雨男と雨の神

aoiaoi

雨男

 静かな風が渡る、白く折り重なる雲の上。

 薄い靄をかき分けた奥に、幻かのように重さを感じさせず聳え立つ美しい城廓がある。

 その艶やかな朱塗りの欄干に、じっと佇む者がいた。

 彼は、銀の長い髪を柔らかく風に靡かせながら、雲の遥か下を見つめていた。


 すう、と深い息をひとつつき、彼は白銀の大きな袂を翻すと、天に向けてその白い指を高く差し上げた。

 すると、彼の指先を軸にするかのように、重い灰色のじっとりと湿った雲が青い天空にみるみる渦を巻き始めた。







柚季ゆずき、ほんとごめん! 先週の土曜日、散々怖がらせちゃって……」


 とある高校の、ある月曜の朝イチ。

 教室に駆け込むなり、雨宮あまみや あさひは一人の美少女の正面に立って神を拝むように両手を合わせた。


「ううん、もういいの、旭」

「え……」

 穏やかな声で返された言葉に、旭は恐る恐る顔を上げた。

 そこには、喜怒哀楽を解脱したかのような少女の美しい微笑があった。


「はっきり言わせてもらうね。

 私、もうこれ以上は無理」

「……無理、って……ど、どういう意味、柚季?」

「だって、そうでしょ!?」

 柚季は打って変わった鬼の形相で目の前の机をバンと叩いた。

「付き合い出して2ヶ月、計6回のデートは100%の確率で雷雨。それも凄まじい雷鳴と豪雨に追い回されて、毎度びしょびしょ。

 旭、あんたさすがに雨男過ぎる。これ以上私にあんな非常事態を耐えろっていうの!?」


 柚季の剣幕に、旭はタジタジとなる。それでも、最愛の彼女を引き留めるべく必死に反論を試みた。

「だ、だからマジで悪かったって! デートの度に悪天候なのは俺のせい……なのかどうかはわからないがとにかく謝る。

 だけど、俺も精一杯柚季を雷雨から守ろうと……」

「旭の優しさは、身に沁みて感じてる。いつもぎゅうっと私を抱き寄せて、雷や稲妻から必死に私を守ってくれたよね。その度にきゅんとしたし、本当に嬉しかった。

 けど、デートの度に吊り橋効果体験する気はこれっぽっちもないから」

「ちょ、ちょっと待って……」

「ごめん、旭。何度言われてもムリ。私だって辛い。身を切られるほど。

 でも、あなたとのデートで命を落とす覚悟は私にはできない。だから、今日で終わりにしたいの……わかってくれるよね?」


「…………」

 そう言い切る彼女に頷く以外の選択肢は、もうなかった。

 このやりとりを、クラスメイトたちがチラチラと盗み見ている。

 旭の高校生活に新たな恋が訪れる可能性は、これで限りなく低くなったはずだ。


 俺は、史上最悪の雨男だ——。

 旭は、これまでにもう何度繰り返したかわからないその叫びを脳内に撒き散らした。

 

 雨宮 旭。もう苗字からして何やら不吉である。

 だが、子供の頃は、雨男レベルはそこまで酷くはなかった。むしろ天気には恵まれる方だった。小学校時代の遠足や運動会、修学旅行などのビッグイベントの日はほぼ100%雲ひとつない好天に恵まれた。

 その雲行きが変わり始めたのは、中学くらいからだろうか。

 ちょうど思春期の到来と時期を合わせたかのように、それは始まった。

 中3の梅雨明け、意を決して告白した女の子にOKをもらい、恋が実った幸せの絶頂にいた夏休み。プール、海、夏祭り、花火大会。心待ちにした彼女とのデートの日は、なぜか決まって大雨に見舞われた。

 彼女との待ち合わせの時間近くになると空が俄かにかき曇り、激しい雷が鳴り出し、稲妻がこれでもかと雲間を走る。それでも予定通り彼女と会った日には目と鼻の先で雷が落ち、人々の悲鳴が響き渡る。二人の甘い時間を楽しむどころではなくなるのだ。

「旭くんと一緒にいると、冗談抜きで命の危険感じるから……ごめんね」

 9月1日、2学期の始業式に彼女が悲しそうに言ったその一言は、今も旭の胸でズキズキと疼く。


 そして、高2の6月。天気予報で梅雨入り宣言があったまさに今日、二度目の恋が前回と全く同様の結末を迎えたのだ。

 彼女——水野柚季は、高1の頃から丸1年間想いを募らせた高嶺の花の女子だった。この春、一か八かの決死の覚悟で臨んだ告白が叶い、旭は天にも昇る喜びを噛み締めた。しかしその幸せも、結局2ヶ月ともたなかった。

