると思っていたのだ。


「白だし小さじ一杯と、塩少々……。『少々』……」


 レシピを表示させたスマホを横に置き、つぐみは食卓塩の小瓶をじっと見つめる。

 少々って塩何グラムを指すのだろう。少々ということは、さほど多くはなさそうだけど、小さじ一杯は少々なのか、小さじ半分で少々なのか、あるいはそれ以下なのか。少々の定義がわからない。

 眉間に皺を寄せてしばらく考え込んでから、一度小瓶を置くと、つぐみはスマホの検索窓をひらいた。


『塩 少々 どのくらい』


 と検索ワードを打ち込む。

 すぐに全世界の叡智が「親指と人差し指でつまんだくらいの量」と教えてくれる。

 なるほど、と顎を引いて食卓塩の蓋をあけ、つぐみは再び固まった。中にキャップがはまっているせいで、親指と人差し指で塩がつまめない。左右と下も確認したけど、ほかに蓋らしきものはついていなかった。

 くじけそうになるのをこらえ、ぐいぐいとキャップを外す。結構固い。

 ぐいぐい。ぐいぐい。


「ひゃっ」


 勢いあまってキャップがすっ飛び、塩が飛び出した。

 ちょうど小鍋のうえでやっていたせいで、ひとつまみどころか、手で握れるくらいの量の塩が鍋に投入される。「ああ……」とつぐみは悲壮な声を上げた。

 レシピに「所要時間:十分」と書かれていた「簡単!誰でもできるたまごのお粥」の制作をはじめて、すでに一時間が経過しようとしていた。

 そもそも、なぜつぐみが不得意どころか一度もしたことがないごはんの制作をすることになったのかというと。

 ――ことは昨晩にさかのぼる。

 


「はっくしゅん!」


 夕ごはんを終え、ご近所さんからおすそ分けしてもらった林檎をふたりで食べていると、ようがいきなりくしゃみをした。


「ううー、今ぶるってきた……」

「へいき?」


 こたつにいそいそと入り直している葉をつぐみはうかがう。

 いつもより顔が赤い気がするけど、電気ストーブのせいでそう見えるのか、具合がわるいからなのか、ちょっと判断がつかない。「風邪かも……」と心配するつぐみに、「だいじょうぶだよー」と葉は微笑んだ。


「だって俺、生まれてから一度も風邪ひいたことないもん」

「そ、そうなの?」

「うん」


 そういえば、子どもの頃もそんなことを言っていた気がする。

 つまり、あのあとも十数年間、風邪をひいていないのか。


「すごいね……」


 つぐみは季節の変わり目ごとに体調を崩すのはふつうで、普段も油断すると熱を出したり、おなかを壊したりする。風邪をひいたことがないなんて、うらやましいを通り越して、おなじ人間なのかと疑わしくなってくる。

 確かに葉はいつももりもりごはんを食べているし、朝は起きたそばから元気いっぱいだし、純粋に生きものとしてつよいというかんじがする。もしある日突然無人島に連れていかれたら、つぐみはすぐに適応できなくて死ぬけど、葉は食べられそうな草とか実とかを見つけてきて、なんだかんだ元気に過ごしていそうだ。

 そんな話をしていると、


「でもつぐちゃんのぶんのごはんも俺が作るから、無人島でもだいじょうぶだよ」


 こたつ布団を引き寄せつつ、葉がふにゃりとわらった。

 無人島でも一緒にいてくれるんだ、と不意打ちでつぐみはときめいてしまう。葉はつぐみの胸をふわんとさせる天才だと思う。本人はぜんぜんきづいていないけれど。


「はっくしゅん! くしゅんくしゅんくしゅん!」


 ときめきを噛みしめているそばから、くしゃみの連打がやってきて、つぐみははっと表情を引き締めた。ずぴ、と洟を啜る葉は明らかに顔が赤い気がする。


「葉くん、やっぱり熱測ろう?」

「そんな大げさな……」

「測ります」


 箪笥のうえに置いてある救急箱をひらいて、三秒で測ってくれる体温計を葉の脇に差す。ぴぴっ、とすぐに音が鳴り、体温が表示された。葉の手のなかにあるそれを横からのぞきこむ。


