帰還

「旭様。こちらのお部屋にある旭様のお召し物やお道具等を、全て旦那様の居間へお運びになってはいかがでしょう?」


 旭が初めて瑞穂と夜を共にした翌日の夕刻。

 自室で本を読んでいた旭の元を鴉が訪れ、満面の笑みを浮かべながら膝を乗り出してそんな提案をした。


「……は!?」

 旭は思わず本を取り落としそうになりながら鴉の笑顔を見つめた。

「もはや深き契りを交わされたお二人なのですし。敢えて別室でお過ごしになることもございますまい?」

 唐突な話に、旭は顔の前であわあわと手を左右に振り回す。

「いや、深き契りとか……待って、そんないきなり、ど、同棲みたいになるのは早すぎるから!」

「瑞穂様の居間とこのお部屋も、そう離れてはおりませぬ。もはや別室も同室も同じではございませぬか」

「同じじゃないから全然!!」


 鴉の言葉は間違ってはいない。旭は迷いのない鴉の涼やかな眼差しを盗み見る。

 自分の心は、抑え難い力でみるみる形を変え始めている。少し前までは自室でひとりで過ごす時間が一番安心できたのに、今はこの小さな個室の畳にひとり座っているのがどうにも肌寒い。夏真っ盛りなのに。

 そのことに戸惑いながらも、あの澄んだ水の眼差しと深い温もりを求めて、胸の奥は常にざわざわと音を立てる。本能は日に日に大きく蠢き、ブレーキは効きそうにない。


「い、いやほら、人の世界とこっちはいろいろ勝手が違うし、し、しかも相手は神様だし男だし……めちゃくちゃに戸惑うというか……」

 もごもごと呟きつつ俯く旭の様子に、鴉は腕組みをして小さな苦笑いを浮かべた。


 そんな日から一週間が経った、八月初旬の朝。

 瑞穂の居間で朝餉を終えた瑞穂と旭のもとに、鴉が訪れた。普段ならばこの時間は食後の茶を味わいつつ、二人で何気ない会話を楽しむひとときだ。

「旦那様。これより旭様のお道具類をお運びいたしとうございますが、よろしいでしょうか」

「うむ、頼む」

「……?」

 旭が呆気に取られている間に、真新しく美しい調度品や衣類がどんどん運び込まれる。黒く艶やかな文机や衣装箪笥。真っ白い床に、色とりどりの羽織袴等々。

 どうやら鴉は旭のもたつきぶりに痺れを切らし、内々に旭用の品々を新規にあつらえたようだ。元締役の熊にも手伝わせながら、それらを瑞穂の居室内にてきぱきと備え付けてしまった。

「旭様、この度は誠におめでとうございます」

 熊が晴れやかな笑顔で深く頭を下げる。

「熊、繰り返し申すが、このことはまだ極秘であるぞ。くれぐれも内密にな」

「承知致しております」

「……こ、これ、一体どういう……」

「誠に良い品々ではないか」

 度肝を抜かれる旭の向かい側で、瑞穂は満足気に頷いている。無表情を装う口許に、内心の嬉しさがじわりと漏れ出ている。鴉は瑞穂には前もってその計画の話をしていたのだろう。