「いや〜しかし残念だったな旭ー。俺ら心から二人を応援してたのに」

 休み時間になるなり、クラスの男子たちが一斉に旭をニマニマと取り巻いた。

「は? 嘘つけ。お前ら全員柚季の彼氏の後釜狙ってんの知ってんだからな」

 旭は悔しげな眼差しでぐるりと周囲の男どもを睨み据える。

「まあまあ。恋なんて儚いもんさ。さっくり次行けばいいんだって」

「それにしてもクラスの連中の面前であれだけきっぱり振られちゃお前の心の傷も大きかろう……何か奢るか? って自販の100円ジュース一択だけどな」

「心配するな旭、柚季ちゃんの幸せは俺が叶えるから」

「こうなったら仕方ねーから、旭俺と付き合うか? 俺お前なら全然イケると思うんだよなー」 

「るせー!!! お前らの言葉は結局一言も慰めになってねーんだよ!! とっとと自分の席戻れ!!」

 予鈴の音にヘラヘラと散っていく友達の背中を恨めしい思いで見つめつつ、旭は唇を噛み締める。

 ——ってか、お前らの思うほど気楽な話じゃねえだろ、これ……?

 もしも、この先ずっとこうだったら……?

 自分の背中に、何かひんやりとしたものを押し付けられた感覚が走る。


「旭くんって結構かっこいいし優しいしモテるのに、天気運は壊滅的にツイてないんだね……もったいないなー。ああいう男子のこと残念イケメンっていうのかな」

 その日の昼休み、廊下の女子数人がそんなことを話題にしているのもしっかり耳に入ってしまった。それでも、そんな噂話に腹が立つ余裕などもはやなく、むしろ自分のこの先の残念な人生をずばりと言い当てられてしまったような気さえする。


 授業など手につくはずもなく下校時刻を迎え、茫然と帰路につくと、タイミングを見計らったかのように灰色の雲から雨がポツポツと降り出した。カバンを漁るが、どうやら今日は折りたたみ傘も持ってきていない。

 やがて、大粒の雨が髪や制服のジャケットへ冷たく染み込み始めた。まるで惨めな自分を嘲笑うかのようだ。


 俺は、史上最悪の雨男だ。


 びしょ濡れでたどり着いた自室の机にカバンをどさりと放る。

 途端に、堪えきれなくなった涙がボロボロっと頬をこぼれ落ちた。


 手の甲で頬をぐいと拭った旭の中で、とうとう何かがぶつりと音を立てて切れた。

 ガバッと顔を上げた旭は乱暴に床を蹴って立ち上がり、バンとサッシを開け放ってベランダに仁王立ちになった。濡れるのも構わず、旭は冷たい雨が降りしきる曇天へ声の限りに怒鳴った。


「おいっ、そこにいんだろ!? 出てこい悪魔っ!!

 俺に何か恨みでもあんのか!? 何を恨んでるか知らねーが雲に隠れてこそこそ人の恋路邪魔するとか気分最悪の嫌がらせしてんじゃねーよっ!! 言いたいことがあんならまっすぐ言いにきやがれ!!」


 これまで堪えに堪えてきた怒りを吐き切った途端、空に不思議な変化が起こった。

 強い雨がぴたりと止み、重く垂れ込めていた雲が見る間に切れ始めた。

 眩い光が、雲間から差し込む。

 同時に、上空から舞い降りた一陣の強烈な風が旭の全身にブワッと吹き付けた。


「うあっ……」

 その激しさに、旭は思わず屈み込んだ。


「——やっと、私を呼んでくれたのだな」


 両腕で頭を庇って蹲み込んだ頭上から、えも言われぬ甘く艶やかな低音が降ってきた。


 は?


