五 旦那さんとはじめてのキス (3)

 鹿名田かなだ本家は、つぐみと葉が住む東京の郊外からは車で三時間ほどかかる、千葉の北東部にある。といっても、それは通常時の見込みで、世間はお盆休みまっさかりだ。渋滞に巻き込まれるとまずいので、まだ薄明かりの早朝のうちに家を出ることにした。

 いつもは遅起きのつぐみだが、今日は葉が起こしにいくまえに自分で母屋に来た。

 無地の黒のワンピースに真珠のイヤリングをしているだけのシンプルな装い。でも、つぐみにはこういう服のほうが似合う。育ちのせいか、単に姿勢がいいのか、静かな風格があるのだ。ちなみに葉は仕立て直したつぐみの祖父のスーツに腕を通したが、就活中の美大生ももうすこしマシな気がした。スーツに着られている感がすごい。


「じゃ、行こうか」


 いつものように玄関の引き戸をひらき、つぐみに手を差し出す。

 普段ならためらいもなく手を重ねてくるつぐみは、今日は数秒硬直したあと、葉の人差し指の先をちょっとだけ握ってきた。でもそれも三秒と続かない。

 車に乗ってからも、つぐみは助手席のぎりぎり窓の端まで身体を寄せていて、葉が最大になっていたクーラーを切ろうと手を伸ばすと、「ひゃっ」と声を上げて飛びあがりかけた。


「…………」


 とりあえずクーラーを切って窓をあけつつ、葉はなんともいえない表情で沈黙する。

 ――これ絶対、きのうのせいですよね……。上から見ても横から見ても、つぐみさんおかしいよね……。

 助手席で異様にかしこまっている奥さんにどうつっこんだらよいかわからず、葉はカーナビに目的地を入れ、車のアクセルを踏んだ。

 まずい。この状態で行けるのか、鹿名田本家。

 いや、物理的にはカーナビさんが案内してくれるから、事故さえ起こさなければたどりつけるはずなのだが、今のつぐみと葉で、三日間の法事を切り抜ける自信がない。そもそも、旦那が手を伸ばしただけで、飛びあがる奥さんはいないだろう。契約結婚以前に家庭内暴力を疑われるかもしれない。

 原因はさすがの葉でもわかる。

 きのうのアレだ。かなりの確率で、たぶんアレだ。

 やっぱりつぐみがしゃべっている最中にしたのがまずかったのだろうか。同意の確認とか、せーので、みたいな掛け声もなかったし。キスって掛け声してからするもんだっけ?とは思うけれど。


(でも、如月がまたも出没するから!)


 このあいだからつぐみの会話に出没しすぎだろう、如月。

 きさらぎ……とごにょごにょつぐみが言い出したとき、あ、黙らせたい、と思った。次に如月の名前が出てきたら、むかっとする気がしたのだ。でもよく考えたら、雇い主を黙らせたいなんて、ヒモの分際で身の程をわきまえなさすぎる。つぐみが如月が好きなら、多少イラァってしても、うんうんそうだね、と最後まで如月の話を聞くのが、ヒモの本分ではないだろうか。挙句、この重要な日に雇い主の精神状態を乱しているなど、もはや最底辺の行いである。3000万円、ちゃんと仕事しろ。


「そうは言ってもさ……」


 サービスエリアのベンチで、葉は化粧直しをしているつぐみを待ちつつうなだれる。あと三十分もすれば高速道を下りる。そこから鹿名田本家までは一時間もかからないはずだ。そのあいだにつぐみの機嫌をどう取って、いつもどおりの関係に戻していくのか、途方のない道のりに思える。