「三十八・五……」

「待って! もっかい! もっかいやろう?」

「何回測っても一緒だから」

「今油断してた。次は気合入れるから」


 やたらと抵抗を見せる葉から体温計を取り上げ、「お薬……」と救急箱をあさる。確かつぐみが普段使っている解熱剤と市販の風邪薬があったはずだ。


「でも、まだ流し台とお風呂の掃除があるし」

「どっちもわたしがやるよ」

「せ、せめてあしたのごはんの仕込みだけでも。豚肉は一晩漬ける必要が――」

「葉くん」


 一段声を低くすると、ひえ、と葉は口を閉じた。こわかったらしい。


「お薬のんで寝ようね」


 

 ところで、つぐみは氷を自分で足したことがなくて、当然製氷皿から氷を取り出した経験もなかった。氷がおさまった製氷皿を手に、十分ほど上にしたり下にしたりして途方に暮れたすえ、スマホの検索窓から全世界の叡智を動画付きで借りた。ひっくり返して裏に水道水をかけ、ぎゅぎゅっとひねると、魔法みたいにぼとぼと落ちる。氷枕ひとつをつくるのも一苦労だ。

 そうしてようやく完成した氷枕を持っていくと、寝ているはずの葉はなぜかベッドにおらず、せっせと洗濯物を干していた。


「……葉くん」

「ひえっ」


 肩を跳ね上げ、「はい寝ます、もうまもなく寝ます、いますぐです!」と葉はそそくさと洗濯物を片付ける。


「どうして君は休むのがそんなにできないんだろう……」

「うう、ごめんなさい。怒らないで」


 つぐみに追い立てられるようにして、やっと葉はベッドにもぐりこんだ。

 枕の代わりに氷枕を置いて、柴犬の抱き枕をどける。


「でも俺がベッド使うと、つぐみさんの眠る場所がなくない?」

「居間でお布団敷いて寝るよ」

「布団なら俺が使うよ?」

「いいから。君は大きいほう使って」


 冷却シートをぺたりと額に貼ると、あきらめたらしく、すこしおとなしくなる。


「あっ、そういえば、お風呂のシャンプーなんだけど」

「葉くん」

「はい……」


 葉が布団に入ったら、電気を消して部屋を出るつもりだったのだけど、放っておくと、また洗濯物を干したり、どこかの掃除をしはじめそうで気が抜けない。よいしょ、とベッドのまえのラグに座ると、つぐみは枕元に腕をのせた。


「ん、なに?」

「君が眠るまで監視してるの」

「えー、子どもじゃないんだから、ちゃんと眠れるよー」

「ぜんぜんちゃんと眠ってないよ」

「ふふっ、怒っててかわいい」


 瞬きをして、つぐみは動揺を気取られないように目を伏せた。


「今、ぼんやりしゃべっているでしょう」

「そんなことないよ」


 べつに何も起きていないのに、ふふふっと葉がわらいだす。

 そういえば、お酒で酔っぱらったときも、葉はやたらと機嫌がよくなっていた。頭が回らなくなると、ハイになる体質なんだろうか。怒りっぽくなったり泣きだしたりするよりいいけど、これもこれで無茶なことをしそうで心配になる。

 息をつき、つぐみは葉のおでこにかかっていた前髪を指でのけた。


「ほら、おしゃべりしてないで早く寝よう?」

「はーい。今日のつぐみさん、なんだか、おかーさんみたい」

「おかっ!?」


 自分とはいちばん縁が遠いと思っていた言葉が飛び出して、つぐみは目をみひらく。自分の家族を思い出しても、母も祖母もいわゆる「おかあさん」らしさには程遠いひとたちだったので、葉にどのあたりでそう思われたか謎だ。どうせぼんやりしゃべっているのだから、適当に思いついたことを言っただけかもしれないけど。


