ヒロインらしく恋をしろ? 時給いくらですか? ー貧乏一家出身キャバ嬢は厄介事に愛されるー
宮苑翼
第一章 舞台の幕が上がるまで
プロローグ
子どもの頃の夢はなんだった?お姫様になること?それとも、誰かを助けるヒーローかな?アニメや漫画に描かれる魅力的なキャラクター達。こんな風になりたいとか、こんな素敵な経験がしたいとか。きっと誰でも一度は理想の姿を思い浮かべたことがあると思う。
でもね、
「―――っぎゃああああ!」
これはない。
暗い視界の中、目の前に突然現れた幽霊のような男。身を隠しているつもりなのか、フードを被ったままこちらをじっと覗き込んでいた。
顔に血の気はなく、あるのは目元の濃いクマと伸ばしたままの無精髭。こちらの悲鳴など聞こえていないのだろう。生気のない瞳は、少しも揺らぐことなく私を見据えていた。
「シャーロットお嬢様!」
誰かの名を呼ぶ声と同時に、視界に光が差し込んだ。引きつる声を飲み込む。差し込んだ光は、男の姿をより鮮明にした。先ほどは幽霊のように見えた男だが、明るくなった視界では間違いなく、
「うぎゃああああ!(不審者だー!)」
室内に悲鳴が響く。誰でもいいからこの不審者をつまみ出してくれ。しかし私以外に男を不審者と糾弾する声はなく、男が慌てる様子もなかった。
恐怖に支配された思考の中、どこか遠くで雷鳴が聞こえる。徐々に大きくなる音は雨音だろうか。私の心音に合わせるかのように水を打ち付ける音が聞こえた。
そもそも、私はなぜ暗い場所で不審者にのぞき込まれているのだろうか。今日は金曜日。不景気故に陰りはあるものの、俗に言う花金だ。歓楽街が賑わう今日は稼ぎ時。私も他のキャスト同様出勤のはずだった。大学の講義を終えて店に向かったことは覚えているが、そこから先が分からない。
私は店に着いたのだろうか。今の時間は何時だ?無断欠勤はやばい。そもそも遅刻だってしたくない。しかしここが働いている店ではないのは確実だ。ホールを飾るシャンデリアもなければ、キャストが黒服を呼ぶ声も聞こえない。やっぱり時間に間に合わずペナルティ?サボる気なんてなかったのに、罰金なんてあんまりだ!
「シャーリー、」
目の前の不審者が誰かの名を呼び、私へ手を伸ばす。あれほど恐怖心を覚えた男の姿だが、どこか判然としないのは涙が滲む視界のせいか。それとも混乱する思考のせいか。
「うみゅああ……(もう無理)」
目覚めから混乱の只中にいた私を落ち着かせるかのように、意識がゆっくりと落ちていく。眠りにつく狭間、これだけはと強く願った。
――チェンジで!
少なくとも、私の理想は幽霊のような不審者との遭遇ではない。
鳥の囀りが聞こえる。瞼を閉じていてもわずかに感じる明るさに、暗闇からは脱出したのだと知る。疲れているためか瞼を開ける気にはなれず、微睡の中現状把握へと思考を切り替えた。
あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。暗い視界に唯一見えた男の顔を思い出す。幽霊のような男は、思い返すだけでも身震いがする異様さだった。あの後はやはり気絶してしまったのだろう。記憶を探ってみたものの、電源を落としたテレビのごとく瞼の裏には何も浮かばなかった。
「失礼いたします」
思考を遮るようにノック音が4回聞こえた。日本では3回のノックが一般的だが、プロトコール・マナーでは4回が正確だったか。そんなことをぼんやり考えていると、扉の開く音が聞こえた。
ここで初めて自分の身体の異変に気付いた。誰が入ってきたのか確認したいのに、身体が全く動かない。意識を失う前は、混乱のあまり身体を動かすという発想すらなかった。人は恐怖を前に身体が思うように動かせなくなるとよく言うが、まさにその通りだった。
だが、今は違う。恐怖に支配などされていないし、現状を把握するため身体を動かしたいと思っている。脳から信号も送られているはずなのに、私の身体は満足に動いてくれなかった。
「おはようございます。シャーロットお嬢様」
そう言って私をのぞき込んだのは、茶色い髪と瞳をした少女。長く豊かな髪は片方に流し、三つ編みでまとめている。歳は高校生くらいだろうか。どこか幼さの残る顔は、可愛らしい笑顔を浮かべて私を見ていた。
「今日は昨夜の雨が嘘のように晴れているんですよ。少しお外の空気を吸ってみるのもいいかもしれません」
にっこりと笑顔を浮かべる少女をよそに、私は再び混乱の中にいた。
意識を失う前、周囲が暗かったのはやはり夜だったのだろう。そうなると私はやはり店にたどり着かなかったのか。つまり無断欠勤。ペナルティ。
いや、そうじゃない。そこも重要だが、万が一ペナルティで罰金になるなら元凶に請求したいところだが!
