変身

蒼鷺あおさぎ、参っておるか」

 鴉が襖の外へ声をかけた。

「はい、鴉様」 

 鴉が襖を開けると、そこには群青の簡素な小袖姿の女が廊下の床に手をつき、深く頭を下げていた。

「着付けと化粧の技に長け、かつ信頼の置ける女房にございます」

「蒼鷺と申します。この度旭様のお召し替えの役に任ぜられ、恐悦至極に存じます。何卒よろしくお願い申し上げます」

 顔を上げた女は、四十代くらいだろうか。長い黒髪を白い布で後ろにひとつにまとめ、小柄でほっそりとした身体に群青の小袖がきりりとよく似合う。すっと引き上がった目元や薄い唇はどこか鋭さをも感じさせる。

 その引き締まった気配にドギマギしつつ、旭はがばっと頭を下げて挨拶を返した。

「あ、雨宮旭と申します。よろしくお願いします」

「まあ、これは……なんとも愛らしい姫君であらせられますな。お肌も髪も、つやつやと瑞々しいこと」

 小さく首を傾げて微笑む蒼鷺に、旭はますますあわあわと動揺する。何やら蛇に睨まれた蛙の心境だ。

「蒼鷺。旭様は人の世では男子としてお過ごしであった。こちらの世でも、姫君と見なされることはお気が進まぬようだ。本日の旭様へのお化粧には、どちらにも傾かぬ美しさを醸してほしい」

「かしこまりました」

 蒼鷺は、すっと美しい身のこなしで再び頭を下げた。

「では、こちらへ」

 贅沢な設えの几帳で隔てた空間へ誘われ、旭の感覚が奇妙にムズムズする。

「あの、蒼鷺さん、こんなに厳重に隠さなくても平気じゃないですかね? ってかほら俺男だし、むしろ隠す方がなんか恥ずかしいっていうか……別にパンイチになったところで何ということもないし」

「何をおっしゃるのですか」

 その途端蒼鷺に鋭く睨まれ、旭は再び縮み上がった。

「旭様、貴方様は瑞穂様のお隣に座られるお方にございます。素顔さえ容易に他のものに晒してはならぬというのに、ましてやお着替えのご様子など……よろしいですか、決して不用意に素肌などを他人に晒してはなりませぬぞ!」

「……」

「そう厳しく申すな」

 几帳の外から、鴉が蒼鷺を嗜める。

「それらの立ち居振る舞いについても、今後旭様にしっかり学んでいただくつもりだから安心せよ、蒼鷺。

 旭様、どうぞお許しください。貴方様や瑞穂様を大切に思うからこその忠言でございますゆえ」

「——どうかお許しくださいませ、旭様。私にも、旭様と同じ年頃の息子がおりまして、案じる思いがつい……」

 蒼鷺は青ざめつつ深く手をついて謝罪する。


「……そっか。あなたにも、息子さんがいらっしゃるんですね。

 そうやって心配してもらえる息子さんは、幸せですね」


 旭の静かな言葉に、蒼鷺は驚いたように顔を上げた。そして、これまでとは違う暖かな笑みを口元に浮かべた。



 蒼鷺の着付けの手際は見事なものだった。

 神の世へ来る際に一応正装っぽく着てきた高校のジャケットやワイシャツを脱ぐ旭を手伝い、その一つ一つを手に取るたび、蒼鷺はそれらの服を興味深そうに眺めた。しかし、すぐに自らの仕事を思い出したように旭に微笑みかけた。

「こちらのお召し物は、必要なお手入れをした後に旭様の衣装箪笥にしまわせていただきます。では、早速本日の装束をお召しいただきます」

 そう告げるや、蒼鷺は用意されていた薄く白い衣をさらりと手に取り、ここからが腕の見せ所とばかりに旭の身体に滑らかに着せていく。着せられる方に煩わしさを一切感じさせない、スムーズな手捌きだ。

