新たな星
「——っ!」
結界を破ると同時に、さよの首の注連縄と手に巻いた縄は焼き切れ、玉串は一瞬にして燃え尽きた。
強力な怨霊に組み伏せられ、瑞穂は自分に覆い被さる白装束の喉元を掴むとギリギリと押し戻した。
「離れよ!」
「雨神の神通力で、吹き飛ばしてみてはいかがです、瑞穂様? 旭の身体がそれでどうなるかは存じませぬが。
それよりも、もっと楽しいことが目の前にございましょう?
だって、この顔も身体も声も、全て旭のものですもの。瑞穂様も、心ゆくまでお楽しみになれば良いのです。
さあ、お出でくださいませ、初穂様。そこにいらっしゃるのでしょう?」
瑞穂の首筋に恍惚と唇を寄せるさよの肩を、瑞穂は激しく掴む。
「そなたの邪念で旭の身体を穢すことは、断じて許さぬ。
もう一度申す。ここにはもう初穂はおらぬ。私の中をいくら探そうと、初穂を呼び出す事はできぬ」
「偽りを言うのはおやめください、瑞穂様。
所詮はあなた様も、私と初穂様の間を阻もうとしているのでしょう?
ここに戻って来れば、初穂様に会えるはずなのです。あのお方は、固くお約束してくださったのですから。何があろうと私たちは一緒だ、と」
「——さよ殿。
その約束を叶えて差し上げられぬこと、心より、お詫び申す。
初穂は、もうこの星にはおらぬ。
彼は、今は別の星の海を司っておる。
新たに生まれた若い星に、命を創ろうとしておるのだ」
「……」
さよの瞳から、乱れ狂うような光が消え——やがて、それは底のない闇の色に変わった。
「——嘘。
嘘! 嘘だ!!
あのお方は、私を忘れたというのか。私は、未だ狂う程に縛り付けられたままだというのに。
ああ、許せぬ。何もかもを許さぬ。——あの女。あの夜に私に毒入りの酒を勧めたあの女神に、復讐せねば気が済まぬ。この手で首を締め上げ、髪を引きちぎり、胴と手足を
瑞穂様、残念ながら旭の身体をお返しするわけにはまいりませぬ。私の望みだけがかように無残に踏みにじられるなど、到底合点がまいりませぬ」
狂ったように瑞穂の首筋を掴み、ギリギリと締め上げながら、怨霊は歪んだ嗤いを浮かべた。
「……っ……」
喉を狭められ、顎を反らして喘ぐ瑞穂の視界に、不思議なものが映った。
「——……
あれは……」
上空に視線を向け、うわ言のように呟いた瑞穂に、さよはふっと乾いた息を漏らす。
「そのように話を逸らそうとしても無駄にございますよ」
「そなたも見よ」
驚きの露わになった瑞穂の表情に、さよも首を巡らせて上空を見上げ——驚愕したように目を見開いた。
祭儀の
そして、それは周囲の光を渦のように吸収しながら、少しずつ大きくなっていく。
「……」
力の抜けたさよの身体を静かに脇へ
瑞穂の差し伸べた手に応えるように、白く光る玉はゆるゆると上空から舞い降りてくる。
掌の上に着地すると、眩しい光は少しずつ弱まり——やがて、光の中から濃紺の美しい
珠の中をじっと見つめた瑞穂は、小さく呟いた。
「——これは、地図だ。
「……地図……?」
さよの茫然とした問いかけに、瑞穂は深く頷いた。
「これを見るが良い」
瑞穂の手の中の珠は、奥を見透かすと、濃紺の空間の中に小さな光の粒や光の集合体を無数に浮かべている。
その中に、一際明るく輝く粒があった。
「これが、初穂の星だ。
初穂は、今もそなたを待っておる。
この珠を
瑞穂から手渡された碧い珠をじっと見つめるさよの瞳が、やがて小さく潤んだ。
その瞳は見る間に大きな粒を作り、溢れ出してさよの頰をいくつも転がり落ちた。
「……初穂様……」
堪えきれず、小さく震え出したさよの肩を、瑞穂はそっと支える。
「その星まで、垓にそなたを送らせよう。日数はかかるが、あの龍ならば叶えられる。
——では、そなたに、新たな身体を与えよう」
瑞穂は、両手の掌を寄せて、何かを包むような形を作る。
すると、その中に、澄んだ水の色をした珠がふわりと出現した。
中には、一匹の
「……瑞穂様、これは……?」
「この海月は、自らの生が尽きかけるとその度に若返り、永く命を繰り返す。不老不死の海月だ。
この身体であれば、初穂の海で末長く寄り添うことができよう」
瑞穂の手の中の小さな海月に、さよは淡く微笑んだ。
「愛らしく、尊い生き物にございますな。
——初穂様の海で生きる海月の生は、どれほど穏やかで幸せにございましょう」
祭壇の前に置かれた水の珠に向かって正座したさよは、美しく背を正して目を閉じた。