 うーん、と難しい顔をしてうなっていると、頬にひやりとしたものをあてられた。


「アイスコーヒーでよかった?」


 缶を差し出した相手はつぐみだった。


「あ。ありがとう」

「ううん」


 つぐみは葉のとなりに座ると、バッグに入れていた飲料水のキャップをひねって、すこしだけ飲んだ。


「つかれた?」

「え?」

「疲れてそうに見えたから」

「そんなことないよ」


 ほんとうにそんなことはない。

 むしろ意外とつぐみが葉を見ていたみたいで、ちょっと申し訳なくなった。仕事しろと思ったのに、さっそく雇い主に気を遣わせてしまった……。

 日の下で見るつぐみは、葉よりずっと張り詰めて、疲れて見えた。化粧直し、ほんとうにしてきたんだろうか。顔色がわるい。

 会話が途切れた葉たちのまえを、つぐみと同世代の女の子たちが笑い声を響かせながら通り過ぎていった。よく日に焼けた膚と短パンからすらりと伸びた健康的な足、カラフルな服装。ペットボトルを握りしめたつぐみは、夏なのに蒼白い顔をして遠くを見ている。彼女たちより十も二十も年を重ねて見えたし、反対に幼子が途方に暮れているようにも見えた。


「久瀬くん。法事のあいだはわたしのそばを離れないでね」


 もらったアイスコーヒーのプルタブを開けていると、つぐみが言った。

 ふいに葉はもう帰ろうかと言いだしたくなってしまった。疲れちゃったしもう帰ろうよ。無理しないでいいよ。たかが法事だ。

 でも、つぐみにとってはたかが法事ではなくて、よくわからないけれど、おじいさんに報告することがあるって言っていたし、ふたりのあいだでは何か譲れない約束が交わされているらしい。つぐみは小難しい世界を生きている。彼女の心のなかにはいくつかの約束ごとがあって、それらはいやだからとか疲れたからとか、そういう理由では反故にできない。反故にしたら、自分ではなくなってしまうような切迫感が彼女にはある。


「久瀬くんってスーツあまり似合わないね」


 つぐみの手が伸びて、葉のよれていた襟を直した。家を出たときはあんなに挙動不審だったのに、もう機嫌は直したらしい。


「着る機会がなかったからさ……。必要なら、次はもうちょっとどうにかします」

「いいよ、君はそのままで」

「つぐみさんはきれいな服も似合うね」

「うん」


 つぐみは当然のことのように賛辞を受け取った。

 襟から指を下ろしつつ「やっぱりわたしひとりで行こうかな……」とつぶやく。


「電車は苦手だから、三日後に最寄り駅まで迎えにきてほしいんだけど――」

「いやだ」


 めずらしくはっきり言ったので、つぐみは驚いた風に瞬きをした。目が合う。べつに不安そうな顔をさせたいわけではないので、葉は表情をゆるめた。


「ここまで来たんだし、一緒にいこ? 俺にも仕事させてよ」


 3000万円、きのうからぜんぜん仕事してないけど、まだクビにしないでほしい。



 鹿名田本家のそばの駐車場に車を止めて、外に出る。


「えーっと」


 右も左も果てしなく続く塀を見て、葉は首を傾げた。


「え、これ端から端までが君の家?」

「わたしではなくて父のだけど。このあたりの土地もぜんぶそう」

「ほんとうにお嬢さまなんだねえ」

「曽祖父が事業に成功しただけだよ」


 鹿名田家は、明治期に造船業で富を築いた財閥だと以前、鮫島が言っていた。一部の単語が難しかったので、葉が呆けていると、船つくってお金持ちになったんですよ、とわかりやすく説明してくれた。

 造船業はすでに廃業しているらしいが、当時広げた事業のひとつである銀行経営は続けていて、さらにこのあたり一帯の土地を所有しているらしい。つぐみが生まれたのは本家だが、それ以外に分家が三つあると聞いた。

 本家には跡継ぎとなる男子がおらず、長女のつぐみが六歳になる頃にはすでに釣り合う家の次男坊が許婚に選ばれていたという。誘拐事件のあといったん白紙に戻され、いまはつぐみの妹が婚約をしているそうだけど、葉からすると、六歳で許婚がいるとか……とぽかんとしてしまう。あいかわらずギャップがすごい。

