星の守
「旭様、おはようございます。
本日は、星の守様のお城への登城がございます。謁見用の身支度がございますので、お声がけに参りました」
御目見の儀から七日後の朝。
襖の外から響く鴉の爽やかな声で、旭は眠りの浅い瞼を持ち上げた。
「……ん……」
「襖をお開けしてよろしいですか」
「ん。鴉、おはよう」
ここは、梅酒に酔って眠った際に使ったこじんまりとした一室だ。
この部屋が、普段の旭の過ごすプライベートスペースになっている。旭のために広々とした間を用意していた瑞穂は、女房用の簡素な小部屋を気に入った旭に少し困ったような顔を見せたが、この部屋を自室として使うことを快く許してくれた。
「旭様、今朝は薄荷茶をお持ちいたしました。すっきりと目覚めるに最適な茶でございますよ。
昨晩は、よくお眠りになられましたか?」
「いや、全然……」
重たげな眼差しを手の甲でゴシゴシと擦る旭の様子に、鴉は小さく苦笑いを浮かべた。
「星の守様への謁見となれば、神経が尖ってしまわれるのも致し方ございませぬ。お気持ち、お察しいたします。
ですが、瑞穂様がお傍についていらっしゃいますから、あまりご案じなされますな」
「……そうは言ってもさ……」
枕辺に置かれた薄荷茶の器を口に運び、旭は思わず目を見開いた。
「……うわ、これ、すうっとする不思議な感覚……美味しい」
「それはよろしゅうございました。
この後、居間の方へ朝餉をお持ちいたします。本日も瑞穂様は早朝よりお出かけされておりますゆえ、旭様おひとりの朝餉にございます」
「……うん」
梅雨真っ只中のこの時期、瑞穂は相当に忙しいらしい。朝起きると既に公務で外出している旨を鴉から聞かされる毎日だ。広く静かな居間でひとり膳に向き合うのはなかなかに寂しい。
「朝餉の後に、
鴉の歯切れの良い対応といつも変わらぬ細やかな気遣いは、旭の気持ちを明るく支えてくれる。できる従者とはまさにこういう者のことを言うのだろう。
「わかった。
いろいろビクビクしてても仕方ないよな。とりあえず前向きに行かなきゃ」
「その意気にございます」
気持ちを切り替えたような旭の返事に、鴉は快活な笑顔で頷いた。
朝餉の後の身支度は、青鷺によって御目見の儀の日同様に行われた。公の儀式等がない日は、旭の装いは毎朝女房たちが手際よく羽織袴を着付けてくれており、髪は自分で大雑把なポニーテールに結ぶだけであとは化粧も不要である。最初は窮屈だった和装の着心地にも、ここ数日でだいぶ慣れた。しかし、儀式用の絢爛たる装束や化粧となると、やはり気後れ感が半端ない。
星の守様との謁見とあらば思い切り
鏡の前でまるで別人に変身するかのような美しい化粧を施されるうちに、何か自分自身が少し高貴な存在になったような錯覚が起こってくるのは不思議だ。一種の洗脳のような効果があるのだろうか。
「ほんにお美しゅうございます、旭様」
自身の仕事を褒め称えるかのようにうっとりと旭を見つめる蒼鷺の賛辞に、旭はドギマギと俯く以外にない。
蒼鷺の横で、鴉も満足げに深く頷いた。
「この麗しさ、まさに神の世に招かれたお方にふさわしゅうございます。
では、これより謁見の儀の式次第についてご説明いたします。しっかりと留めてくださいませ」
「わかった」
押し寄せる緊張を噛み締めないためにも、少しくらい忙しい方がいい。目まぐるしく進んでいくスケジュールを旭は黙々とこなした。
*
準備の整った旭の待つ居間に、足音が近づく。
廊下の外で、会話の声がする。
「ご公務お疲れ様にございます、瑞穂様」
「何も変わったことはないか、鴉」
「はい、何事もござりませぬ」
鴉と話す瑞穂のその声に、勝手に鼓動が早まる。
さらりと、目の前の襖が開いた。