「お褒めに与り恐悦至極にございます」

「……っ、ちょ、待って、鴉!!」

 旭は満面のドヤ顔を浮かべている鴉を自室にいざなうと、艶のある黒い羽織の袖を恨めしげにぐいぐい引っ張った。

「これ、どういうことだよ!? 俺全然聞いてないし! ちょっと行動早すぎ……!!」

「いいえ。こういうことは機会を逃してはならぬのですよ、旭様」

 鴉の眼差しが、きっと引き締まって旭を見据える。

「そ、そんなこと言ったって……」

「旭様。あの夜から一週間でございますが、その後旦那様と床を共にされましたか?」


「……」

「ここまで、旦那様がどれだけ貴方様を待ち望んでおられたか。初めての夜から一週間も間が空いては、旦那様もこれ以上は我慢のしようがございませぬ」

「わ、わかった! 取り敢えずそれは分かったからっ!!」

 旭は真っ赤になって鴉の言葉を遮り、もじもじと問いかける。

「ってか、鴉。どうしてあの日の朝、その……き、後朝きぬぎぬだってことが分かったんだ? 瑞穂も不思議だって首傾げてたし」

「そのことにございますか」

 鴉は再びあのむふふ、と声の聞こえそうな含み笑いを浮かべた。

「以前に聞いたことがあったのです。『神々は、真に愛する者と交わる際には、世にもかぐわしい花の香を身に纏うのだ』と」


「……」


「あの朝、旦那様の居間の襖を開けた瞬間、噎せ返るような花の香りが部屋から流れ出し、思わず目を見開きました。

 凄まじいほどに甘い香り——これは間違いなく、かねてより聞いていた花の香に違いないと、確信した次第にございます。

 旦那様も、事の最中さなかにご自身が纏った香にはお気づきにならなかったのやもしれませぬな。翌朝まであれほど強い残り香が部屋に満ちるとは、どれほど……いや、何でもございませぬ」


 鴉は口元をぐぐぐ、と必死に平常の形へと押し戻しながらいつも通り礼儀正しく頭を下げた。


 神が真に愛する者と交わる際に纒う、芳しい花の香。


 ——あの花の香りは、夢とか幻覚とか、そういうのじゃなかったんだな。


 身体の芯が溶けるような甘い芳香を思い出しながら、旭はその香りの意味を深く噛み締めた。







 旭の道具類が瑞穂の居間に整えられてから三日後。暑い日差しがようやく傾いた夕刻。

 透かした障子からの風が、微かな涼気とひぐらしの声を運ぶ。


 髪を柔らかに吹かれながら文机で書物を広げていた瑞穂が、暮れていく障子へふと顔を向けた。


「——がいが、城の近くまで来ておる」


 瑞穂の傍で新しい文机に向かい、鴉から出された夏休みの課題の本を読んでいた旭も、瑞穂の呟きに思わず顔を上げた。


「え……

 垓、初穂の星から帰ってきたのか……!」

「どうやらそのようだ」


 瑞穂について欄干へ出る。

 空を仰ぐと、やがて薄紫の雲間から緩やかに波打つ一筋の光が姿を現した。

 夕陽を受けて鱗を煌めかせながら、空中を揺蕩たゆたうような動きで城へと近づいてくる。


「垓」

 深い愛情に満ちた瑞穂の声が、長旅を終えて戻ってきた龍の名を呼ぶ。

 主人の声に応える垓の様子にはいつもの活力はなく、ゆるゆると城の欄干へ近づくとその巨大な身体を静かに擦り寄せた。


「遠き星への遣い、まことにご苦労であった。垓」

 微かに声を震わせて話しかけながら、瑞穂は愛おしむように垓の鼻先を撫でて労う。

 垓は些か消耗したような金の瞳で目の前の瑞穂を優しく見つめ、ぐるる、と小さく返事をした。

 太い喉から響くその穏やかな振動は、無事に任務を遂行したことをはっきりと伝えていた。


 旭も瑞穂の横に立ち、偉大な龍を見つめた。

「——ありがとうございます。俺の先祖の想いを叶えてくれて」

 気づけば、そんな言葉が唇から漏れた。


 ふと、垓が顔を動かし、巨大な瞳で旭の姿を捉えると、ぐいとその大きな鼻を近づけた。

「……垓?」

 いつもと違う様子に驚いていると、垓は旭の胸元の匂いを確かめるようにすんすんと鼻の穴を動かした。やがて、何かに納得したようにグルルル、と長く優しい声を響かせ、太い顎髭を旭に擦り寄せた。


「——どうやら、垓も気づいたようだ。そなたから私と同じ匂いがすることに」


 どことなく照れたように、瑞穂が呟く。

 旭も思わずぶわりと頬が熱くなる。


「クルルル」

 垓の甘えるような鳴き声に、旭は照れ隠しにその巨大な鼻先に抱きつき、ゴツゴツした肌を思い切り撫で回した。


「垓。旅の疲れが癒えたら、私と旭を運んで欲しい場所があるのだが——頼んでも良いか?」

 瑞穂の優しい問いかけに、垓は「勿論」とでも言うように嬉しそうに頭をもたげた。


「旭。

 そなたと、一緒に行きたい場所がある。

 ——私と、来てくれるか」


 瑞穂の穏やかな水の瞳が、真っ直ぐに旭を見つめる。

 返す言葉がうまく見つからないまま、旭は深く頷いた。

 

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