 立派な屋根付きの門は両側に提灯が掲げられ、「鹿名田青志一周忌」の立て看板が出ていた。なんて読むんだろう。アオ・ココロザシ。


「せいし、だよ」


 つぐみが言った。彼女の声はそう張っていないのに、ふしぎとよく通る。集まりはじめていた弔問客が、はっとした風につぐみを振り返った。


「つぐみさん……」

「ご無沙汰してます、羽田はだのおじさま」


 白いものが交じり始めた初老の男性に挨拶すると、つぐみはその場にいたほかの弔問客にも声をかけ、門をくぐった。油蝉の声がいっそう激しくなる。雲ひとつない青空なのに、門をくぐったとたん、空気が一段重くなった気がした。敷かれた砂利に、樹木の濃い影が落ちている。百日紅さるすべりの赤い花が目を惹いた。


「ねえさま」


 鈴が転がるような、つぐみとよく似た声が頭上から降る。

 二階建ての屋敷の端の窓から、ひらりと白い手が振られた。つぐみとうりふたつの面差しをした少女だ。歳はすこし下かもしれない。黒い着物を着た少女は窓の桟に腕をのせ、「おかえりなさい、ねえさま」と微笑んだ。


「ひばり」


 窓から一度少女のすがたが消え、すこしすると玄関からおなじ少女が現れる。弔事に合わせた落ち着いた装いだが、香りのつよい花のように自然と周囲の視線を引き寄せる。こちらがきづかないと、日陰で咲き終えていそうなつぐみとは正反対の印象の妹だ。


「来たのね。遅いから、またすっぽかす気なのかと思った」

「……今日はおじいさまの一周忌だから」

「ねえさま、あのひとには懐いていたものね」

「おばあさまたちは?」

「朝からお寺にお参りにいってる。もうすぐ帰ってくるんじゃない?」


 ひとしきり会話をしたあと、ひばりはちらりと葉に目を向けた。

 一瞬身構えたものの、あちらのほうからにこりと微笑まれる。悪意のない笑みだ。このひとだれ、と無言で促された気がしたので、「はじめまして」と葉はつぐみとの事前打ち合わせどおり挨拶した。キーワードは必要最小限である。


「つぐみさんの夫の葉です」

「はじめまして、久瀬さん」


 伝えていない旧姓のほうでひばりは葉を呼んだ。


「鹿名田ひばりです。姉がご迷惑おかけしています」


 またにこりと微笑まれる。

 迷惑をかけてますって姉の結婚相手に対してふつうにする挨拶だったろうか。よくわからなかったけれど、「いえ、ぜんぜん」と葉は素直に手を振った。つぐみ相手に迷惑だと思ったことは一度もない。

 ひばりは上品な笑顔のまま、表情を変えなかった。


「ねえさま」


 玄関を目で示し、「連れて入るの?」と囁く。


「うん」

「そう」


 姉妹の会話は暗号めいていて短かった。


粗相そそうがないようにちゃんと見張ってね」

「うん」


 つぐみは軽く顎を引き、歩きだした。

 話は終わったらしい。もしかしなくても、「粗相」の主語は葉だったのだろうか。


(粗相って人間にはあまり使わないような……?)


 つぐみのあとを追い、屋敷の上げ框をあがると、線香の香りが鼻をくすぐった。

 法事――自分の父親のときはどうだったんだろう、と考えて、ちがう、葬式自体をやってなかったと思い出す。あのときはとても式を出せるような状態ではなかったのだ。

 小学五年生の葉は、父親の骨壺が入った箱を抱え、ランドセルに持ちものすべてを詰め込んで、父の弟だというひとの家にやってきた。叔父には奥さんとのあいだにふたりの子どもがいた。それまで葉は会ったことがなかったけれど、ふたつ下の小学三年生の男の子と五つ下の幼稚園生の女の子だ。


 ――それ、中に持って入んないでね。


 玄関で待っていた奥さんは、葉の腕の中の骨箱を見てぴしゃりと言った。

 しかたなく玄関の脇の雨どいのそばに置く。雨で濡れてしまわないよう、できるだけ雨どいから離して、屋根にかかるようにして。


 ――なんであんな子引き取ったのよ……。

 ――しかたないだろう。ほかに引き取れる親族がいなかったんだ。

 ――母方は? いるでしょう、親とか兄弟とか。

 ――見つからなかった。

 ――あなたの探し方がわるいんじゃないの?