「ご公務お疲れ様にございます、旦那様」
挨拶と共に深く伏せた額を戻して瑞穂を見上げる旭に、瑞穂は真っ直ぐ眼差しを落とした。
視線が、がちりと音を立てるかのように一つに繋がる。
「——……
ここしばらく、梅雨時の公務に忙殺されてな。
寂しい思いをさせて済まぬ、旭」
そう呟きながら自分を見つめる瑞穂の真剣な表情に、旭の心拍がおかしいほどに跳ね上がる。
旭は自身の心臓を押さえつけながら必死に平常へ押し戻す。
七日前のあの夕餉の際に発動したおかしな動揺は、あれ以来ひたと心身にまといつき、絶え間なく旭を戸惑わせていた。
鴉の口ぶりでは、最近の瑞穂は連日公務で早朝から夜遅くまで城を空けている様子だ。この七日間食事を共にするどころか、一秒も顔を合わせていない。そのせいで、あの夕餉の時の変に甘ったるい記憶に加え、何か奇妙な感情さえ積み重なった。
——彼が城にいないことの寂しさ。
温かい微笑や眼差しが傍にない肌寒さ。
そんな感情にはっと気づくたび、旭は青ざめつつその思いを全力で追い払う。
ここ数日、そんなことを繰り返していたのだ。
「——寂しいとか別にないから。歴史の講義と武闘の稽古も始まったし」
本心とは正反対の言葉が、素っ気なく口をついて出る。
輝く胴をうねらせながら、遣い龍の
「さあ」
先に垓の額へ飛び乗った瑞穂が、すいと旭に手を差し伸べる。
ドギマギと差し出した旭の手を握るその長くしなやかな指が、ますます心臓を意味不明に走らせる。
このあり得ない感覚を、一体どう振り払えばいいのか。
垓の角の間へ到着すると同時に、旭は瑞穂の手から逃げるようにぱっと自分の手を引っ込めた。
垓の額で、高速移動の白い光に包まれながら空を飛び、約一刻(2時間)ほど経っただろうか。
目的地であるその城は、屋根も壁も重々しい
垓が城に近づくに連れ濃度を増すような空気の圧迫感に、旭は小さな息苦しささえ覚える。
「ここは、この世の精たちも容易には近づかぬ場所だ。そなたにとっても少し苦しいかも知れぬが、堪えてくれ」
城の前の広大な白砂利の上に着地した垓の鼻先を降り、旭に手を貸しながら、瑞穂はいつになく硬い表情で呟く。
「——わかった」
そう頷きつつも、いつも穏やかな瑞穂の纏うこの鋭く尖った気配は、旭の緊張を一層ざわざわと騒がせた。
定刻通りの、
従者の案内で通された広々と豪奢な謁見の間にて、瑞穂と旭は城の主人の到着を待つ。
「星の守様の
家臣の知らせに合わせて深く額を伏せた瑞穂と旭の耳に、堂々たる足音が近づき、やがて圧倒されるほどの濃厚な気配が広間を満たした。
前方の一段高い座敷から、ビリビリと空気を振動させるような低い声が響いた。
「面をあげよ」
重い空気を押し上げるように頭を上げた旭の正面には、長身かつ逞しい体躯の壮年の男が立っていた。
深い紺の生地に大小の星々を散りばめたような壮大な柄の煌めく、恐ろしいほどに見事な羽織。それと強烈な対比を成す黄金色の袴。
濃く茂った眉毛と、豊かに蓄えられた顎髭。黒髪を後ろに束ね、広い額の下の鼻梁は聳えるような高さだ。彫りの深い眼窩の奥に、強烈な光を放つ目がこちらを見据えている。
光を放ちながらも、その瞳は全てを吸い込もうかという底なしの紫色を湛えていた。
「——本日は、謁見の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます」
何故か無表情に乾いた瑞穂の挨拶が、静かに広間に響く。
旭は、体の奥から湧き出す小さな震えを抑えられないまま、途方もなく重い気を発する巨大な神を見つめた。
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