 濃紺の牡丹の柄の羽織を纏わせ、墨色の袴の帯紐をシュッと小気味よく締める。何か心も清々しく引き締まる気がして、旭の背筋は自然に伸びた。


「次はこちらにございます」

 装束一揃えの着付けが済むと、続けて蒼鷺は明るい障子の方を向いた鏡台の前へ旭を促す。

 鏡台の鏡にかかった薄布を蒼鷺がめくりあげた瞬間、旭は鏡の中の自分にガッチリと固まった。

 平凡なマッシュカットだったはずの髪が、なぜか肩をすっぽりと覆うくらいの長さにまで伸びているのだ。

「え、ちょ……か、髪が!? い、いつの間に!? どうなってんだこれ!!?」

 わたわたと騒ぐ旭に、蒼鷺は全く表情を変えず答える。

「お召替えの間に、御髪おぐしを結うために必要な長さにさせていただきました。何ともたおやかにお美しい御髪でございますこと」

「いや、たおやかとかじゃなくって……! あ、蒼鷺さんの魔法かなんかですかこれ!?」

「蒼鷺とお呼びください、旭様。こちらの世では、着付けや化粧の際は髪の調整も必要に応じて当然行うことでございますゆえ」

 あり得ない事態に旭は動揺するが、不思議な力を自由に操る瑞穂の姿を思い出せば、髪を伸ばすくらいこちらの世の人々には簡単な技のだろう。そしてそれが礼儀なのだと言われればもう仕方がない。

「これからお顔へお化粧を施し、御髪も貴人に相応しい形に結わせていただきます。もうしばらくご辛抱ください」

 するするとそう告げる蒼鷺に、旭は項垂れつつ呟く。

「……どう考えても似合う気がしないけど……」

「そのようなご心配は不要にございます。間もなく旭様にもそれがご納得いただけるかと」

 旭の髪を櫛で丁寧に整えながら、蒼鷺は鏡越しに自信に満ちた微笑を受かべた。

 


「——いかがでございましょう、旭様」

「……」

 鏡の中の自分自身に、旭は暫し絶句する。

 仕上がった化粧は、姫とは呼び難いものだった。かつ、男らしい印象とも程遠い。まさに、どちらにも傾かぬ粧いだ。

 凛々しく涼やかに整えられた眉と、鋭く切れ上がるように墨を引いた目元。青白い白粉を施した鼻筋。唇には淡い桃色に微かな青味を混ぜ込んだような艶のある紅が引かれている。

 冷ややかな印象でさえあるそれらとは対照的に、目元には匂い立つほどにふくよかな桜色の頬紅が施されている。

 長い髪は後頭部の中央ほどの位置で一つに結ばれ、垂れた髪の束は紅色の組紐を細やかに巻き付けて見事に飾り付けられている。顔の両脇にひと束ずつ残した髪が、さらさらと額や頬に纏わる。

 凛と引き締まった、それでいてこの上なく艶やかな気配は、まさに浮世離れした仕上がりだ。

「——誰だ、これ」

 思わずそんな言葉を漏らす旭に、蒼鷺はクスッと小さく笑う。

「このお化粧が相応しいお顔立ちでございますゆえ、当然の仕事にございます」

「……す、すみません、ちょっとこの変わりっぷりに驚いちゃって……」

「どうぞ敬語はおやめください、旭様。

 お褒めに与り、恐悦至極に存じます」

 静かにそう答えると、蒼鷺は微かに口元を引き上げ、畳に手をついて深く頭を下げた。







 几帳の奥から姿を現した旭を見て、鴉は思わず目を見張った。

「……ほう、これは……」

「この上なくお美しい若様にございます」

「ってか、鴉までそんなマジに見つめないで……」

 緊張していた面持ちを崩し、旭がモジモジと恥ずかしげに俯く。

「旭様、まさに貴人に相応しいお姿にございます。これほどにこちらの世の装束がお似合いになるとは、さすが瑞穂様が選ばれたお方にございますな」

「え……瑞穂が選んだ? 初穂の遺言の条件に俺がはまったから選ばれたんだろ?」

 旭の言葉に、鴉は一瞬意外そうな顔をしたが、何か言いたいことを飲み込んだようにすっと元の表情を取り戻した。そして声を改め、言葉を続けた。

「蒼鷺、ご苦労であった。下がって良いぞ。

 旭様、この後間も無く昼餉の時刻にございます。本日は瑞穂様も城内で公務を行っておりますゆえ、昼餉は瑞穂様と一緒にお召し上がり頂くことになります」

「わかった」

「日々のお食事を瑞穂様とご一緒にお召し上がりいただくことが、旭様の大切なお仕事のひとつになります。

 今はちょうど梅雨時になりますし、瑞穂様も公務が大変お忙しくなる時期にございますから、これからしばらくは城を空けられる日が多くなります。お二人で過ごせる貴重な昼餉にございますよ。

 瑞穂様とのお食事の時間は、お人払いをいたしますゆえ、どうぞお心置きなく……」

「……

 心置きなく、なんだ?」

「いえ」

 きょとんと首を傾げる旭に、鴉は少しだけ困ったような苦笑いを浮かべた。


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