瑞穂の低い呪言が、厳粛な空間に満ちていく。
一つ静かな息を吸い込んで、さよの肩が小さく揺れた。
同時に、珠の中の海月が、新たな命を得たかのようにくるりと水中を舞った。
*
ゆるゆると瞼を開けると、白い天井の見慣れた木目が目に入った。
障子に差す朝の光が、柔らかに室内を満たしている。
自室の
「……」
頭が重い。
ふと両手に目を落とすと、幾重にも巻いた縄の跡が赤く残っている。
——そうだった。
昨夜、瑞穂にさよの除念を施してもらったのだ。
胸が堪らなく苦しくなって、瑞穂の喝が響いて……そこからは、ぷつりと記憶が途切れている。
ふと、強い寒さを感じ、旭は思わず自分の寝衣の腕をさすった。
まるで、自分の体温が数度下がりでもしたかのようだ。
——さよの熱が、去ったのだ。
旭は、自分の胸に手を当てる。
「……」
「旭様、お目覚めでいらっしゃいますか」
その時、襖の外から鴉の声が響いた。
「……あ、うん」
「襖をお開けいたします」
すいと襖を開けた鴉は、旭の顔を見るや不安気に顔を曇らせた。
「……少し、お顔の色が優れませぬな。
連日の瑞穂様の御看病が、お身体に障ったのでは……」
「え、えっと……いや、大丈夫。何でもないよ」
昨夜の除念のことは、鴉も知らないようだ。
考えれば、さよの怨念が自分の中に巣食っていたことなど、決して家臣に知られてはいけないことだろう。
あの瞬間に意識を手放した自分を、術の後にここへ運んでくれたのは、瑞穂以外にない。
「昨夜、蝮より報告を受けました。これほどめでたき日はございませぬ! 昨夜は、余りの嬉しさに、涙が止められず困りました。
旭様。昼夜瑞穂様に付き添っての御看病、誠にお疲れ様にございました。
家臣一同、心より御礼申し上げます」
鴉は改めて旭に向けて深々と額を伏せると、喜びに輝く顔を上げて旭を見つめた。
「……うん。良かった。本当に」
「どうぞご無理はなさらず、お疲れが取れるまではゆるりとお過ごしくださいませ。
障子をお開けいたしましょう。今朝も日差しが気持ちようございます」
鴉の開けた障子から、爽やかな朝の空気が流れ込む。
胸がつかえるような感覚を抑え込み、旭は無理にその空気を肺に送った。
「朝餉は、如何いたしましょうか」
「あ、あとで自分で取りにいくから、大丈夫」
「かしこまりました。ご快復祝いの膳、大層豪勢な献立でございますよ!」
朗らかな表情で鴉が出て行き、静かになった部屋で、旭は一つ重い息をつく。
あの後、除念は、どのように行われたのだろう。
さよの念は相当に強力だと、術の支度をしながら瑞穂は険しい表情で言っていた。
袖を捲り上げ、腕の皮膚を確認してみると、あちこちに小さな傷や炎症がある。手鏡を使って寝衣の襟の奥を映せば、首筋に赤い痕が残っている。
何か、厄介な事があったのだろうか?
まだ床を上げたばかりの瑞穂にとって、強い怨念を祓う術は容易ではなかったはずだ。
なのに——瑞穂は、着ていた白装束を寝衣に着替えさせ、恐らく傷に薬を塗ってくれたのだろう。肌から微かに薬草の匂いが漂っている。
旭は、再び胸に強く掌を押し当てた。
——自分の中に巣食い、瑞穂への恋情を煽っていたさよは、もういない。
さよが消えた俺の心は、今、どうなっている?
外の空気が欲しくなり、旭は床を立つ。
障子を大きく開け放ち、眩しい夏の空を仰いだ。
弾けるような明るい陽光が、額に射す。
空が、突き抜けるように青い。
青葉のざわめきが新鮮な風を運ぶ。
そうしてみて、旭は初めて気づいた。
昨日までのどろりと重い熱は、もう体内のどこにもない。
澄んだ風が、胸を通り抜ける。
先程の寒さは遠退き、身体に温もりが戻ってくる。
これまで瑞穂が自分へ向けてくれた眼差しと、例えようもなく深い想いが、押し寄せるように旭の胸に蘇った。
新たな陽射しが、溢れるほどの光を瞼に降らせる。
——あの庭を、また歩きたい。
美しく眩しい、夏の庭を。
池の縁に立ち、心ゆくまで呼吸をしたい。
一緒に、空を見上げたい。
瑞穂と。
心臓が、逸るように走り出す。
新しい感情が、次々に湧き出し、溢れ出す。
瑞穂に、会いたい。
瑞穂に、そのまま届けたい。今の自分を。
旭は、じっとしていられないように部屋を駆け出した。
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