「それに昨夜は旦那様が戻られたんです。今日はご家族でゆっくりとお過ごしくださいね」
少女の言葉に思考が戻される。罰金の有無についてはとても気になるところだが、一先ず置いておこう。
どうやら目の前の少女は私に話しかけているらしい。だが、その名は縁もゆかりもない外国名である。本名以外の名で呼ばれることに慣れてはいるが、それでもその名は日本名だ。いくら源氏名でも外国名をつけたりはしない。呼ばれるのが自分だと考えると、違和感の強すぎる名前は避けたかったからだ。
しかし、どういうわけか彼女は自分をシャーロットと呼ぶ。それどころかお嬢様という敬称つきだ。
自慢ではないが我が家は貧しい家柄だった。キャバクラでのバイトは自分の学費を補うため。奨学金は確かにあるが、あれはローン。要するに借金だ。将来どのような仕事につけるのか不透明なこのご時世、高額のローンを組むのは怖かった。
大層なことを言っているように思えるかもしれないが、貧乏人ゆえに将来への投資を尻込みしたとも言える。友人には、多くの人は普通に就職し返済していくのだから心配性すぎると言われたこともある。
ただ、私にはその将来を信じ切ることができなかった。奨学金を返済しながらも不自由なく生活するというイメージがわかなかったのだ。私にとって、借金の二文字はそれほどに衝撃の強いものだった。
昼は大学、夜はキャバクラでのアルバイト、空いてる時間は弟の世話。貧乏暇なしという言葉のとおり、毎日目まぐるしい日々を過ごしていた。そんな私だ、間違ってもお嬢様と呼ばれるような人間ではない。
話を戻そう。少女の言葉にはもう一つ大きな疑問点がある。それは、旦那様という敬称だ。これはどういった意味合いだろうか。私の家族らしいことはわかるが、父なのか夫なのか。はたまた兄弟が既に当主となっているのか。
いや、そもそもの話、私の家族とかけ離れすぎではないだろうか。私は両親と10歳下の弟との4人暮らし。弟はまだ小学生で当主になるなど考えられないし、貧乏一家の我が家には不釣り合いの敬称だ。その上使用人がいるなどどうかしている。
この状況はあきらかにおかしい。言いようのない不安がひしひしと胸に迫る中、目の前の少女が爆弾を放り投げてきた。
「ではお嬢様、旦那様に会いに行きましょうね!」
少女の細い腕が伸び、私の身体が宙に浮く。頼りなさそうは細い腕は、しかし私の身体をしっかりと抱えていた。
正直な話、もしやと考えてはいたのだ。思うように動かない身体に、自分を表すとは思えない名前。気づけば寝返り一つ満足にできていない。そんな身体があることを、私は弟を通してよく知っていた。
「うぅぅあぁ……(幼児か……)」
意識を失う前だって満足に言葉を発することはできていなかった。あの時は恐怖と混乱に頭をかき乱されていたが、今ならおかしかったとわかる。成人した身体が幼児化しているのは何故だと言いたいところだが、恐怖や混乱、違和感に苛まれた心は疲れ切っており、思考を続ける気になれなかった。
人は驚きすぎると一周回って冷静になるということか。それとも、この細い腕に不思議と安心感があるからなのか。どうせ思うように動かない身体だ。今すぐに何かができるわけでもない。その上、もうやめとけよと言わんばかりに思考する気力すらないのだ。ならばいっそ、今はこの状況に身を任せてみようか。
「シャーリー!」
聞こえてきた声に、身体がびくりと震える。私を抱えていた少女は、声の大きさに驚いたと思ったようだ。声の主にもう少し声を落としてほしいとお願いしている。少女の気遣いを有難く思うと同時に、そうじゃないと心の中で呟いた。私の身体が震えたのは、その声が昨晩聞いたものだからだ。
「おはようシャーリー、今日もとても可愛いね。まるで華の妖精みたいだ」
待ってほしい。本当に待ってほしい!