「おかあさんじゃないと思うけど……」

「うん、俺の奥さんだった。ふふっ、おれのおくさん……おれの……」


 ご満悦そうに繰り返しているうちに、すやすやと寝息が立ちはじめる。

 あとには、再び不意打ちで胸を撃ち抜かれたつぐみだけが残された。

 おれのおくさん。

 言葉の威力がつよすぎて、一緒に息の根まで止まってしまうかと思った。

 甘やかなリフレインをすこしのあいだしたあと、我に返ってぎこちなく動きだす。

 常夜灯だけを残して照明を落とし、つぐみは掛け布団を直すついでに葉の頭を撫でた。汗ですこし湿った髪が指に絡むとき、水があふれるみたいに、いとしいという感情がふくらむ。


「わ、わたしの旦那さん……」


 口にしたそばから頬に熱が集まってきたので、つぐみは意味もなく部屋をくるくる回ってから、わたしも風邪をひいたのかもしれない、と頬に手をあてた。



 *…*…*



 全世界の叡智を借りたおかゆは、三時間にわたる格闘のすえ、ついに完成した。


「おかゆ……! できた……!」


 鍋のなかで輝く黄金のおかゆに、達成感のあまりくずおれる。

 とりあえずお碗によそったおかゆにプリンをつけて、葉が眠っているはずの部屋の珠のれんをくぐる。葉はベッドのうえで、きもちよさそうに伸びをしていた。


「あっ、つぐちゃんおはようー」

「おはよう。えと、熱は?」

「さがったー!」


 ぱああっと効果音がつきそうな破顔をして、葉は体温計を差し出してくる。

 確かに平熱に戻っている。顔の赤みも健康的な色に戻っているし、何より元気そうだ。


「はやいね……」


 つぐみだったら三十八度の熱を出したら、三日はベッドから起き上がれなくなる。


「つぐちゃんが氷枕つくってくれたおかげだよ」

「それは氷を入れただけだし……」


 言いながら、もしかしておかゆなどつくる必要がなかったのでは、という事実に思い当たった。夜明けから制作に三時間を費やしたおかゆなのに。いや、でも葉が元気になってくれたこと自体はうれしい。

 たぶんあまりおいしくはない予感もするおかゆを後ろに隠そうとすると、「あれ、お盆?」と葉が先に目に留めてしまった。


「えと、その、おかゆ……」

「つくってくれたの?」

「十分でぱぱっとつくっただけで、たいしたことないから。わたしが食べるし」


 レシピ上、所要時間は十分と書いてあったけれど、実際の制作時間は三時間強だ。

 でも、そんなことは恥ずかしくて言えなかった。葉がつくったほうが絶対においしいだろうし、がっかりされたくない。そもそも、よく考えたらコンビニで湯せんのおかゆやおかずを買ってくるという手もあったのだ。いまさら急にいろんなやりかたが浮かんできて、「コンビニ行ってくるけど、何かいる?」と尋ねる。


「ううん、平気。俺はそっちのおかゆがほしいな」

「でも、コンビニのおかゆのほうがおいしいよ」

「ううん、そっちがいい」


 ふにゃふにゃしているのに、葉は引かないところはぜんぜん引かない。

 しかたなく机に置いたお盆を葉のほうに持っていく。なんの変哲もないたまご粥を にこにこと見つめ、葉は姿勢を正した。


「ねーねー、つぐみさん、あーんってやつがやりたいです!」

「もう元気になったひとにはそんなことしません」

「発熱記念に一回くらいだめなの?」

「そんな記念ないから」

「ふふ、心配した?」

「するよ」


 しませんと口では言いつつ、おかゆをすくったスプーンに息を吹きかける。

 わくわくしている葉にすこしいじわるをしたくなって、ぱくっと自分の口に入れてしまった。ええ……とショックを受けた顔をする葉に微笑み、今度はおかゆをすくったスプーンをまっすぐ葉の口元へと差し出した。

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