 何が起こったのか、さっぱり理解できない。それでも、目を瞑ったままでは何も始まらない。旭はぎゅっと閉じていた瞼を開け、恐る恐る顔を上げた。 


 ——そこには、長い銀髪を靡かせたすらりと長身の男が旭を見下ろしていた。


 眩しいほどに輝く白銀の羽織に、金銀黒を織り込んだ重厚な錦の袴。

 凛々しい鈍色にびいろの眉に、鋭い切れ長の瞼。銀のこまやかな睫毛に縁取られた、澄んだ水の色の瞳。

 真っ直ぐに整った鼻筋と、染井吉野の花びらのような色と形の唇。

 後ろに緩く一つに束ねた銀髪が、額や頬にさらさらと纏わる。それを指で掻き上げる何気ない仕草さえ、凄まじいほどの艶やかさだ。


「——待ち兼ねたぞ、旭」


 その鋭い眼差しを甘く細め、桜の唇を柔らかに引き上げて、男が旭へ向けて大きく両腕を広げた。

 それと同時に、旭はずざざーーーっと後方へ引けるだけ引いた。


「ちょっ、待って!! 何この展開!?」

「何をそんなに青ざめておる。

 十七年間待ちに待って、とうとうこうしてそなたと会えたというのに」

「いやいや意味わかんないってマジで!! あんた一体だれだよ、どこから入った!? なんで俺の名前を知ってるんだ? ってかなんで初対面から呼び捨て??」

「ほう。照れておるのか」

「照れてない!! ってかなぜ照れる!? ほんと何がなんだかわかんないんだってば!!」


 そんな旭の必死の抗議に、綻んでいた男の表情がすっと陰った。


「——旭。そなた、本当に何も聞かされていないのか」

「は? 聞くって、何を!? その言い方怖すぎるんだけど!?」


「……なるほど、そうか……」

 男は、視線を宙にすいと浮かべて何か思案するような顔でひとりごちた。

 しかしそんな様子を一瞬で切り替え、彼は改めて眩いばかりの笑みを旭へ向けた。


「ならば致し方ない。改めて自己紹介しよう。

 私は、須佐すさ 瑞穂みずほと申すものだ」

「……俺は、雨宮旭……ってかもうそんなのとっくに知ってるとか言いそうだなあんた」

「うむ。そなたのことは生まれたての赤ん坊の頃から知っておる」

「——……へ? う、嘘だろ? なんで……」

「ふふ、いちいち照れるな」

「だから照れてないって!!」

 なんとも妖艶な男の奇妙な調子に狂わされ、旭も気づけば何やら顔を熱くして反撃せざるを得ない。

 ふうっと一つ息をついて混乱する思考を鎮めながら、旭は男に問うた。 

「——で、須佐……さん、でしたっけ?

 俺、何か聞かなきゃならないことがあるのか?

『本当に何も聞かされていないのか』って、さっき言ってただろ……それ、何か大事なことなのか? よくわかんないけど、一体何の話なのか気になりすぎて落ちつかねえし」


 旭のそんな問いかけに、須佐と名乗る男は少し視線を伏せるようにして呟いた。

「何も知らないそなたに、私から話すことになるとはな……

 一から話すとなると、相当な量になる。このベランダで立ち話もなんだし、そなたの部屋で改めて詳しい話をしたいと思うが?」


 旭は、思わず須佐をぐっと見据えた。


「なあ、あんた、ほんと怪しいヤツじゃないのか? その見かけ、とりあえず尋常じゃないんだけど?……部屋に入った途端化け物に変身するとか日本刀で斬りつけてくるとか……むっ、無理やり押し倒すとか」

「はははっ!! 旭は面白いおのこよの。ますます気に入った。

 おかしな事などせぬから安心せよ。——まあ、少しずつでも、そなたが私に心を開いてくれたら嬉しいがな」


「……」


 ほんと、何なんだ、こいつ……。

 仕方ないだろ、この展開おかしすぎるし。そう簡単に警戒心を解除できるはずがない。

 パニック気味な旭の脳内で、さまざまな感情が騒ぎ立てる。

 けど……

 この男の見かけも着てるものも、とりあえず常軌を逸しているわけだが——少なくともふざけたコスプレじゃないことくらいはわかる。

 彼の醸す「気」が、違うのだ。


 澄み切った水の細かな粒子を纏ったような、清々しく潤う空気。思わず深呼吸せずにいられない、どこまでも穏やかに清浄な気配。

 この男の側にいるだけで、まるで深い竹林の中にでも立っているようだ。


「…………あのさ。

 とりあえず、あんたが何者なのか、それだけ教えてくれないか?」

「私は、雨の神だ」


「……」


 気づけば、旭は吸い込まれるように彼の目を見つめていた。

 彼も、静かに澄んだ眼差しで旭を見つめ返す。

 なぜか堪らなく懐かしい、深い水の色の瞳が旭を包み込む。


 ……なんだろう。

 この不思議な感覚は、一体——?

 おかしな問いかけが口から出かかるのを、旭はぐっと飲み込む。


 彼の美貌はどこまでもひんやりと透き通って、その奥を読みとることなどできない。

 ——けれど。


「……中、どうぞ。あ、散らかってるけど」

 自分の中で奇妙な感情が動くのを感じながら、旭はこの美しすぎる男をベランダから部屋へ招き入れていた。


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