 子どもには聞こえないと思ってひそやかに交わされる会話のゆくえに、心臓がどきどきと嫌な音を立てる。ここを追い出されたら、葉にはもう行くところがない。実際はそうでもなかったのだけど、十歳の葉は本気でそう思っていた。

 ランドセルの肩ひもを握りしめて、そろそろと目を上げる。おねがい、おねがい。きらわないで、捨てないで。俺はどうしたらいい?


 ――そういう目でこっち見ないでよ。


 嘆息する義理の叔母からは、染みついた煙草の甘くて苦い香りがした。



「――葉くん?」


 つぐみに軽く顔をのぞきこまれ、瞬きをする。


「あ、ごめん」


 室内に充満する線香の香りのせいか、一瞬意識が過去に飛んでいた。

 顔を上げると、一気に視界がひらける。法事が行われる広間に着いたのだ。

 そしていまさらながら、つぐみがきっちり「久瀬くん」ではなく「葉くん」に呼び方を切り替えていることにきづいた。すごい。練習していたときの舌足らずさが嘘のようだ。


(あれは……?)

(つぐみさんよ。本家の長女の……)

(外の男に引っかかって、家を追い出されたっていう?)

(どうしていまさら)

(遺産をせびりに来たんじゃない?)


 つぐみにきづいた弔問客が無遠慮な視線をちらちらと走らせながら囁き合う。総勢五十人はいるだろうか。どこまでが親族で、どこからが知り合いなのか、葉にはちっともわからない。

 つぐみは軽い会釈をしただけで、端の席に無言で座った。視線で促されたので、となりに葉も正座する。


(じゃああれが外で引っかかったっていう……)

(確かにきれいな顔した子ねえ)

(身体を売ってたらしいわよ。つぐみさんが買ったって)

(それは大奥さまが勘当するわけだわ)


 ――いやいや、売ってないです、売ってないですよ身体。

 葉が美大でしていたのはヌードデッサンのモデルで、そういうことをしてお金をもらうバイトの経験はまだない。くそ、背びれと尾びれめ……。葉はともかく、つぐみをふしだらな娘みたいに言うな。3000万円をポンと出して、福利厚生の充実した職場をくれた神さまのような雇い主なのだ。

 第一、つぐみは家を追い出されたわけじゃない。自らの意思で出たのだ。遺産をせびる必要もない。彼女は画業で身を立てているのだから。

 もやもやしつつ、葉はそっと横に座るつぐみを見やる。

 つぐみはまっすぐ前を見ていた。

 下世話な噂話も葉のもやもやも、ひとつも汚せないくらい彼女は凛然と顔を上げている。その清冽な気迫におののく。そして遅れてきづいた。ここしばらく、あんなに疲れながら彼女が築いていた綻びのない鎧はこのときのためにあったんだと。……もう帰ろうよなんて、いったいどの口で言おうとしていたんだろう俺。


「つぐみさん」


 壮年の男性に付き添われて広間に入ってきたのは、きれいなグレーヘアの老女だった。紋付の薄物を上品に着こなし、一糸の乱れもなく髪を結い上げている。壮年の男性はつぐみに視線を向けると眉根を寄せたが、老女のほうはにこりとわらった。ひばりに似ていたが、もっと凄みがある。


「見ないあいだに大きな犬を飼うようになったのね」


 葉に視線をやって老女が言った。

 い、犬……。


「はい。とても従順で毛並みのいいわたしのお気に入りです」


 臆せずつぐみは微笑み返した。

 一輪の椿のような、艶やかな笑みだ。


「どうかいじめないでやってくださいな。おばあさま」

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