届くはずがないと知りながら声を上げるのは、目の前の男が原因だ。口元の無精髭こそ無くなったが、目元の濃いクマは今も強い存在感がある。昨夜あれほど恐怖した不審者に、私は笑顔で抱き上げられていた。
思い返してみれば、昨夜もこの男はシャーリーと私を呼んでいた。なるほど、愛称を呼ぶくらいに親しい関係性なのだろう。だがしかし、この関係性を何と呼ぶのか、私はその答えを出したくなかった。
正直なところ、薄々答えは分かっている。ただ、私の心が止まれと呼びかけるのだ。心に灯るのは赤信号。交通ルールは守らなければならない。
「こんなに可愛い子が僕の娘だなんて、今でも信じられない!夢を見ているようだ」
おい、ふざけんな。心底嬉しそうに語った男の言葉に、ぐっと息が詰まる。きちんと信号を守っていたが、どうやら車道から車が突っ込んできたようだ。私の回答を待つまでもなく、男の口から答えが告げられた。
誤解のないように告げておくが、私はこの男が嫌いなわけではない。好き嫌いを判断できるほど男を知らないのだから当然だ。
だが、昨夜を思い出してほしい。真っ暗な中、濃いクマと無精髭を蓄え、じっと自分をのぞき込むフード姿の男。合わさったのは幽霊かと見まがうような生気のない瞳。恐怖しかない。第一印象が悪すぎたのだ。どうしたって身構えてしまうことは許してもらいたい。
心の中でいくつも言い訳を並べながら目の前の男を観察する。目元の濃いクマは変わらないが、髭はなくなり生気のなかった瞳は嬉しそうにこちらを見つめている。クマのせいで不健康そうではあるものの、恐ろしさはない。
男の持つ黒い髪に黒い瞳は親近感を覚えさせた。その一方で、日本人と異なり顔の彫りが深いのが分かる。すっと通る鼻筋など、立体感のある顔立ちは異国の血を感じさせた。クールな印象を受ける目元や口元にある小さなほくろは、男をミステリアスに見せている。
ふむ、目のクマに意識が持っていかれそうになるが、よく見ると俗に言うイケメンだ。これまでくどいほどに目元のクマに触れてきたが、それほどクマの存在感が強い。顔の印象は?と聞かれたら濃いクマと答えるくらいには印象が強いのだ。整った顔立ちの全てを無に帰す酷いクマ。もったいないとため息が出そうだ。
改めて見た男の姿は、少々不健康そうではあるが昨日のような恐ろしさはない。流石に会う度悲鳴を上げたくなる相手が父親では心臓に悪いが、今の姿なら大丈夫だろうとほっと胸をなでおろした。
「ふふっ、旦那様はシャーロットお嬢様のことを本当に愛されておいでですね。お嬢様にもきっと伝わっているでしょう」
「そうかな。僕はあまり人付き合いが上手くないから……昨夜も泣かれてしまったし」
「まだお生まれになって半年ほどですもの。赤ん坊は泣くのが仕事と申します。それに、今は静かに旦那様のお顔をご覧になっておりますよ」
少女の言葉を聞いてハッとしたように男が私を見つめる。不安気に揺れる瞳を見ると、何だか申し訳なさが募ってきた。昨夜泣くことになったのは十中八九貴方のせいだけれども、こうして不安そうな顔をされるとどうにも落ち着かない。はっきりとした言葉は喋れないが、とりあえず声をかけようと口を開いた。
「あーう、(えーっと、)」
とは言え、何を言ったものか。気の利いた言葉も思いつかないまま呼びかけた。男は父親らしいが私にとっては初対面。まだ訳の分からないことが山積みの中、初対面の男性を慰めるなどできるわけもない。そもそも言葉も喋れずにどう慰めろと。なすすべもなく、固まったまま男を見つめた。
「い、今、声をかけてくれた…!?」
「はい、旦那様!お嬢様はしっかり旦那様を見ておられましたよ!」
「こんなに小さいのに、自分から声をかけることができるなんて!なんて優秀な子なんだ!」
ちょっと待ってくれ。なんか大事になっていないか。目の前の男は感激したかのように目に涙を浮かべているし、少女は満開の笑顔でこちら見つめている。両者ともに心底嬉しそうにしていた。男の不安げな姿に居たたまれず声をかけたに過ぎなかったが、ここまで喜ばれるとは想像もできなかった。
「あぁ、さすがマーガレットの血を引く子!きっと至らない僕を心配してくれたんだろう」
僕もシャーリーのお父さんとして頑張らないと!そんな声を上げ意気込む男をよそに、私はこの先の前途多難さに頭を抱えた。
ーーとりあえず、誰でもいいので現状説明してくれませんか?
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